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 奴隷【どれい】:決意するだけではどうにもならない、何とも無力な存在。



 じきに、私は死を覚悟するようになった。弱って、誰にも守られず、だんだん衰弱してゆく野犬の死。発熱で朦朧として、自分が何に泣いているのかさえわからない、悲しいのか、それともくやしいのか。普通ひとは何か理由があって怒るとか悲しむとかするはずなのに、あのときの私は、混乱のあまり、その理由が何であるかさえ忘れていたと思う。それでも人は怒るとか悲しむとかできるというのは、一体どういう訳なのだろう――?


 今でも空腹はおそろしい。不十分な食餌のせいで慢性的な空腹状態にあったところに、何食も抜かれてはたまらない。頭の中がまわって、木の木目がザッハトルテに見えてくる。だいたい『売れない』というけれど、もっと良い環境で陳列してくれても良かったではないか。そしたら売れたかもしれないのに……あの店主ときたら、こんなみすぼらしい檻に入れて、酷い仕打ちばかり……でも、ここへ来たばかりの私だったら、到底そんなことは考えなかった――どんなに快適な檻でも、そこへ閉じ込められ陳列されて、売られていくのは嫌だったに違いない。

 そんなとき、どこからか馬車の音が響いてきた。それは気のせいだったかもしれない。でも、あの人がやってきたのは紛れもない事実で。確かに私はそのとき、前触れを、感じた。


深い霧の向こうから太陽が昇りかけてきた。


 黒いスペンサーを纏った長身の若い男のひとが、店の中にゆっくりと、信じられないほどに上品な身のこなしではいってきた。なんだろう、あの男の人は。と、まわりの女の子たちがみんな黙って不思議がる。


「――……」


店主がやけに丁寧に対応する。二倍も年上の老人客にも見せたことのない、最上にへりくだった態度。その人は2,3言返答をかえすだけ。


「どうぞ、ごゆっくり見ていかれましては…」


店主はその男の人が帰ることを随分と恐ろしがっているようだった。出口をそれとなくふさいで、彼の巨体が外の光を遮って、そのせいで店内が一段と暗くなるのが分かった。

 正直、私はそのときかなり売られたかった。今ここで売れなければ死ぬにきまっているのだから、当然とはいえ、なんて現金なんだろう。けれど他の女の子たちも、いっせいに色めきたって檻のはしへと走る。中には私より必死な娘。自重して、私は死ぬのに。

 店にいて幾分も経たないうち、彼はたちまち全員から羨望の的となった。多分、ご主人様がかっこよかったからだけとかではなくて、その身なりがどう見ても「本物の貴族」だとわかるものだったからだと思う。そうでなければ店主の顔色がこんなに変わったりはしないし、本物の貴族でなければ、こんなに上品で物憂げな雰囲気を出せるものではない。彼を見ると、普段私たちをどこまでも値切って買っていくあの醜怪な老人たちは、きっと成金の商人か何かだったのだろう。それは卑しくて、お金だけ持っているやぼったい獣たちのこと。ああ、今まで正真正銘の貴族がこの店を訪れたことなどなかったのに、私たちはいったい何に怯えていたのだろう! 畏怖するとしたら、ひざまずくとしたら、自尊心を捨て慈悲を乞うとしたら、いまのこの人だけで十分! ――そんな気分。

 私は祈るような気持ちでご主人様を見つめた。目が合えば……目が合うだけでそれでいいのに。それは、目が合って無視されるならまだ諦めもつくけれど、一度も見られないまま、置き去りのように衰弱して死んでゆくのは自分が悲しすぎるから。

だから、せめて一度だけ目を合わせてください。

その祈りは、通じた。

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