第7話 なが~~~い、ゆーはいむのれきし
カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイム。
西暦一八八六年十二月二十五日、ドイツ帝国のプロイセン王国ヘッセンのナッサウ州カウプ・アム・ラインで、父フランツと母エマの間に、十番目の男子として生まれた彼が菓子職人の道に入ったのは十代の頃。
西暦一九〇八年、明治四十一年。
当時ドイツの租借地だった中国の青島に渡り、菓子・喫茶の店に就職。
翌年、二十三歳にその店を譲り受けて独立。
この年より、ユーハイムの創業ははじまった。
当時から彼が作るバウムクーヘンは好評で、店は大繁盛。生地を焼き重ねていくバウムクーヘン作りは工程が複雑で、熟練の技が必要だった。腕の確かな彼は、ドイツ菓子マイスターの資格も取得。二十八歳のときにエリーゼと結婚。二人は将来アメリカで店を開くという夢を抱きながら、青島での新しい生活をスタートさせた。
ただし、幸福な時間は長くは続かなかった。
まもなく第一次世界大戦が始まり、青島はドイツに宣戦布告した日本軍によって陥落。開戦翌年の一九一五年、大正四年、日本軍の捕虜となり、妻子を残したまま大阪、そして広島の似島収容所へと移送された。
一九一九年、大正八年。
広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれた似島収容所ドイツ人捕虜製作品展覧会にてバウムクーヘンを出品。材料集めに苦心したものの、自慢の腕を活かし、ドイツ人としての誇りとお菓子への情熱を一層一層に込めて焼き上げる。樫の木を芯棒にして手でまわしながら生地を掛けていくという非常に手間と時間のかかる製法だった。
これが日本最初のバウムクーヘンである。
しっとりとしたおいしさは、会場を訪れた日本人を驚かせ、あっという間に売り切れたという。日本人の口に合うよう、バターの量を少なめにしたのだ。日本軍に占領された時の経験から、彼は日本人の好みをよく知っていたのだろう。
戦後、捕虜生活から解放されたカールはドイツにも青島にも戻らず、明治屋が銀座に開店した喫茶店の製菓部主任として働き出した。仕事熱心で妥協を許さないカールが作るバウムクーヘンは、ここでも大きな評判になる。客からの注文に応じ、ひとつひとつを正確に切り分けて販売。
ちなみに、一九六〇年代に入るまで、バウムクーヘンはピラミッドケーキと呼ばれていた。
家族を青島から呼び寄せ、一緒に暮らし始めたのもこの時期。経理の知識があったエリーゼも同店で働き、カールを手伝った。
三年の契約終了後、ユーハイム夫妻は横浜でレストランを経営しているロシア人から、「店を譲りたい」という話を持ちかけられた。店は不人気で客も少ない。夫妻は断るつもりだったが、「神の声を聞いた」というエリーゼが考えを変え、店を購入することにした。
開店は一九二二年、大正十一年。
エリーゼの名を取り、店名は『E・ユーハイム』にした。
前の持ち主の借金を引き継ぐという厳しい条件だったが、バウムクーヘンはじめ、カールが作る洋菓子なら客を呼べる。しかもエリーゼは、近隣の店より格段に安いドイツ風ランチを出すことを思い付き、これが大当たりした。
日本人客や外国人客が次から次へと来店。初日の売上げは百二十五円(現在の価値でおよそ五十五万円)。出店は大成功だった。
だが、夫妻は再び大きな不運に見舞われる。翌年の関東大震災で横浜の街が壊滅。ユーハイム夫妻と幼い子供二人は倒壊した店から逃げ、被災外国人を受け入れている神戸へと向かった。この時、カールのポケットに入っていたのは五円札が一枚だけ。白米二十キログラム分の所持金が、彼らの全財産だった。
知人の家に身を寄せた一家は、新天地となった神戸で再起を図る。横浜同様、神戸には昔から多くの外国人が住んでおり、洋菓子の需要は充分にある。店舗を借りることになった三宮近辺に外国人が集まる喫茶店がなかったことも、プラスに働いた。
一九二三年、大正十二年。
救済基金から借りた資金を元手に、夫妻は菓子・喫茶店『JUCHHEIM'S』を開店。目玉商品はもちろん、カールが作るバウムクーヘン。店には横浜時代から外国人や日本人の職人がいたが、バウムクーヘンだけはカールが自分の手で焼いていた。マイスターとしての誇りが、人任せにすることを許さなかったのかもしれない。
開店当日から大賑わいだった。
初日の売上げは、横浜店を凌ぐ百三十五円四十銭。カールが作るバウムクーヘンは口伝えで人気を博し、開店一年後には大阪や神戸のホテルからも注文が入るようになった。夫妻は店舗近くに土地を借り、新しい工場を造った。
全てが順調だったわけではない。神戸の大丸が洋菓子部門を始めると、バウムクーヘンだけでなく洋菓子全般の販売に陰りが見えてきた。弱気になったカールや職人たちに向かって、妻エリーゼは語りかけた。「私たちは最高の材料と最高の技術でお菓子を作っています。心配ありません」と。
この言葉に勇気づけられたカールは、全国から意欲あふれる職人を集め、窮地に陥っていた店を復活させた。
経営が安定したユーハイムだが、世の中は巨大な暗雲に包まれつつあった。
第二次世界大戦が勃発、ユーハイムの職人たちも次々と召集されていった。材料が手に入らないので、洋菓子作りもままならない。
一九四五年、昭和二十年。
六月の神戸大空襲で工場も焼け落ちた。
同年八月、終戦前日に、妻に看取られながら息を引き取る。
「神様か、菓子は……」それが彼の最後の言葉だった。
終戦後、エリーゼはドイツへ強制送還された。終戦前に娘と夫を亡くし、戦争で息子を失った。夫婦の命といえる店も閉鎖され、すべて消えてしまったかに思われた。
だが、カールが育てた職人たちが残っていた。戦場から帰ってきた数人の職人たちが中心に一九四八年、昭和二十三年、任意組合『ユーハイム商店』を設立。一九五〇年、昭和二十五年に株式会社ユーハイムに改め、神戸の生田神社前に店舗を構えて復興への足がかりを作った。
――その三年後。
会社はドイツからエリーゼを呼び寄せ、会長として迎え入れた。エリーゼは既に六十歳。普通なら引退する年齢だが、彼女は違った。毎日店に出て客の相手をする。戦前と同じように、商品の並べ方や従業員の教育にも気を配った。一九七一年、昭和四十六年、七十九歳で亡くなるまで、エリーゼは神戸の地を離れなかったという。
無理な東京進出や神戸工場消失などから経営危機に陥るも、取引先のひとつだったバター工場社長、河本春男を専務に招き入れ、再建を果たす。河本は看板商品のバウムクーヘンを販売の前面に押し出し、全国への出店を加速。一九七二年、昭和四十七年にはユーハイムを全国三百店規模の洋菓子メーカーに育て上げた。一九七六年、昭和五十一年には、逆上陸の形でドイツのフランクフルトにも店を出している。
ユーハイムの標榜は、まっすぐなおいしさ。
カールの「純正材料がおいしさの秘密」、エリーゼの「身体のためになるからおいしい」という、創始者二人の言葉からきている。
使用するのは自然材料のみ。バターは無塩の「特級バター」を使い、微妙な塩加減は後から調整する。砂糖や卵なども、可能な限り身体にやさしいものを選んでいる。乳化剤や膨脹剤などの添加物は一切使わない。コーティングにチョコレートを使ったり、風味を変えた商品を作ることはあっても、生地の基本は百年前から今に至るまで全く同じ。安易に流行を追うことなく、古き良き伝統を守り続けている。
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