第3話 奈々果
石の階段をおりて、小学校の前まで戻ってきたあたりで、若い女性と出くわした。
こんな村にまだ若い女がいたのかと驚いたが、相手もかなり驚いた顔をして、俺をまじまじと見つめてきた。
なんだか見覚えがあるような……?
「えっ、祥吾? なんで? 帰ってきたと? えっ、いつ?」
同年代の知り合いは村に1人しかいない。
「もしかして、奈々果か?」
「そうよ。わからんかった?」
彼女は笑った。
「久しぶりやったけん」
誤魔化すように笑みを返したとき、つい方言が出た。
「いい女になっとうけん、わからんやったんやろ?」
にやにやしながら、そんなことを言う。
「ばーか、そんな格好していい女もあるか」
奈々果は泥のついた白Tシャツにジャージのズボン、黒髪をポニーテールにしていて、手には軍手をはめていた。
「どう見ても農作業中のおばちゃんの服装やん」
「ひっど。まあ、農作業中ってのは正解やけどさ」
そう言って笑う奈々果は、別人のように綺麗になっていた。祥吾おにいちゃん、祥吾おにいちゃんとくっついて回っていた奈々果は、もっと野暮ったいイメージだったのだが。
「ねえ、何で帰ってきたと? もしかして、ここに住むと?」
俺の顔をのぞき込みながら奈々果が尋ねてきた。どこか幼さの残る小さな顔に、黒目がちの瞳が生き生きと輝いていた。
「いや、固定資産税のことで来ただけ」
「え、ああ、家の?」
普通そう思うよなあ。ところがそうじゃないんだな。俺が言いあぐねていると、
「ねえ、これからうちにおいでよ。9月なのにこの暑さやけん、喉が渇いたやろ?」と誘われた。
そう言われて、急に喉の渇きを意識した。そういえば飲み物なんかは買ってこなかったことを思い出した。この村に一つだけの売店は今も開いているだろうか。
「ね、来て?」
奈々果は俺の腕を引っ張ろうとしたが、軍手をはめたままだったのを思い出したのか、腕を組んで、引っ張るようにした。
かつて奈々果に腕を引っ張られて、拒否できたことなど一度もなかったような気がする。
古民家という言葉がぴったりくる奈々果の実家は、いまどき珍しい茅葺きの屋根だ。開けっ放しの門扉を抜け、10メートルほど歩いた先に玄関があった。庭先には倉庫が3つもあり、作業用の軽トラが停められていた。いかにも豪農の家といった感じだ。
玄関は卓球ができそうなぐらい広かった。すぐ脇に見える長い縁側には安楽椅子が置かれ、ばあちゃんが座ってうつらうつらしていた。
「お母さーん、祥吾が帰ってきた!」
奈々果は奥に向かって大声を出した。ややあって、エプロンで手を拭きながら、おばさんが玄関に現われた。
「あら、祥吾くんやないの、どうしたと。とうとう祥吾くんがあの家を相続したと?」
「いや、違うんです」
ちょうどいい機会だし、おばさんに相談してみるか。
「実はちょっと困ったことになっていまして」
俺はかくかくしかじか説明した。ふんふんと話を聞いていたおばさんと奈々果は、話が終わると、これは大ごとだと慌てだした。
「祥吾くん、それは大変やったね。これはこの村みんなの問題やけん、みんなで話し合うべきよ」
「お母さん、私、みんなに招集かけてくる」
「うん、そうしなさい。みんなが集まるんやったら、私もちょっと用意せないかんもんがあるから出かけてくるわ」
そう言って、二人は出て行ってしまった。
俺は一人、土間に残された。
どうしたものかと考えながら立ち尽くしていたら、ピンポンパンポンと村の防災無線からメロディーが流れてきた。まさか……。
「えー、八須見村の皆さん、緊急のお知らせです。神社の広場のことで問題が発生しました。どうしたらいいのかみんなで話し合わなければなりません。至急、大林の家まで来てください」
ピンポンパンポン、と放送が終わった。大林ってのは、奈々果の名字だ。
呆然と立ち尽くしていたら、奈々果が戻ってきた。
「あれ? 祥吾、何でそんなところで立っとうと? 冷蔵庫の麦茶は飲んだ?」
「いや、飲んでないけど。というか勝手にあがったりしないって」
あと、よそ様の冷蔵庫を勝手に開けたりしないぞ、俺は。
「えー、祥吾なら勝手にしても問題ないのに。ほら、上がって」
俺はおそらく5年ぶりぐらいに奈々果の家にあがった。昔から帰省するたびに奈々果の家にお邪魔して遊んだものだった。だが、両親が亡くなってからというもの、俺がこの村に帰省することはなくなっていた。
玄関を抜けて板張りの通路をとおり、畳敷きの大広間へと通された。
おそらく60畳はある大きな広間は、たしかに村人が集まって相談するには良さそうだった。
奈々果は冷房のスイッチを入れると、俺を部屋のど真ん中に座らせ、どこかへ消えた。
冷房から届く涼しい風が心地よい。
汗が乾いた頃、奈々果が戻ってきた。麦茶の乗ったお盆を持っている。
「はい、麦茶。喉かわいたやろ?」
と俺の前にガラスのコップを置いた。浮かんだ氷がカランと涼しげな音をたてた。
俺はありがたく頂戴し、一気に飲み干した。
一息ついて、ふと気づいた。
「あれ、奈々果、着替えた?」
「あ、うん」
さっきまで着ていた白シャツが黒シャツに変わり、ジャージの長ズボンが半ズボンになっていた。
「なんで似たような服に着替えたと?」
つい昔のような感覚でつっこみを入れた。
「うるさいなー、汗くさかったから着替えただけやもん。別にいいやん、同じような服でも」
奈々果は空いたグラスを持って、こちらに背を向けて部屋を出て行った。
そのとき、白いふくらはぎが目に入って、はっとした。奈々果は顔も腕も健康的に日に焼けていたが、足は輝くほど白かった。ほっそりとしていながら、触ったらむっちりとしていそうなふくらはぎは、もう子供の足ではない。大人の女の足だった。
奈々果は麦茶のおかわりを注いできたようだ。麦茶の入ったコップを俺の前に置いて、隣に座った。
「奈々果はこっちで暮らしとると?」
「ううん、大学が夏休み中やけん、農作業の手伝いに戻ってきただけ」
「大学!?」
俺は驚いた。
「何よ、そんなに驚く?」
「いやだって、まだ年齢が……え、何歳?」
「ハタチ」
なるほど。あの足も納得だ。
「もっと年下かと思っとった。俺と1個差か」
「もう、祥吾は忘れっぽいんやから」
急に何の話だ。
「1個下って説明するの、これが初めてやないよ」
「そう……だっけ」
もっと年下のイメージがあるせいで、脳が1個下という情報を受け付けないのかもしれない。
そうやってお互いのことを話していたら、玄関のほうが騒がしくなった。
と思ったら、見知らぬジイサマやバアサマが続々と広間に入ってきた。
「みんな勝手に上がってくるんだな……」
「まあ、ここではこれが普通よね。都会では考えられんけど」
奈々果はおかしそうに笑った。
バアサマたちは広間を抜けてどこかへ去っていったが、ジイサマたちは俺の周りに集まってきた。
「あら~、あんたが祥吾くんね。えらい男らしくなって」
いかにも人の良さそうな顔をしたジイサマが俺に話しかけてきた。
「山田さんが言いよったけど、あんた家を相続しとらんってねえ。気の毒か~」
山田さんってのは多分駐車場であった老人のことだろう。
がっちりした体型のジイサマが、俺の腕を掴んだ。
「まだ腕は細かねえ。ちゃんと食べとるか? 朝飯ば抜いたらいかんよ」
ひょうきんそうなジイサマが顔をのぞき込んできた。
「もう酒は飲める年やろ?」
さらに別のジイサマが笑った。
「なーん、まだ4時ばい。こんな明るいうちから飲む気ね?」
「そらそうくさ。歓迎の酒ば飲まんなならん」
「そうくさ、そうくさ。飲まんなならんって」
俺は残念ながら日帰りの予定だ。
「済みません、車で来てるもんですから、アルコールはちょっと……」
「そんなもん、今夜はここに泊まればよかったい。なあ?」
「俺、ちょっと酒屋まで行ってくるけん待っとって」
「あっ、そんなお気遣いなく!」
慌てて引き留めようとしたが、
「よかよか。みんな飲む口実ができて喜んどうだけやけん」と言われてしまっては拒否もできない。
「祥吾くんはちょっと付き合ってやってくれたらいいっちゃけん」
「そうそう。無理して飲ませよったら奈々果ちゃんに殺さるるけんね」
どっと老人たちが笑った。
「お酒は楽しく飲まんと。無理して飲むもんやないもん。ねえ?」
と奈々果は俺に向かって言う。
「そんなこと言うってことは、奈々果は酒好きか?」
まだハタチじゃなかったか? もうそんなに飲むようになったのか? 祥吾おにいちゃんとしては複雑だ。
「奈々果ちゃんは酒豪ったい」
「その飲みっぷりは、うわばみのごたある」
「違います! 誰がウワバミよ!」
奈々果がムキになってそう言うと、老人たちは再び笑った。
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