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「今頃お前の主人も全く同じことをやっているだろうな」


 なんて男が言いながら、私の手の甲を上向きに固定している。だんだん指が一本も――一寸も動かなくなる。私はもうひとつの密室のことを考えた。はやくゲームが終わってくれないだろうか。いますぐにでも外から扉が開かないだろうか、しかしその気配はおろか、兆候すらまったく感じさせない。

そして男は鞄の中からやっとこのような、鋏のような奇妙な道具を取り出し、それを誇らしげにランプの下に掲げる「――どう思う?」


「やめてください」


構う素振りもない。


「今からお前の爪を――」


「やめてくださいっ…!」


「合言葉を言う気になったか?」


「……」


「今からお前の指の爪を剥がす。指の爪を全部剥がし終わったら、今度は両足を潰す。そうなったら前はもうおしまいだ。たとえお前がこの先奇跡的に生き永らえたとして、溝壑ドブにくたばるのが精一杯だろう。足が不自由では口に糊することもかなわんからな」


「お願いですからっ…やめてください!!」


「まあ尤も、お前はその前にゲームが終わったら今の主人に殺されるだろうが」


「そ、そんなこと……」


「黙れ! いいか、よく聞け、お前の主人はこれをただの遊びでやってるんだぞ、金目当てでなく、単なる遊びでだ! ケチな俺は金目当ての小遣い稼ぎにしているところもあるが、あいつはそんなものとは全く無縁のくせに、今まで何回だって、何十回だって箱とびらゲームの試合をやってきてやがる。狂っているだろう? 拷問狂の病、膏肓に入るというやつだ。あいつは悪魔であって、断じてお前の恋人ではない」


金目当てでなくて、遊び…? そんなことはまったくのつくり話で、ほんとうのご主人様は、いま苦境に陥っていなければならない。でも、何十回もこのゲームをやっているって、それって私の前に奴隷が何十人も居たということ……?


 無視しないといけないはずだったのに、少し考えこんでしまう。いや、これは全部この男のつくり話だ。考えるまでもなく、そうに決まっている。デタラメ。きっとそう、この男とご主人様が知り合いだというところから――すごいことに――全部嘘なのだ。だってもしそうでなければ、ご主人様とこの男が知り合いなら、ご主人様から作戦会議のときのその話が出るはずだもの。「今度の相手は私の知り合いのこういうやつだ」って。絶対にその方が勝つ確率が上がるはず。でも……どうしてご主人様は独身でずっと通しておられるのだろう、良い相手が見つからないのだろうか? いや待って、この男の言うことは全部嘘で――


「あ」


気が付くと爪剥がし具が薬指にセットされていた。

男の顔がこの上なく残忍に、神妙に、森厳に、歪む。喜悦の咲み。

彼がにったりとして意識をそちらへと向けさせる。


「準備はいいか?」


「いや―――ゆ、ゆるし…」


しかし返ってくる朗報はなく

「いいか?」


「やめてくださいやめてください」


「い・い・か?」


「いやだいやだいやだいやだいやだいやだ」


いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ


グリッ


鮮血は、針のように飛び散った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

………痛かった。尋常でなく。まさに死ぬほどの痛み。指の中に火が入っているかのように傷口は燃え、どんなに願っても治まらない。それに自分の体が壊されていくことがこんなにつらくて……私はご主人様のものなのに、ご主人様のものである私の体が壊されてゆく、そのことが何よりも怖かった。ぼろぼろになった私の姿をみて、ご主人様は何を思うだろうか。壊れた玩具を連想し、要らなくなった私のことなど捨て去ってしまうのではないか。いやだ、捨てられたくない、だからお願いします、どうか私のことを壊さないで――と私がどんなに訴えかけても、男の方は無言で何も喋らないという、いわば最初の状況とは真逆の立場でそこから先は進んだ。私は何を叫んだのかわからないけれど、少なくとも合言葉だけは吐かなかったのだろう、男はあくまで冷酷に処置を続けた。いや、冷酷というには、その瞳にはいささか爛爛とした火が灯り過ぎていたかもしれない。

 剥がれた爪が一箇所に――小さな小瓶の中に――集められてゆく。吐き気がする。眩暈も。どうしてこんな目にあわなければならないのだろう……。こんなの、檻に入れられていた時のほうが何倍もましだ。比べ物にならない。私はご主人様と出会えて幸せだったけれど、私は今解体されようとしている、私は今死に掛けている、私は済し崩されてる、生きながらにして解剖され、私は今死にゆく、私は、私は――


もういやだ。

なぜ、私ばかりがこんな目に遭うのだろう?

もしかして、どこかで間違えたのではないか?

だからいまこんな地獄を見ている。

ご主人様はまだ助けに来てくれないのだろうか?

――私は、本当に幸せになれるの?

今あるこの不幸から逃れることが、不確実な幸せを求めることよりずっと大切なのではないの?

得ようとしている幸せ、それはご主人様から愛されること、彼の危機を救って、ふたりで新しい生活をはじめること。だけれど、私は本当にご主人様から愛されるべき人間? こんな何の取り柄のない、魯鈍な少女が、彼の許でこのままずっと愛を享けるなんて、あまりにも出来過ぎた話にちがいない。誰か私の夢を「当たり前だ」と言ってくれる人が居たらいいのだけれど、残念ながらそんな人は居ない。どこにも。多分みんなそれは「おかしい」と言う。

だから、もう諦めて、信じるのをやめようよ。

ご主人様は最初から私をこのゲームに参加させるためだけに拾ったのだ。そして私に忠誠心を抱かせるために、あんなにも熱心に世話して、愛し合って、君の事が好きだよと言って、期待を抱かせて――それはすべて仕組んだこと。私のことなんて、ほんとは少しだって愛していなかった。ふりだけ、態度だけ、そうしたほうがゲームで頑張ってくれるから演じただけ――。そう思えばお金が無くなったというのも、きっとご主人様のついた嘘なのだろう、ゲームに参加させるための口実。私はそれにまんまと騙されて、こうやって拷問に耐えている。

それが終わったらみじめに捨てられる運命。ご主人様はまた次のゲームをするために、新しい奴隷を見つけてきて、一から仕込んで、私は――何の取り柄もない樗才の古い奴隷は――処分されることになる。だって最初から遊びだったんだもの。ただの気紛れで命を救っただけのどこにでも居るような普通の少女が、このゲームでどれほど役に立つかを知るための実験。たわむれの一擲。ご主人様が私にかけていたのは、実は親愛でも憐憫でもなく、ただの倍率オッズだったのだ。


男が私の足の指を金槌で潰していく――


いいえ、ほんとは私がそう思いたいだけ。これから自らの主人を裏切ろうとしている或るひとりの哀れな奴隷しょうじょが、自分自身を騙すためにつくりあげたみすぼらしい虚像。

 だって……もう何も思い出せないのだ、彼の愛撫も、愛の言葉も、柔らかな仕草も、優しい瞳も、詩篇を読むときの穏和な声も、私だけにささやきかけてくれる甘い彼の姿はみんな、幸福と一緒に幻の彼方へ消え去ってしまった。もう何もかもどうでもいい。だから、許されるでしょう? 許されると思うの? 仕方がないでしょう? 仕方がないと思うの? あなたは誰? 誰って、私は真実のあなたの気持ちよ? うるさい、私が今感じてる気持ちなんて、あんたには到底わからない――!

 嗚呼、今ある苦痛だけをただ逃れたいという刹那的な欲望が、愚劣な衝動がただわきおこる。それはとても甘美な悪魔からの誘惑で、その悪魔はどれほどの力を神から与えられているのだろう。

 助かりたい。何としてでも助かりたい。今すぐにでもこの苦痛から逃れたい! 浅ましい裏切り行為だとしても、私はもう耐えられない。だって、どうせご主人様は少しも私のことを――



 正直に書く。私はご主人様の愛を信じることができなかったのだ。

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