林檎飴
ーー思い出だからちょうどよくて、思い出だから、もうその先にはいけないんだよ。
車の外に出て、深く息を吸った。
蝉の鳴き声は少しずつ聞こえなくなってきたのに咽せ返るような暑さだけはまだ続いていて、馬鹿みたいに晴れた青空の下を項垂れながら歩いていると、夏の香りがした。
君の前で、僕は静かに立ち止まる。
「今日は良い天気だな、そう思うだろ」
ペットボトルの水を飲み干すと、少しだけしゃがみこんで、僕は続ける。
「やっぱりその姿、似合わないよ」
あの日の夜は、その夏の暑さなんて忘れてしまうくらいに、涼しさだけを切り取っていた。
だから、この祭りに集まる人々も、もう夏の日々なんて忘れてしまったかのように、ただこの瞬間だけを楽しんでいるようだった。
屋台の穏やかな灯りが夜空の星を念入りに隠してしまったから、僕らはその何もない夜の色に鮮やかな花が咲くのを待っていた。それは、この境内を泳ぐように行き交う人々もみんなそうだろう。
「夏は思い出くらいがちょうどいいと思わない?」
慣れない下駄で転ばないように、彼女と歩幅を合わせながら歩いていく。浴衣を着るだけで夏を彩ってしまうのは、なんだか上澄みだけを掬い取ったみたいで恥ずかしく思うけれど、それでも君は綺麗だった。
彼女は続ける。
「夏休みの前は、これから訪れる夏になんだかわくわくするじゃない。だけど、実際の夏は暑いし、想像よりも退屈で、結局日々の延長線上にあるんだなって、がっかりする。でもね、思い出す夏は、いつも少し心が締め付けられるような香りがするの。だから、夏は思い出くらいがちょうどいいんだ」
立ち並ぶ出店の一つに目を留めた君は、僕の袖先を少しだけ引いた。
「どうしたの」
僕は尋ねる。
「林檎飴」
彼女の視線の先にある屋台では、真っ赤なりんご飴が大小それぞれに分けられて綺麗に並べられていた。
「好きなの?林檎飴」
「うん」
それを真剣にじっと見つめては、小さく微笑む彼女の横顔を見て、
「それ、一つ下さい」
と言って、お代を渡す。
「えっ、悪いよ」
財布を取り出す彼女に、いいよ、と言って林檎飴を差し出した。
「ん、ありがと」
君は嬉しそうに林檎飴を見つめながら歩くものだから、前を見て歩かないとぶつかるよ、なんて言いながら、また僕らは歩いていく。
そろそろ花火の時間だろうか。屋台を見て回る人々もみんな、それぞれ空がよく見える場所へと移動していく。
僕らは、花火は少し見辛いかもしれないけれど、人の少ない涼しげな方へと歩いていくことにした。木陰の側で腰を下ろす。
「なんで林檎飴好きなの」
彼女は少しだけ考えて、
「なんでだろ、わかんない」
と言った。
近くには同じように座り込んで花火を待つ人々の姿もあるけれど、二人の間にだけ居心地の悪い静寂が訪れているようだった。
いや、そう思っているのは僕だけだ。
僕は今日、彼女に気持ちを伝えるかどうか悩んでいた。
「ねぇ」
彼女が口を開く。
「……林檎飴って恋愛みたい。最初が一番甘くて、芯まで辿り着く前に、食べるのをやめてしまう人もいる。初めの方ほど甘くなくても、深くまで辿り着くのに時間がかかってしまっても、ちゃんと最後まで食べられるようにできているのにね」
なんだか寂しいよね、と彼女は笑った。
「でも、やめてしまう人もいるけれど、ちゃんと芯まで食べる人もいるよ、きっと。甘くなくても、自分が惹かれて手に取ったわけだから」
我ながら下手な返しだなと思った。少し間があって、彼女は僕の方を見た。
「じゃあ、君にもらった場合は、どうしたらいいの」
彼女は林檎飴を片手に、僕の目をじっと見つめる。僕も彼女から目が離せなかった。
ーー夏は思い出くらいがちょうどいいと思わない?
言葉を深く飲み込んだ。そうだ。きっと、君に好きだと伝えなければ、僕は、君のいない夏を知らないまま大人になることができる。
ーー本当に?
その時、この街の静寂を破るように、夏の終わりを告げるように、けたたましい音と鮮やかな色彩が夜空に溢れ返った。人々はその花束に目を奪われて、心地良い祭りの最後に耽っていた。そうやって、この夜は終わる。
そして、僕らの夏も静かに終わりを告げた。
額に汗が流れていく。線香の煙がゆっくりと揺蕩っていく。
「よっ」
墓石の後ろから、彼女が現れる。
「久しぶり、元気にしてた?」
毎年のように、僕は声を掛ける。
「元気だよ、死んでるけどね」
あの夏の後に、彼女の姿はなかった。だけど、毎年お盆の一日だけ、彼女はここに現れる。
「これ、いつもの」
僕は彼女に花束を手渡そうとする。
「ありがと。これ毎年言ってるけど、私受け取れないから花立の方にお願いね」
「花立にはちゃんと盆花を添えてるよ。これは駅前の花屋で買ってきたんだ。なんだか、一緒に行った夏祭りを思い出して」
僕は彼女の墓石前に花束を添えると、煙草を咥えて火を点けた。
「あっ、煙草吸ってる。子どもなのに」
彼女は口を尖らせて、咎めるように僕に言う。
「僕はもう子どもじゃないよ、煙草もお酒も、なんだってできるんだ」
伏し目がちに煙を吐き出す。
「そっか…、そうだよね」
困ったように微笑む姿が目に写る。彼女はあの頃と何一つ変わらない姿で、そこに立っている。それはただ触れられるような鮮明さを持つと共に、あの頃と変わらない姿という現実に、彼女はもういないということ、それだけをはっきりと突きつけられるようだった。
僕は大人になった。あの頃よりも、できることが増えて、できないことが増えた。そうやって、少しずつ日々を過ごしていく。何も変わらない日々をただ過ごしていく。だけど、君だけがいない。
「あの日」
僕は口を開く。
「あの祭りの日、本当は君にーー」
「そこまで」
彼女は僕の言葉を止める。
「その先は聞かない。だって、その先はないんだから。もう私と君には、その先はない」
そう言って、彼女は後ろを向いた。
「あの日は、もう思い出なの。思い出だからちょうどよくて、思い出だから、もうその先にはいけないんだよ」
立ち去ろうとする彼女を、僕は止める。
「待って、……その先は言わない。だから、もう少しだけ君と話していたい」
彼女は小さく首を振った。
「……ううん、もう終わりにしよう。これは私が甘えていたんだよ。君には、前を向いて生きていって欲しい。君が大人になっていく姿を、ずっと見守ってるから」
彼女は最後に僕の方へそっと振り向いた。その頬に涙が伝った気がした。
「あの日、林檎飴買ってくれてありがとね」
そう言って彼女は静かに姿を消した。
僕はもう彼女に会えないのだろう。
それでも僕は、きっと来年もここに花を添える。
夏の香りが胸を浸していた。
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