猫耳アンダーザレイン

ーー気づかないあなたの、その横顔だけをずっと見つめている。


 朝目が覚めると、髪の毛の間から猫耳が覗いてた。

 それを鏡の前でぼんやりと眺める私の表情は、彼が知らないくらいだらしない体たらくだ。

 こんなとき、みんなならもっと分かりやすく驚いたり騒いだりするのだろうか。些細なことで大騒ぎをする友達の顔が浮かんではすぐに消えて、空っぽになったお腹を満たす方法だけ考えている私だ。


 だってさ、たまにふと思うときがあるんだ。

 朝目が覚めると、私は昨日の自分とはもう違う自分になっていて、友達も、彼氏も、みんなそうで、私もみんなも誰も彼もがもう私たちのことなど知らない世界になっていて、私や私だったものは、もう世界にひとりぼっちになっている、そんな世界を。


 雑なメイクをして家を出た後に、夜に彼と会う約束を思い出して少し後悔をした。


 「570円です」


 マルボロの似合わない父親ほどの年齢だと思う常連さんに、淡々と仕事をこなす。拭えない眠気だけが今の感情である。


 「その猫耳かわいいね。カチューシャなの?」


 綺麗な財布から千円札を取り出す常連さんの、荒れた肌だけを見つめていた。


 「430円のお返しです」


 つれないな、という風に立ち去っていく。


 4時間ほどの業務を機械的にこなした私は、やはり納得のいかない身なりをどうにかするために、少し急ぎ目に帰宅をした。約束の時間まではまだ時間があるから、着替えた後に中途半端なメイクとボサボサの髪を直しながら、彼のことを考える。そうすると、少しの緊張感と、少しだけ、鏡の向こうで可愛らしくなっていく私を見ることが楽しく思えてくるのだ。


 待ち合わせの改札で、行き交う人々をぼんやりと見つめていた。知らない誰かを待つ、知らない誰か。知らない誰かと会って楽しそうな、知らない誰か。私の知らない場所へゆく、知らない誰か。ここにいる人たちは、手を伸ばせば触れてしまえそうな距離に存在しているのに、私の人生には登場しないまま終わってしまうのだろう。私を見る知らない誰かにとって、私は知らない誰かなんだ。


 その雑踏の中から、彼が現れる。


「ごめん、待たせた」


 そうだね。なんて言えない私だ。


「ううん、全然」


「ならよかった、行こっか」


 私の手を握り、歩き出す彼。

 気づくわけないか、そう思った。

 いつだってそうだ。新しい服を買ったとき。コスメを少し変えたとき。いつもと違うネイルの色を試してみたとき。髪型を変えたとき。…猫耳が生えたとき。


「この店、ずっと一緒に来たいなって思ってたんだ」


 微笑む彼の表情はいつだってずるい。気づけば、私も微笑み返している。いつも、そうだから。知らない誰かにとって、彼は知らない誰かだ。でも、私にとって彼は、知っている彼だ。そして、彼にとっても私は、知っている私なんだろう。


 本当にそうか?


 常連さんは私にとって、限りなく知らない誰かだ。常連さんにとっての私もそうだろう。それでも、私の猫耳には気づいた。こんなにも分かりやすいのだから。

 気づいてよ。私が気づいてほしいのは、いつだってあなた一人なんだから。


 髪の匂いまでお揃いになった夜、私の隣で横たわる彼の背中に静かに触れたあと、私はベッドからそっと降りて窓の近くの椅子へと腰を掛けた。


「あっ、雨だ」


 気づかないうちに、外は雨が降っていた。

 まるで、私たちを包み込むように。窓を静かに濡らしていく雨を、私はただ見つめていた。綺麗だと思った。窓の外の景色は、もう見慣れてきた街の景色なのに、どうして夜雨の中ではまたこんなにも違った表情を見せるのだろうか。


 私たちも、同じなのかもしれないね。


 次の日になると、猫耳はまるで元よりそこに存在していなかったかのように、綺麗に姿を消していた。

 代わりに、私の目が少しだけ赤く腫れぼったくなっているものだから、私より少しだけ遅く目を覚ました彼は、心配そうに私を抱きしめた。

 

 気づかないあなたの、その横顔だけをずっと見つめている。

 ここにいるのは、今の私とあなたでいい。

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