27.豊明市二村山
サフィトゥリの凄まじい運転と透一の頼りない道案内の結果、二人の乗る車は豊明市の二村山に辿り着いた。
豊明市は名古屋の隣町で、アジア最大の鉢物卸売市場のある自然豊かなベッドタウンだ。
その豊明市の丘陵にある二村山は平安時代から街道沿いにある景勝地として数多くの和歌が詠まれてきた場所で、その展望台からは名古屋のある濃尾平野から西三河の岡崎平野、そして猿投山や御嶽山も見渡すことができる。
駐車場に車を止めて降り、透一とサフィトゥリは山頂へと続く木々が鬱蒼と茂る薄暗い階段を上った。
涼しくなった風が気持ちの良い、西の空の朱色が綺麗な夏の日没後である。
山頂に着くと、展望台には誰もいなかった。
「豊明とは思えないほど、雰囲気あるな」
夕焼けから夜空へと移り変わるグラデーションの広がる空が三百六十度に広がる山頂の景色を見ながら、透一は呟いた。
地上には明かりが灯り始めた遠く小さな街の光が帯のように広がっており、幻想的な空気を作り出している。
「この絶景を二人占めって、贅沢ですね」
サフィトゥリは日中一緒に名古屋を観光していたときとまったく変わらぬ様子で、透一の隣で微笑んでいた。先ほどブレノンに肩を撃たれていたはずだが、まるでアンドロイドか何かのように痛みを感じている素振りを見せない。
(本当に傷は大丈夫なんだろうか。まあ、俺に手当とかができるってわけでもないけど)
透一はちらちらと横目でサフィトゥリを見て、不安を覚えた。
夕暮れの風が、サフィトゥリのペイズリー柄のフレアスカートを揺らす。いつの間にか髪はほどけていたようで、黒髪は宵闇に溶けるように肩から背中へと流れていた。
「君はこの景色のどこかに、本当に万博を爆破するための爆弾を隠しているのか?」
透一は恐るおそる、サフィトゥリに核心を尋ねた。
それは本来何カ月も前に知る努力をするべき事柄だったけれども、透一は今になってやっとその問いに取り組んだ。
「そうですよ。場所は明かせませんけど」
普段通りの優しい声で、サフィトゥリは答えた。
そしてやはりちょっとは傷を負って体力を消耗しているのか、展望台のベンチに座る。
透一はその隣に座り、顔を見ずに手を組んで問いかけた。
「俺には君のこと、何も明かしてもらえない?」
サフィトゥリはしばらく黙っていた。透一に何を話すべきなのか、考えているようだった。
そしてサフィトゥリは次第に星空めいてきた空を見上げて、ゆっくりと口を開いた。
「ここ最近、私はなぜ自分がテロをしてみたかったのか、本当の始まりは何なのか考えてたんです」
「うん。俺もそれ、ずっと気になっとった」
透一もサフィトゥリの静かな調子に合わせて、ごく普通の雑談のように頷いた。
(っていうかテロって、してみたいって気持ちでやれるものなんだな)
まずそもそもサフィトゥリが目指すテロリスト像というものがよくわからなかったが、透一はとりあえずはサフィトゥリの語ることを聞いてみようと思った。
「私の父親は傭兵みたいな仕事をしてた人らしいんです。ベトナムとかアフガンとかエルサルバドルとか、いろんなとこにいて。彼はテロリストだったって言う人もいます」
サフィトゥリは少し寂しそうに、自分の父親について語り始める。
(傭兵でテロリストで、ベトナムにアフガンにエルサルバドルか。一体どんな人なんだろうな)
透一は映画か青年漫画でしか聞かないような人物像に、自分とサフィトゥリの生きる世界の違いを実感する。
他人に話すというよりは自分自身の想いをまとめるように、サフィトゥリは話し続けた。
「日記が一冊実家にあるだけで、私は実際には会ったことがありません。だから小さいころに父親のことが気になって、その残された日記読みました。だけど書いてあることは私には難しくて、結局全然何が書いてあるのかよくわかりませんでした」
空に浮かぶ月を欲しがっていたらしい子供の頃のサフィトゥリの想像しながら、透一は彼女の涼やかに響く声に耳を傾けた。
透一が西三河の車の製造会社に勤めるサラリーマンの息子として二十一年間生きてきたように、サフィトゥリはテロリスト兼傭兵の娘として同じくらいの時間を生きてきたのだ。
そしてサフィトゥリは、自嘲気味に軽く笑って言った。
「それで何となくですが、テロリストって呼ばれるような人生を送ってみたら、父親が何を考えてたのか、わかる気がしたんですよね」
「お父さんが何を考えとったのか、今はわかるのか?」
「わかりませんよ。私はあの人にはなれませんから」
透一が尋ねると、サフィトゥリは答えた。
まだ万博会場でテロを起こすという目的を達成していないわりに、その横顔は妙に晴れ晴れとしていた。
「サフィトゥリ」
透一はサフィトゥリの名前を呼んだ。
サフィトゥリは不幸で可哀想な女の子ではないし、透一も本当の意味で不幸になったことは多分ない。
だからこそ、不可能を突き詰めるサフィトゥリと、建前を受け入れるふりを続ける透一の違いは際立っていた。
サフィトゥリは何も言わずに、透一の方を見た。笑みを浮かべることもやめてただ素の表情で、サフィトゥリは透一の反応を伺う。
(そういえば、社会学には分離と結合は紙一重っていう理論があったな。俺とサフィトゥリも多分、遠く離れた存在だからこそこうして惹かれ合う)
透一はサフィトゥリと見つめ合い、その眼差しから逃れるように、サフィトゥリに口づけをした。
夜風に少し冷えたサフィトゥリのくちびるが、熱くなった透一のくちびるとふれあう、それは長いキスだった。
するとサフィトゥリは透一の肩を掴み、ベンチの上で透一を押し倒す形になった。ほどけたサフィトゥリの髪がさらさらと流れて、透一に影を落とす。
サフィトゥリはさらに再びフレアスカートのポケットの中から大型拳銃を出して、透一の額に突きつける。
「私は、好きな人も殺せるくらいじゃないとテロしちゃいけないって思ってるんですよ」
サフィトゥリはベンチの上で仰向けになっている透一の耳元に、そっと甘い声で囁いた。
「透一さんは、このまま私に殺されても構わないですか?」
吐息のくすぐったさに、透一の身体はぞくりと震える。
サフィトゥリは透一に銃を向け自分自身と透一を試すことで、世界を問い直していた。
透一は暗い空の天辺を見ながら、サフィトゥリのあまりにも間接的すぎる好意を述べる言葉について考えた。
(もしかして今、サフィトゥリは俺のことが好きだと言ってくれたんだろうか)
サフィトゥリの手の感触や身体に感じる重みに、透一は幸福な陶酔感を覚える。どんな形であれ、好きな異性に押し倒されて嫌なはずがない。
しかし思考は妙にはっきりとしていて、サフィトゥリの問いへの答えはなめらかに口をついて出た。
「サフィトゥリ。俺はな、これまでの人生で一番喪失感を感じた瞬間が受験の失敗っていう小さい男だ。誰かの決めたことに従って生きるのが気楽な性分で、自分や他人の人生に責任を負いたくないし何も頑張りたくはない。でもそれなのに、そういう平凡で退屈な毎日に飽きてきとる」
透一はまず、自分がどういう人間なのかを取り繕うことなく語った。こうしてまとめてみると、自分がろくでもない人間に思えてくる。
「俺はサフィトゥリのことが好きだし、自分じゃ何も決めたくない。だから俺は、サフィトゥリが決めた結果を受け入れる」
透一は反撃を一ミリも考えることなく、額に銃口の冷たさを感じていた。
(様になることを言ってみたかったけど、口にしてみるとめちゃめちゃ格好悪いな……)
透一はサフィトゥリに正直に思ったことを述べた。その結果透一は、あまりにも情けない実態を晒してしまう。
自分の心臓の音を聞きながら、透一はサフィトゥリの反応を待った。
「透一さんって、やっぱり面白い人ですね」
サフィトゥリは銃の構えは崩さず笑っていた。
深紫色の瞳は優しく冷たく、透一の姿を映している。
銃の扱いに慣れている様子からして、サフィトゥリはおそらくもう人を殺したことがあるだろう。多分誰が相手であっても、引き金を引くことは簡単なはずだ。
(でもとりあえずサフィトゥリに面白がってもらえて、俺は嬉しい)
透一は自分のぬるい人生がサフィトゥリのおかげで熱を帯びたような気持ちで、サフィトゥリの彫りの深い端整な顔を見つめた。空っぽだった心の奥を埋めてもらえたような、そんな気分である。
ここで死んでも良いと言うのは、冗談ではなく本気だった。
なぜなら透一は長いものに巻かれて生きてきた、度を超えて受け身な人間である。審判をサフィトゥリに任せてしまえるなら、それほど気が楽なことはなかった。
そしてサフィトゥリは表情を少しも変えることなく、引き金を引いた。
銃声が鳴る。
しかし銃口は逸れていて、透一には当たらず山のどこかへ飛んでいった。
「これが答えなのか?」
透一は尋ねた。
「はい。私は、この大名古屋とその万博に壊すべき価値を見いだせなかったので、テロをするのはやめます」
ゆっくりと銃をしまいながら、サフィトゥリは答える。
朗らかなのに淡々とした調子の声が、静かな展望台に響いた。
「でもこの街に隠した爆弾はそのままにしておきます。将来この街が私が壊すべきだと思ったときには改めてテロをしに来ますので、そのときはよろしくお願いします」
そう言って、サフィトゥリは銃を仕舞って立ち上がった。彼女の決断は、実にあっさりとしたものだった。
体が自由になってしまった透一は、起き上がってサフィトゥリに手を伸ばした。
サフィトゥリはその透一の手のひらに自分の手のひらを合わせて、微笑んだ。これが最後だと、目が語る。
大学生とテロリストとして、二人は向かい合っていた。
透一はサフィトゥリに呼び掛ける。
「それならまた、俺はサフィトゥリと会えるのか?」
「会えるかどうかはわかりません。でも私は見ていますよ。この名古屋という街を」
サフィトゥリは透一に、一切期待させずに言い放つ。
それが、サフィトゥリの別れの言葉だった。
サフィトゥリは透一から手を離して背を向けて、階段を降りて去っていた。
黒髪のなびく後ろ姿は暗闇の中へと消えていき、足音は遠ざかる。
透一は何も言えないまま、ベンチに座りこんだ。透一に残されたのは、服についたサフィトゥリの血だけである。
(名古屋に壊す価値がないってことは、俺も殺す価値がないってことだよな)
一人星空の下に残されて、透一はため息をついてサフィトゥリの発言を振り返った。
彼女が彼女の目指すテロリストになるには、本来透一の一人や二人殺さなきゃいけないはずである。
しかしサフィトゥリは、透一を殺しても自分が手を汚すのに見合った結果が得られない気がしたのだろう。
あっさりと死を受け入れる透一を殺しても、サフィトゥリは自らをテロリストたらしめるであろう業は背負えない。
(サフィトゥリの決めたことなら何でも受け入れられると思っとったけど、いざ殺してもらえないと辛いわ)
透一は展望台から、遠い名古屋の街の光を見た。やたら良い眺めを一人で見ると、寂しさが増す。
大なり小なりサフィトゥリが、透一のことを好きでいてくれていたのは確かなことである。
だからこそ透一はサフィトゥリに試してもらえたし、迷ってもらえた。
しかし本当にサフィトゥリが透一のことを好きなら、本当に殺してもらえていたはずである。
もしかするとここが東京だったなら、結果は違ったのかもしれない。大名古屋は一見すると栄えているように見えても、やはり単なる地方都市だったということだろうか。
透一も、大名古屋万博も、大名古屋も、愛知県も、テロリストの彼女にとって本当に価値のある大切なものにはなれなかった。
(多分俺はこの先、憎まれもしないけど愛されもしない人生を送るんだろうな)
サフィトゥリに爆破されることなく明日も変わらず輝き続けるであろう名古屋の街を、透一は見つめた。
何も起きないまま終わるのが、この街にふさわしい結末なのだ。
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