第2話
「初めまして! 春野香織(はるのかおり)です! 楽器は初心者だけど……頑張ります!」
初めに部屋に入ってきた、元気な声の女子が最初に自己紹介をした。
チョコレートみたいな暗めの茶髪はポニーテールにまとめられ、快活で大きな瞳が真昼の太陽のようにきらきらと輝いている。スカートは長すぎず短すぎず、ちょうどよい長さに折られている。
そして……何がとは言わないが、でかい。本当にちょっと前まで中学生だった? ってぐらいでかい。
眼福です。
男の性(さが)だからね。仕方ないね。
先輩も恐らく同じことを思っているのだろう。鼻の下をだらしなく伸ばしながら彼女のことを見ている。気持ちはわかるが表情に出すぎである。エロおやじかよ。
俺はあんな顔はしないぞ、と必死にきりっと表情筋に力を入れた。
そんな俺たちの様子を見て、由利香と呼ばれていた例の彼女がボソッと呟いた。
「……きも」
その一言は僕の胸をぐさりと突き刺し、その後に心臓ごと抉り出すぐらいのダメージがあった。
つまりは即死だ。今までありがとうございました。俺たちの冒険はこれからだ。
しかし、心臓がつぶれても数分は生きているという。それに倣えば僕もまだ生きている。
ならば残る力を振り絞って、彼女への心象を少しでもよくしようではないか。
「ほんとですよ先輩! きもい! ありえない! 流石デリカシーを母親のおなかの中に置いてきた男!」
高速擦り付け。僕は悪くない。
まったく先輩ったら、年頃の女の子をそんなじろじろ見るなんて……
しかし、それで黙っているような先輩ではない。
「なっ……お前だって春野さんのこと、じろじろとエロおやじみたいな顔してみてただろうがっ!」
「見てないですがぁ~? 先輩がそうだからって男子全員そうだと考えるのって、どうかと思いますよ?」
「うーん、私的にはどっちもエロおやじみたいだったかな! 喧嘩両成敗!」
醜い男同士の争いを止めたのは、春野さんの一言だった。
誰がエロおやじだ。
喧嘩両成敗という言葉をここまで憎んだことは今までの人生で初めてだ。
しかし、ばれていたのなら仕方がない。異性からのそういう視線は不快だとよく聞くし、ここは素直に謝っておくのが最善のはずだ。
「「すいませんでした」」
「慣れてるからいいよ? やっぱりこの、おっぱいのせいだよねぇ……邪魔だなぁ」
「私への宣戦布告?」
「そんな怖い顔しないでって。ほら、由利香のそれはキャラに合ったサイズ感というか、そういう感じだから。スピードフォルムみたいなものだから」
ポケモンかよ。そこそこ失礼だぞ。その例。
ただ、言いたいことはなんとなくわかる。彼女は確かに大きいわけではないが、大人しい彼女の見た目にはよくマッチしている。
やっぱりクールキャラは貧乳のほうがいいよな。貧乳なことがちょっとコンプレックスな感じが最高。
つまりはそういうことである。
「それより、ほら。由利香も自己紹介!」
「……私は別に入るって決めたわけじゃ」
おい、なんで今ちらっとこっちのほうを見た。
僕のせいで入りたくなくなったってこと? そういうこと? 泣いていい?
入部に後ろ向きな彼女を、春野さんが押して押して押しまくる。
いいぞ。相撲だったら寄り切りだ。出しちゃってるじゃん。
「とりあえず自己紹介はしときなって! 入部するかどうかは置いといて!」
「はぁ、わかったわよ。榎本由利香(えのもとゆりか)です。とりあえず今日はよろしく」
白くて長い髪をさらりと揺らしながら彼女――榎本さんは自己紹介をした。
切れ長で猫みたいな目に、すらっとしているけれど小柄な体格。
つまりはろりろりってことだ。何がとは言わないが。ろりろりー。
「春野さんと榎本さん、とりあえず今日はよろしくー」
「よろしく」
先輩に遅れるように僕もあいさつした。
さて、一応この部活はアンサンブルをする部活だ。
アンサンブルってのは、二人以上の少人数で楽器で演奏するものだ。
よって、楽器を使うのは当然のこと。
僕と先輩はどちらもクラリネット――木管楽器だ。だから、できるなら木管楽器だけで構成されている木管アンサンブル。もっと贅沢を言えばクラリネットだけのクラリネットアンサンブルがいい。
「二人は、何か楽器経験ある?」
「私は、フルートをやっているわ」
「さっきも言ったけど、楽器やったことない……だめかな?」
春野さんは顔を少し暗くして、不安そうに僕にそう聞いてきた。
初心者だからだろうか? 確かに、経験者の中で一人だけ初心者というのは、すわりが悪いだろう。
でも、僕の中では答えは決まっている。
「だめな訳がない!」
音楽は、残酷だ。
上を見れば神のような人々がわんさかいる。
いくら練習をしても見えない出口を延々と模索しながら、自分の進む道がきっと正しいと信じてひたすらに努力を重ねる。
努力をすればするほどに、本番までの道程は厳しく、辛いものになる。
小さなミスをするほどに、自分を追い詰め、追い込み、そして追い越せるように。
僕たちは常に自分をいじめ続ける。
気が遠くなるような練習を毎日乗り越えて、何十、何百もの時間をかけて。
一瞬の本番に挑むのだ。
本番でできなければ意味がない。
その一瞬のための何百時間。吐きそうになって、胃がキリキリと痛んで、涙が出てくることもある。
でも、だからこそ。
成功した本番は、何物にも代えがたい幸福感を僕らにプレゼントしてくれる。
賞をとった、というだけではない。自分の全てを認められたような、包み込むように全肯定されるような、幸福感。
立つのも億劫になるほどに、本番の一瞬のために、それまでの楽器人生のすべてをかけるのだ。
だから、大事なのはいつから始めるかではない。
始めてから、どのように努力を重ねるか、なのだ。
「大丈夫。今から始めたって遅くないさ」
そういうと、春野さんはぱあっと顔を明るくした。
「そう、かな? うん、頑張ってみるよ!」
彼女はきっといいプレイヤーになるだろうと、そう直感した。
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