第3話

 さて、町には図書館があった。

 せっかく英語の読み書きができるようになった俺は、何とかして本を借りたかった。アメリカに辿り着いて1年半。日本から着てきた着流しと袴とは別に、ジーンズやシャツを着るようになった。英語の新聞も短い文章なら読める。町の連中が俺を不審な目で見ることもかなり減った。ここいらでもう一歩踏み込んでみたかったんだ。……だが断られた。理由は俺が町の正式な住人じゃないからだ。当時、町の正式な住人になるには、町に不動産(土地でも建物でも)を持つか、銀行に500ドル以上の金を預けることが条件だった。

 口惜しかったよ。

 俺はもっと本を読みたかったんだ。聖書とか町の年鑑とかじゃなくて、『冒険王ロバート』とか『アルムラン騎士団』とか、そういうのが読みたかったんだ。

 なのに、お前はイエロー(ほとんどの白人は俺をゲンと呼んだが、中にはわざわざ肌の色で呼ぶ奴もいた)の貧乏人だからだめだってか!? その頃、酒場で売春婦をしていたミランダと話すことが度々あったんだが、2人ともどこまで我慢しなきゃいけないのか時々分からなくなるっていう話だった。いったいいつまで、どこまで、何のために……で、夜遅くまでそんなことを考えてるうちにいつの間にか眠りこんでるってわけだ。

 だが人生、チャンスが全くないわけじゃない。特にアメリカという国では。


 ある日、町にボクシングの興行主がやってきた。でっかい黒人のボクサーを連れてな。何試合かやったあと、興行主が言ったんだ。町の住人で腕に覚えのある奴がいたら、うちの黒人ボクサーと戦ってみないか? とね。勝ったら5千ドル出そうと。ただし挑戦するには50ドルがいる。町にいた喧嘩自慢の白人達はここぞとばかりに挑んでいったよ。酒場の主人も、町はずれの農場の若旦那も、保安官までもな。で、みんな敗けた。

 そのうち挑戦する奴がいなくなり、興業主が帰ろうとした時、俺は名乗りを挙げた。

 みんながポカンと口を開けていたよ。相手の半分しか体重のないような東洋人が上半身裸で拳を構えていたんだからな。だが俺には勝算があった。日本で習い覚えた柔術の当て身技なら通用するとね。問題は一撃でも相手のパンチをくらったらお終いだってことさ。長引けばそれだけパンチをもらう確率があがる。かと言ってただ当て身を食らわせても、相手の身体の大きさからして簡単には倒れないだろう。俺は相手のパンチにこちらの拳を交差させることにした。これなら相手の勢いを利用して、当て身の威力をあげられる。狙うは人体急所でもある顎。

 不思議なほど落ち着いていたよ。

 相手のパンチにすくむことも、目を閉じることもなかった。

 最近よく聞くだろ? 日本人は腰抜けだとか、弱々しいとか。これだけは確かだ。侍ってやつは連中の常識で図れる生き物じゃないんだ。

 俺が相手の黒人ボクサーを叩きのめしてやった時の歓声ときたら。

 俺は5千ドルを手にした。町の正式な住人になって図書館で本を借りて、何なら自分の家を持つのに十分な額だ。

 振り返って見た時の町の奴らは本当に楽しそうな顔だったよ。保安官も酒場の主人も農場の若夫婦も牧師も銀行の頭取も、それから売春婦のミランダもな。

 荒れた肌、落ち窪んだ目、ボサボサの髪、彼女はもう疲れ切っていた。

 俺は彼女に売春婦としての契約があと3年あることも、5千ドルあれば自分で自分を買い取って自由になれることも知っていた。

 俺は……彼女を自由にした。

 ミランダを買ったことはなかったし(そもそもそんな余裕もないしな)、話だって仕事のついでに少しするだけだった。惚れていたというわけでもない。ただ町の奴らが底抜けに明るい笑顔をしている中で、彼女の少し寂しそうな、でも本気で喜んでくれている笑顔がたまらなく胸をうったんだ。

 彼女が町を離れたのはそれから3週間後だった。

 そしてミランダという女は、2度と町には来なかった。

 

 

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