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誘惑は乗り切った。それもご主人様と事前に打ち合わせしておいたお陰で、彼はこのゲームで起こりうることのすべてを、あらかじめ私に学ばせてくれた。他の手段も色々と知っている。だから、口先なんて、怖くない。
「わかった、分かった。このまま一生沈黙を貫くつもりか」
黒い衣の男は、破顔一笑して部屋の中を闊歩する。私は椅子から動けない。
男が私の後ろに回り込む。いよいよはじまる……と覚悟する。目の前に拘束されている人間が居て、その人間にどうしても喋ってもらわなければいけない事柄がある場合、人はどうするか。考えたくないけれど、頭の中にさっきのナイフを使ったいかにも血なまぐさい光景が浮かぶ。
でも、怪しげな鞄はまだ私の視界にある…だからもう少しだけ始まらないと、私は心の中で
「お前も本当に可愛そうだな。人の言うことが信じられないか」
男が私の髪を勝手に梳く。否応なく、否定できない直観として、品定めされる気配を感じる。
「それとも俺の言うことだから信じないというわけか……図星だろう」
私は黙って、一言も喋らないでいる。このまま、このまま無駄なことをしゃべり続けてくれればいい。そしたら、じきご主人様がこの男の奴隷から合言葉をすばやく聞き出して、きっと私を救ってくださるだろうから。描き続ける勝利の
「だがな、考えようによってはお前の「ご主人様」の方がよっぽど嘘つきかもしれんぞ」
……そんなわけがない。
「どうせ、このゲームに勝ったらお前のことを自由にしてやるとか、大金持ちにしてやるとか、あるいはお前と結婚してやるとか、そんな約束をしているんだろう。だからこの話にも耳を貸さない。お前、だが騙されているぞ」
私は……黙っている。
男はまるで時間に追われているかのように早口でまくし立てる。
「『自由にしてやる』『金をくれてやる』『妻にしてやる』、お前の主人は最初からそんなことを微塵も考えていやしない。勝ったお前に用意される自由は片足で街中に放り出されてくたばる自由だ、金なんて一銭も出やしない、……なぜ出ると思う? まして妻など笑わせるな、だ。このゲームに参加した奴隷は必ず傷物になるが、そんなことはお前の主人も大方解っているはずだ、ならなぜそんなに大事に思っているはずの奴隷を、わざわざこのゲームに参加させるのだろうな? ふむ……辻褄が合わん、忠誠心の高い奴隷と言えば聞こえはいいが、裏を返せばそこまでしなければ忠義が確かめられないような素性の知れない馬の骨ということだろう。貴族はそういう輩を最も嫌う……野蛮人の次にな」
そのときこの男が私の表情を注意深く伺っていたとしたら、その瞳には何が映ったのだろう。
わからない。
「お前は、このゲームに参加させるためだけに調教されたのだ。終わったら捨てられる運命! なぜなら………ならばなぜ俺と取引しない? 即裏切れば、賞金の取り分は五割といったところだぞ」
男はさぞかし醜く笑った。こんな約束、守られるはずがない、守れるはずがないと自分でも思っているのだろう。
でも、このとき私はまったく別のストーリーのことを頭で考えていた。ご主人様が私のことを見捨てる……そんなこと有る筈がないけれど、もしそうなったら、私は何の為に……そんな空想を破り捨てる、何の為に必死に――けれどその逡巡は、すぐ男の言葉によって遮られる
「いや、そんな約束は守られても守られなくても構わない、そうだろう? 命こそが大事だ。何よりお前が合言葉を素直に白状して今すぐこのゲームを終わらせれば、五体満足のうちに俺の軍門に下れるということがわからんのか?」
時間が経つと無事では居られない、そう言っているのだ。
男は訴えかけながら、私の、肩やら、腰やらにやおら手を伸ばす。
私を耳を貸さないつもりでいる。何もしてはいけない。反応を示しては。
相手の奴隷が合言葉を白状するまで、自分はただひたすら辛抱し続けていれば良い。私にとっては、これは何をされてもただひたすら我慢すればいいだけのゲーム。そんなにも簡単。
いいや、ちょっと待って、このまま私が黙り続けていれば、男はじきに我慢できなくなって拷問を始めるだろう――ワインの栓抜き――けれども私が形だけでも男の言葉に応じた振りをすれば、それでもう少し、少なくとも黙り続けた時よりはちょっとだけ時間が稼げるかもしれない。
そこで、私は話を引き伸ばすことにした。
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