魔法

ーー彼の魔法は、『起きもしない不安をひとつ、1日だけわすれられる』ということ。

 

 気づいたら僕は、『起きもしない不安をひとつ、1日だけわすれられる』魔法を使えるようになっていた。


 最初に気づいたのは、あなたとのこと。

 あなたはいつも、いつか僕と離れ離れになる。そう言って涙を溢していた。

 僕はいつも、そんな日々は訪れないよ、とあなたの背中に触れることしかできなかった。

 『あなたの涙が溢れてしまわないように』と、そういつものように願ったあの日、

 あなたは、僕の名前を忘れた。


 僕はどこまでも裕福ではなかったから、あなたのいる街を離れた。

 いや、街を離れたのはもっと、別の理由があったからかもしれない。それももう、どうでもいいか。

 僕の知らない街で、僕はこの魔法で金稼ぎを始めた。

 1日だけしか不安を忘れられないこの魔法は、ある見方では幸福で、ある見方では薬のような中毒性を纏っていた。

 街のみんなは、繰り返すように僕の元へ訪れるようになった。

 ある女性はこう言った、


 『あなたがこの街に来てくれたおかげで、私は笑顔で暮らせるようになったわ』


 繰り返しお金を払い不安を忘れようとするなんて、馬鹿みたいだ。

 そうやって生きていく中で、僕を知らない街で、僕はほんの少しだけこの街に受け入れられた気がした。

 そういった来客が増えていくうちに、僕の知らない街は僕の知っている街になり、僕を知らない街は僕を知っている街となった。

 だから、この魔法の中毒性に本当にやられていたのは、きっとずっと僕だったと思う。

 僕は、本当に向き合わなければならない何かから目を背けて、今幸せであるというように明日へと身体を動かしているようだった。


 夜雨が煩いから窓を閉めきった後、換気扇の下で煙草に火をつけた。

 いつもと変わらない夜に、ふと、自分がどこまでも一人であるような気がして怖くなった。

 一つずつ思い出を探るように、溺れるように、泳いでいくように、静かに目を閉じて。

 そうやって、気づいたんだ。

 あなたの名前を、思い出せないということに。


 もう全部手遅れだと思う。

 痛み止めを繰り返すような日々に。

 ただ一つだけ本当のことがあるとしたら、

 僕はずっと、あなたと一緒にいたかっただけかもしれないということ。

 それだけ言えたら、もういいか。


 

 私は丁寧に折り目のついた、まるで雑記のような手紙を静かに閉じた。

 それが、彼からの最初で最後の手紙だった。

 私はこの手紙に返事を書かなかった。

 書けなかった、といってもきっと間違いではないと思う。

 だから、もう彼から手紙が届くことはなかった。

 彼はきっと、いつしか自分にも魔法を使うようになっていた。

 だからきっと、私の名前を忘れた。


 私たちは、彼の魔法でお互いに名前を忘れあって、日々を過ごしていた。

 何よりも一緒に過ごしていたかった、そんな感情を、こわくて大切にできなかった。

 でもね、わかってたんだ。

 彼の魔法は、『起きもしない不安をひとつ、1日だけわすれられる』ということ。

 

 本当はずっと、私たちは日々を一緒に過ごせたということ。

 忘れられない彼の名前を、私は小さく呟いた。

 忘れないように。忘れられるように。

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トワイライト・シティ fushimi @fushimi_write

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