8:


 ご主人様はすべての貴族が嗜むようなことの内、遠い昔の時代に作られた詩を口ずさむことを特に好んだ。今ではもう見られない牧歌的なところが好きなのだと仰っていた。たしかに私の送っていた田舎での生活はひもじすぎて、とても詩に書いて褒めていられるようなところは無い、牧羊も痩せているし……そんなことを正直に報告すると、ご主人様はこらえきれず笑った。


 ある日、見たこともない言語で書かれた詩の一節をご主人様は私に開いて、それを暗記するよう示した。メメント・モリ――ご主人様の一番好きな言葉だそうだ。

 私は今まで知らなかった2つのことを知れて大いに喜んだ。ひとつは、自分とはわけ隔たった広大な異国語の世界があるということ、もうひとつは、ご主人様の一番好きな言葉フレーズが分かったということ。この2つの喜びに見舞われることは、他の分野でも珍しくない。まさに嬉しさの連続。――もちろん、嫌な出来事もあったけれど。それは大抵、自分が奴隷であることの立場を思い知らされるときだった。執事さんに小言を言われるとか、メイドから冷たくあしらわれるとか、それらから彼は守ってくれるけど、一緒に外に出ることはできない。公的な場に彼は行く。そこで私は留守をするから。その頃は、まだ字も書けないような小娘が、彼と一緒に行っても恥をかかせるだけ、一体自分は何と生意気なことを望んでいるのだろう――なんて思っていたっけ。結局、字が書けるかどうかは、その唯一かつ絶対的な基準の前には関係ないのではないかと、そう思うのが何よりも怖かったのだ。


 それでも、嫌なことにはめげずに、私はだいたいの日々を幸せで過ごした。深まってゆくご主人様との仲とメイドとの確執のあいだで、私の優越感は日増しに増していった。

 私は必死になって、せめて貴族のような趣味と生き方だけでも身につけようとした。ご主人様と釣り合いのとれた地位の女性たちに、その上っ面の立回りでだけでも追い付こうとしたのだ。その甲斐あって、今では良い紅茶と悪い紅茶の違いくらいは分かる。全て彼に教えてもらったこと。でも貴族と結婚できるのは貴族だけ。それは動かしようもない事実で。けれど妾になるのだったらなんとか出来るかもしれないと思い始めたのも、物事がようやくわかってきた頃だった。でも、終わりは意外に早く訪れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る