3.従業員食堂1
春季の閉場時間は二十一時半だが、夕方を過ぎると人影は大分まばらになる。
「それじゃ、俺は食堂寄ってから帰るから」
「ああ、じゃあな」
アルバイトを終えた透一と直樹は、帰路を共にはせず建物の前で別れる。家まで遠い透一は夕食を済ませてから帰り、瀬戸市民の直樹は愛知環状鉄道に乗りすぐに帰宅するのだ。
日は完全に暮れていて、あたりはすっかり夜だった。昼間の行列がなくなり静かにライトアップされたパビリオンが、どこか物悲しい気持ちにさせる。
透一は、西ゲートを出たところにある本部棟へと向かった。本部棟の西の一階に、博覧会協会職員やスタッフ用の従業員食堂があった。
従業員食堂の外観や仕組み自体は大学の学食と似たようなもので、小奇麗だがお洒落でもない真新しい内装の空間に味気のない机や椅子が並んでいる。
しかしトレイを持って並んでいる人の列には様々な国の人がいて、提供されるメニューもハラル対応のものがあるなど、国際色に富んでいた。
(丼ぶり系もいいけど、限定メニューも旨そうだ)
透一は入り口付近に置かれた見本の品を、じっくりと見回した。肉や魚の定食、うどんにラーメン、丼ぶり、そしてハラル食材を使ったケバブが、ここの食堂の基本のメニューである。今日はエジプトデーと銘打たれた日らしく、さらにコシャリというエジプト料理もあるようだ。
迷うこと数十秒後、透一は注文を決めて食券機に五百円玉を投入した。
(ここで食べなかったら一生食べる機会がない気がするから、コシャリってやつにしてみよう)
このような調子で、透一はよくどんな料理なのかわからないその日の限定メニューを注文する。正直失敗だった日もあるが、それも含めて知らないものを食べるのは楽しみだった。
食券を手にした透一は飯物のコーナーに並び、食堂のおばさんから料理をもらってトレイに載せた。
そして適当に空いている席に座って、スプーンを手に取る。ここの食堂は毎日込み合いがやがやと賑わっているが、たいてい一人分くらいなら席はすぐ見つかった。
バイト先の店で使っているものと同じ植物プラスチックの丼ぶりに載ったコシャリという料理は、お米や豆、パスタを混ぜたものの上にトマトソースとフライドオニオンをかけたもので、横にはコフタと呼ばれる肉団子も二つ添えられている。
彩りに欠け見た目はそう良いものではないが、気取らない雰囲気にそそられた。
食堂の人に説明された通りにかき混ぜてみると、カレーっぽい香辛料の匂いがする湯気がふわりと立つ。その香りの良さに、もともと感じていた空腹がさらに強まる。
「うん。こんな感じで、いただきます」
ざっくりと適当に混ぜ合わせると、透一はスプーンで豪快にすくいとって一口目を食べた。
(ん、口の中が忙しい味だな)
さらっとした品種のお米と、ぷちぷちのレンズ豆、そしてもっちりと茹でられたショートパスタのそれぞれの食感が、熱々の具材に絡んだトマトソースの酸味で一つになって舌を楽しませる。
ざくざくと香ばしいフライドオニオンの甘みも良いアクセントになっていて美味しく、クミンのほろ苦い辛さもくせになった。
油っぽくもなく食べやすいコシャリの味を気に入って、透一はすぐに二口目も食べた。
(すっごい旨いというわけではないけど、なんかこうジャンクフードみたいな感じ)
炭水化物の重みをがつがつと味わいながら、コフタという細長い肉団子も切り分けて食べる。
コフタは肉汁がジューシーなハンバーグというよりはつくねに似た固さの肉団子で、これもまた鼻に抜けるような香辛料の風味がスパイシーで美味しかった。
(味に飽きたら、唐辛子のソースとにんにく酢をかけてみてっと)
若干単調さを感じてきた頃合いに、透一は小皿に分けて持ってきたソースをコシャリにかけてまぜてみた。
するとまた唐辛子でピリ辛になったり、お酢でさっぱりしたり、にんにくの風味でがっつりしたりと様々な味わいになって、新鮮な気持ちで食べ続けることができた。
(思ったよりも量があったから、満腹になって帰れそうだな)
食べ終わる目途がついた量が残った丼ぶりの中身を、透一はスプーンでかき集める。
あと二口か三口だと思ったそのとき、やわらかく落ち着いた雰囲気の見知らぬ声が透一に話しかけた。
「隣、いいですか」
「あ、はい」
反射的にうなずき横を見ると、褐色肌の綺麗な異国の女子が月見うどんの載ったトレイを持って透一の隣に座っている。
その彫りの深く整った横顔に、無為に過ごしてきた透一の今日の全てが吹き飛ばされた。
(可愛いっていうか美人。年上か年下かわからんけど、美人だ)
透一は食べるスピードをゆっくりしたものに変え、箸を割ってうどんをすする彼女の姿を二度見しそうになるのをこらえて水を飲んだ。
横目で見える範囲で観察すると、彼女が着ているのは袖口や裾が刺繍やレースで飾られたエキゾチックな白いブラウスに、藍地に紫で花柄が抜染された更紗の巻きスカートをあわせてオレンジ色の帯でまとめた異国情緒たっぷりの服装だった。
おそらく東南アジアかどこかの外国館のアテンダントなのだろう。黒髪をバレッタでまとめたすっきりとした髪型が、凛とした雰囲気に良く似合っていた。
(そうか。万博の外国館のアテンダントってその国で選り抜かれた人材だから、こういうこともあるのか)
今まで感じたことのないような焦燥感が、急に透一の心に湧き上がる。
透一も大学生なので、コンパで女子学生と何かしら話しこむくらいのことはこれまで普通にしてきた。彼女がいたことは一度もないが、恋愛感情のようなものを抱いた経験は人並みにはある。
しかし今日この瞬間みたいな一目ぼれは初めてで、知らない異性に声をかけたくなったのも初めてだった。
あまりにも今までの日常とかけ離れた出会いに、透一は普段の判断力を失う。
(ええい、一か八かだ)
普段なら考えづらいことではあるが、透一は見知らぬ異国の彼女に話しかけることを試みた。
「日本語、上手ですね」
うわずった声で、面白くもなんともない言葉を発す。
恐るおそる横を見ると、彼女は何でもなさそうな顔でこちらを見て微笑んで答えた。
「ああ。父親が日本人ですから、そのおかげでしょうか」
お世辞を言ったつもりだったが、そう言った彼女の日本語はその姿と同じように綺麗だった。何なら透一よりも、日本語が上手いような気がする。
「俺、都築透一って言います。会場のレストランのバイトです。お名前聞いても、いいですか?」
透一は自分がものすごく今がっついているように見えるだろうなと自覚しながらも、名乗って尋ねた。口下手ではないつもりだが、挙動不審さを無くせた自信はあまりない。
彼女は箸を手にしたまま、透一をじっと見つめた後にゆっくりと口を開いた。
「……サフィトゥリです。日本語では弁才天って呼ばれている神様と、同じ名前です。私の国では、姓はありません。ドゥアジュタ国の外国館で働いています」
鈴の音に似た美しい発音で、彼女は自分の名前を告げた。
少しだけ値踏みされているような時間が流れたが、それでも嫌な気持ちにはならないような涼やかさが、サフィトゥリと名乗った彼女にはあった。
(ドゥアジュタ国……。聞いたことない国名だ。家に帰ったらネットで検索しよう)
思ったよりも会話にのってくれたことにほっとしつつ、透一はすこしでも気の利いた返答を言おうと頭を精いっぱい回転させる。高校生に読んでいた小説の影響で、世界の神々の名前には詳しかった。
「ヒンドゥー教の女神様ですね。芸術と学問の」
「良くご存じですね。つづきとういち、さんはどんな意味のお名前なんですか?」
サフィトゥリは透一の浅い知識にも感心してみせてくれて、今度は透一の名前について尋ねてくれた。
初対面用に軽く茶化しながら、透一は自分の名前についての所感を正直に語った。
「透き通っとるやつって意味ですかね。透明って、人名としてあんまり良いイメージないですけど」
透一は自分の名前があまり好きではない。
しかしサフィトゥリは透一の名前の話を面白がって微笑んだ。
「そうですか? 私は透明なものって好きですよ。川とか、海とか、綺麗じゃないですか」
形の良いくちびるをほころばせて、サフィトゥリはいとも簡単に透一の名の意味を肯定する。
(そんな風に言われたら、いよいよ本格的に惚れちゃうって)
透一は自分ではなく川や海が好きだと言われているのはわかってはいても、思わず心を掴まれて何も言えなくなる。
気付くと、サフィトゥリはいつの間にか月見うどんを平らげていた。
「ごちそうさまでした、って日本では言うんですよね?」
「あ、はい。俺も、ごちそうさま」
元々残りの少なくなっていた丼ぶりの中身をかき込み、透一はトレイを持って返却台へ向かうサフィトゥリの後を追った。
箸やカップを既定の場所に重ね、丼ぶりは軽く水で流して流し台に置く。
そして透一はなんとか食堂の出口までは、自然に一緒に歩くことに成功した。
本部棟の建物を出て、街灯で明るくなった夜道を歩く。
数歩進んだところで、サフィトゥリは透一に別れを告げるように振り返った。街灯の光が、舞台のスポットライトのようにサフィトゥリの周囲を照らしているような気がした。
(ここで終わりにはしたくない)
どうしてもサフィトゥリと接点を持ち続けたい透一は、チノパンのポケットからケータイを取り出し尋ねた。
「あの、また会いたいんですけど、連絡先聞いてもいいですか? またこういうときに、食堂でご一緒したくて」
「なぜ、あなたが私と一緒に過ごす必要があるのですか?」
「それは俺があなたのことを……、好きになったからです」
意外と遠慮なくサフィトゥリがごまかしのきかない質問を投げかけてくるので、透一は決心がつかないままに、なりゆきで告白じみたことを言うことになってしまった。
するとまたサフィトゥリは、必ずしも返答の内容とは一致しない優しい微笑みを浮かべる。
「私はあなたのこと、別に好きになってないですよ」
鋭い事実を突きつけられ、透一は自分が完全にアプローチに失敗したのだと後悔した。
「すみません。それじゃあもう、話しかけるのはやめます」
サフィトゥリに迷惑者扱いされたと思い込んだ透一は、謝罪し頭を下げた。やはり自分はうっとうしく声をかけてくる面倒な男にしかならなかったと、恥ずかしくなる。
それならせめて失礼がないように、潔く諦めるべきだと思った。
だがサフィトゥリは透一を嫌がるというよりは、反応を面白がっているようだった。
「別に、嫌いってわけでもないです」
民族衣装の裾を揺らし、後ろで手を組んでいたずらっぽく笑いかける。サフィトゥリは案外背が高く、華奢でも儚げでもなかった。
遠く透一を試すようなくちぶりで、サフィトゥリが透一の申し出を受け入れる。
「いいですよ。あなたが外国の異性に興味にあるように、私も日本の男の人に興味があります。まずはお食事から、始めましょうか」
サフィトゥリは透一の下心を認めたうえで、彼女なりの意図を持っているようだった。透一にはその意図を掴むことができなかったが、誘いに乗ってもらえるならなんだってよかった。
透一はほっとした気持ちで頭を上げ、お礼を言った。
「ありがとうございます。赤外線通信で、教えてもらえますか?」
「はい」
透一がチノパンのポケットからケータイを取り出して赤外線の受信モードにすると、サフィトゥリも自分のケータイを手にして透一の赤外線ポートに近づけ送信した。
サフィトゥリとケータイを寄せ合うことは、今までのどんな女子と赤外線通信したときよりも緊張する。
ケータイを操作しながら、サフィトゥリは透一に尋ねた。
「例えば明日も、あなたはこの時間にこの食堂に来るんですか?」
「そのつもりでした」
しっかりと頷き、透一はしばらくは連日でシフトが入っていることを喜んだ。
「じゃあ明日も、会いましょう」
透一の期待以上のことを言ってくれて、サフィトゥリはケータイを閉じると再会を約束して別れを告げる。
その瞳が不思議な紫色であることに、透一は最後の彼女の顔をまともに直視して気付いた。南国風のサフィトゥリの装いにもよく馴染む、宵闇の海を思わせるような深い紫だ。
「また、明日……」
サフィトゥリが口にした言葉を、透一は半ばおうむ返しに繰り返した。
透一がサフィトゥリの瞳の美しさに見惚れてその余韻にほとんど言葉を失っているうちに、彼女は立ち去る。
しかし夜道に一人残されていても、透一のケータイにはサフィトゥリのメールアドレスが残されていた。
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