朝焼けの幽霊

ーー少しだけ澄んだ空気が、この道の先に朝があることを教えてくれる。


 朝焼けの藍色の空に溢した赤が溶け出す頃、僕らはどこまでも続いていくような田舎の線路を歩いている。


 電車は来ない。以前、僕の少し前を歩く少女に聞いたことがある。


「ここは君の夢の中だから、君が望まない限り、電車は来ないと思う」


 そう言って、少しだけ笑った。

 透明な澄んだ空気が、僕の頬を冷やした。懐かしい香りの中、これが夢だと気づいたのは何度目のことだっただろうか。それまで僕は、僕の中にある知らない思い出として、この風景を隠していた。忘れかけていることなど誰にでもあるのだから、僕の知らない記憶にそれほど興味など持てなかった。


「空はずるいよね」


 君は振り返らないまま続ける。


「空は青色だから、そう誰かが決めてしまっているから、もし空が緑色や紫色の方が美しいと思う心があっても、それは淘汰されてしまうんだ」


 そうだね、と僕は返す。


「君は空が緑色や紫色の方が綺麗だと思うの?」


 彼女は首を横に振って、少しだけ笑った。


「ううん、私はこの空が好き。夕焼けか朝焼けかわからないくらいの今の空が。それでも、少しだけ澄んだ空気が、この道の先に朝があることを教えてくれる、今の空が」


 ようやく、彼女は立ち止まって僕の方へと振り向いた。


「だから君は、この空を描いてるんでしょう」


 そうだ。以前にも同じ会話をしたんだ。あのときは確か、夕焼けの下だった。夏の終わりのような、どこか切なさを感じる夕焼けの。

 君はこれじゃあ寂しすぎると笑って、朝焼けの空を提案した。僕は君が好きならそれでいいかと、それからずっとこの空を描いている。


「見えたよ」


 少女が指を差す先には、寂れた無人駅がひとつ。


「それじゃあ、今日もお別れだね」


 そうだね、と僕は彼女を追い越した。


「また」


 振り向いた先には、少女はいない。


 窓から差し込む光が僕を照らし、聞き飽きた目覚ましの音を叩いて止める。また朝が来た。ぼんやりとした頭のまま、支度をする。


 学校を過ごす時間は心などない。少しだけ心を休めることができる授業中。身体も心も痛みを感じなくなった、名前だけの休み時間。逃げるような放課後。嘘で固められた夜。もう、あいつらを憎む気持ちもどうでもよくなって、僕はただ生きているだけになった。もう終わりでもいいかもしれないと、頭を過った。


 また僕らは線路の上を歩いている。同じ景色、君が好きな空の下。


「ねぇ」


 僕の方から口を開いたのは、初めてかもしれない。


「今日は、来るかもしれない。電車…」


 そう言うと、彼女は振り返り少しだけ驚いたような表情をした。

 遠くから、踏切の音が聞こえた。この世界では初めて聞いた音だ。そっか、と彼女は口を開いて問いかける。


「人が死にたいと思うのは、どんなときだと思う?」


 僕は少しだけ考える。


「私はね、朝起きて、カーテンを開けて外の景色を見たとき、ふと、今日だなって思った日が最後の日だと思うの」


 そのまま、続ける。


「劇的なことなんて必要ない。人が明日に希望を持てなくなるのは、それくらいふとした瞬間だと思うの。でもね」


 彼女は少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。


「君はまだ、私のためにこの空を描いてくれる。誰かもわからない私のために。そんな優しい君には、まだもう少しだけこの先を歩いていてほしいと思う。君の世界は、この夢の中のように一本道じゃない。今は狭い世界が、どうしようもなく広くなって、いつか空の色が緑でも紫でも、美しいと笑い合えるくらい自由な世界が待っているから」 


 彼女の語尾は少しだけ弱々しく、頼りなかった。少しだけ震える手が、僕の視界に映った。


 「ごめん」


 そう言って、また僕らは歩き始めた。遠くの踏み切りの音は、いつの間にか途絶えていた。

 そうやって、今日もまた無人駅に着く。少女を追い抜くとき、ふと、あることを思い出した。


「そうか、君は」


 少し前に、隣町で少女が死んだ。自ら死を選んだと報道で聞いた。夕焼けが街を染める頃、嘘みたいに静かに、少女は駅のホームから空を舞った。そこには、遺書が残されていた。


『誰も悪くない。ただ、私がこの世界に合わなかっただけ』


 それだけ書かれた遺書。あまりにも簡潔な一言。


「君は、ただ朝焼けの空が見たかっただけなんだね。少しだけ澄んだ空気が、この道の先に朝があることを教えてくれる、そんな空を」


 振り向いた彼女が笑った。


「君はいつか、無人駅じゃない駅に辿り着く。そこではたくさんの人が、君を待っている。私じゃ辿り着けなかった駅に辿り着くことができる。まだこんな空を描ける君なら、きっと辿り着けるから」


 彼女は少し、言葉に詰まった後、


「だから、今日もお別れだね」


 と言った。

 澄んだ空気が、僕らの間を通り過ぎていった。


「また」


 僕は彼女を通り越して、振り返る。


「またね」


 そこには、彼女の姿はなかった。


「君がまたをくれるなんて、珍しいね」


 なんだか少しだけ笑った後、また僕は無人駅へと歩く。

 澄んだ空気がさよならの邪魔をするように、僕はきっと、明日も朝焼けの空を描くだろう。

 こんな空を、また君が歩けるように。

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