言霊

ーーあなたに謝らないといけないことを思い出せたら、私はもう一度、あなたに会いに行こうと思う。


 いなくなれ、なんて、言ってしまったから、あなたは行ってしまったのだろうか。


 この街が黄昏時になる頃に、さよならを告げた言葉を鏡の前で呟くと、向こうの世界と繋がることを知ったのは、つい最近のことである。


「久しぶりだね」


 あなたはそう言ってふざけたように手を振った。私の部屋。姿見の向こう。あなたの世界はどこまでも晴れ空が広がっていて、私より少し大人になったあなたが笑う。


「◯◯ちゃんの世界は、こっちより2倍速で進むんでしょう。それは久しぶりに感じるよ」


 名前だけ靄がかったように消えてしまう。頭に浮かんでいたはずなのに。口に出したはずなのに。あなたはもう、この世界にいないから。


「でもさ、こっちにいるとそんな気しないんだよね。ちょっとずつ歳が離れていってる気がするからさ。そうなんだろうけれど」


「久々に見たときは驚いたよ。ほんとに別人かと思った」


 私たちがはなればなれになったのは、もっと前のこと。だから、実はあまりしっかりと覚えていないのだ。ただ、些細なことで口喧嘩になってしまって、あなたに、いなくなれなんて、思ってもいない言葉を言ってしまったこと。そうしたら、本当に次の日からあなたはいなくなってしまった。まるで元から存在していなかったように。だから、この街の噂を聞いたときは、それに縋る思いで試したのだ。私はもう一度、ただあなたに会いたかった。


 それからどれくらいの月日が経っただろう。拍子抜けするくらい簡単に、またあなたに会えてしまった。ただ、鏡越しだけれど。あなたの済む世界は私の済む世界とそっくりで、ただ、時間の流れが違うということだけが、私たちがもう昔のように過ごすことができないという現実を突きつけているようだった。


 何度か泣きながら、戻ってきて、と口にしたことがある。

 それでも、駄目だった。あなたは言う。


「私たちが同じ世界で過ごせなくっても、こうしてまた話ができているんだから、それでいいじゃない。だって、同じ世界に住んでいても、今日の私と明日の私は同じ私かわからないでしょう。今日さよならをして、明日私の姿をしたほんの少しだけ中身の異なる人間があなたの前に現れたとして、あなたはきっと、それを私と思うでしょう。だったら、私達が今話をしている。それだけがきっと事実よ」


 私は思う。ほんの少し大人になったあなたは、本当に私の知っているあなたなんだろうか。


「それがわからないまま、気にも止めずみんな生きているんでしょうね」


 そうね。だって、今日の私と明日の私が同じ私かだってわからないのだから。

 それでも。それでもね、私は…。


 また他愛もない話をして街は夜になった。

 ホットミルクに静かに砂糖を溶かしながら、あなたの言った言葉を思い返す。


「今日の私と明日の私は同じ私かわからないでしょう」


 そうだね、私にはわからないよ。朝起きたとき、この胸の痛みがまるで自分のものじゃないように感じたとき、私が私なのかさえわからない私には。何も。


 でも、気づいてしまったのだ。甘いミルクの味がしないくらい。あなたが帰ってこない理由を。


 私にとってはあなたのいる世界がよくても、あなたにとってはそうとは限らないんだね。あの日、些細な言葉で会えなくなってしまってから。あなたは鏡の向こうで、きっと。


 次の日から、私はいつもの言葉を唱えなくなった。姿見にあなたは映らない。あなたの名前を思い出して、あなたに謝らないといけないことを思い出せたら、私はもう一度、あなたに会いに行こうと思う。

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