第6話
――春野香織視点開始。
私はテナーサックスを首から下げながら、由利香と田代君?――あの、少し間の抜けた男子――とは違う部屋で、先輩からテナーサックス?について教わっていた。
「とりあえず、ネックまでで音を出してみるか」
「りょうかいでーす!」
「じゃあまずは、咥え方だな」
「くわえかた」
先輩はおもむろに下唇を巻いて、私に見せてきた。
「こんな感じの口で、マウスピース――マッピを咥える。やってみ?」
「えっほ……ほんら感じれふか(えっと……こんな感じですか)?」
「あ―そんな感じ! もうちょっと浅く咥えて。ちょっとだけ」
言われた通り、咥える位置を浅くする。
……なんか、違和感を感じるな。なんでだろ。
「下唇噛みすぎかも。そんな深く嚙まなくていいよ」
「ふぁい」
「うん、うん……そんな感じ。それで、思いっきり息入れてみて」
ぷー……
ネックから出てきた音は、決していい音とは言えず、どちらかと言えば気の抜けたコーラみたいな音だった。
「おおー! 出たじゃん! すげぇ! 天才!」
「そ、そうですかねぇ……?」
ちょっと音が出ただけなのに、先輩は過剰なぐらいほめてくれた。そんなに?
そんなにすごいの? これ?
「一回目で音が出るのはすげえよ!」
「ほ、ほんとですか? ……本番までに、間に合いますか?」
本番まで三週間と聞いた時の二人の表情は筆舌に尽くしがたいと言わざるを得ない表情をしていた。
もちろんこの新入部員お披露目会は、ただの内輪でのお披露目会だから、そんなに本気になる必要なんてないんだと思う。
でも、あの二人は本気だ。一つ一つの本番に本気で容赦なく全てを費やして、本番ではすました顔をして素晴らしい演奏をする気だ。
それをするにあたって一番の障害は、私だ。
私はそこまで本気ではない。
もちろん、うまくふけるならそれに越したことは無いけど……RPGで例えるなら初めの村に魔王が来て、勇者をけちょんけちょんにする負けイベの対策をしている感じ。
だから、そこまでの気概はない。けれど、あの二人の邪魔はしたくない。
周囲の音が聞こえない防音室で、聞こえるのは自分の息の音だけ。
先輩は少し驚いたように、申し訳ないように私のことを見ていた。
「……そこまで、本番のことは気にしなくていいんだぜ?」
「二人の邪魔はしたくないんです」
そういうと、先輩はさらに苦い顔をした。
「はじめぐらいは、楽しんでほしかったんだが……」
ぼそりと、思わずこぼれたのであろう先輩の言葉を聞いて、なんとなく私は察した。
ああ、あの二人がやろうとしているのはRTAと同じなんだ、と。
RTAは簡単じゃない。フレーム単位で時間を切り詰め続け、最短距離で最適解を常に出し続ける。
何十、何百と同じ動きを、本番一回で成功させるために練習する。
自己新記録を出してもまだまだ上がいて、ワールドレコードだって今すぐに抜かれてもおかしくない世界で。
ゼロコンマ数秒の世界で戦う私たちと、あの二人はきっと同じくらい大変なことをしているのだと。
普通にプレイするだけならゲームは楽しい。でもそこにタイムアタック要素が入った瞬間にそれはとても大変になる。神経を磨り潰すものになる。
だからこそ先輩は、最初のゲームの面白さを私に教えたかったんだろう。
でも、大丈夫だ。
一見無意味に思える行為には、いくつもの必要性が秘められていて、
高みに上るためならそれらが必要なことを私は知っている。
そして、その高みを完走した後の全身がしびれるほどの多幸感を私は知っている。
だから。
高みを目指す二人の邪魔だけは、したくない。
「私なら大丈夫です。あの二人が驚いて全身の体液吹き出しちゃうぐらい上手になるために、指導よろしくお願いします!」
そして、違和感の正体に気が付いた。
先輩は、昨日初めて私と会ったときみたいに、下心をもって私のことを見ていなかったんだ。
いつの間にか、男の人からの視線になれて、麻痺してた。
なのに、先輩は、そんなものが全くない、真摯な瞳を私に向けてきていて。
それがとっても不思議で。
「なんで先輩は今、下心持ってないんですか?」
思わず聞いてしまった。
先輩は、びっくりした後、一呼吸置いて、少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「中二病みたいな言い方になっちまうけど……音楽をやるうえで、今は不要だから? ってか、考えてすらなかったわ。ほら春野さんだってRT……A? だっけ? それをやってるときにキャラクターがイケメンとか、どうでもいいだろ?」
「それはそうですけど……」
「田代も最初は鼻の下伸ばしたけど、多分曲吹いてるときはそういうのなくなるんじゃねぇかな。あいつはなんだかんだで、誰よりも音楽に真摯に向き合ってるから」
「そう、なんですか」
大丈夫だ。
どんな世界で戦うことになったとしても。
私はワールドレコード保持者だ。努力は裏切らないことを知っている。
私なら出来る。少し震える手を握りしめて、自分に活を入れた。
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