花束みたいだ

ーーきっとあなたはこの花の名前も知らないだろうから。


 ボンベイが恋をしたのは駅前のカフェで働くバリスタの女性だった。


「それで、上手くいきそうなの?」


 興味もなさそうに花を見て回るボンベイに、私は素っ気なく話しかけてみる。


「最近はひたすら珈琲について学ぶ毎日だよ。私は珈琲の名前や味の違いなんて全く興味なかったけれど、彼女と少しでも同じものを見て、同じ話ができると思えば、それが何だか楽しいんだ」


 それだけ言うとボンベイは席に腰を掛けて、雑誌を開いて見せた。『美味しい珈琲の全て』なんて、馬鹿みたいだ。


 次の日、私はその駅前のカフェに足を運んでみることにした。


「いらっしゃいませ」


 よく透き通った声で、彼女は言う。誰もいないカウンター席を見る限り、どうやらお客さんは私だけのようだ。


「あなた、初めましてね」


 そう彼女は私に微笑んだ。穏やかな照明も、綺麗な店内も、整理された器具も、それら全ては彼女のための舞台装置のように思えた。それほどに、彼女は美しかった。


「ブレンドを一つ」


 怖じ気付く気持ちに負けないように、私は力強く腰を掛けた。そのなんだか必死な様子が彼女には不思議に映ったようで、また少し微笑まれてしまった。

 手際よくミルで豆を挽き、サーバーの上にドリッパーやフィルターがセットされていく様を目で追う。知らない間に沸き上がっていたお湯はケトルに移されており、丁寧に行われていくハンドドリップと、その鮮やかに一杯の珈琲を作り上げていく彼女を、私はぼんやりと見つめていた。


「……ボンベイ」


 私の方から口を開く。


「来るでしょう?ボンベイ」


 ええ、と返事をしながら、彼女はサーバーからカップへと珈琲を移していく。その揺蕩う湯気が天井へと吸い込まれていく。


「どうぞ」


 淹れたてのブレンドが私の前に差し出された。鼻先で珈琲の香りが舞う。


「少し前からよく来てくれるの。そして、よくお話をしてくれる。彼の話は、とてもユニークで素敵よ。あなたも彼を知っているの?」


 私は返事に詰まった。私は彼を知っている。それは間違いないのだけれど、彼にとって私は一体なんなのだろうか。


「ええ……。よくあなたの話を聞くものだから」


 それだけ答えると、私は俯いた。目の前には、暖かい珈琲の中に、私が映っている。


「そう。あなたはなんだか彼によく似ているわね。可愛らしい女の子。あなたは彼の恋人かしら」


 驚いて私は顔を上げた。いや、違う。私はきっと、珈琲に映る私の顔から目を逸らしたかったのだ。


「いいえ、安心して。私は彼の恋人じゃありませんから」


 その私の様子に、彼女は目を丸くした後、上品に声を立てて笑った。


「そうなのね、ごめんなさい。私の勘違いね」


 そのまま、彼女は続ける。


「彼ね、好きな人がいるんだって。前にそう話してくれたの。それが本当に清く美しい女性だったから、てっきりあなたなんだと思ったわ。彼が好きな人って一体誰なんだろうね。私ね、静かに応援してるのよ」


 綺麗に笑う女性だと思った。ふと、馬鹿みたいに珈琲や彼女の話をするボンベイが頭に浮かんで、胸が締め付けられる思いがした。彼女の入れる珈琲は、ひどく美味しかった。


 翌日、またボンベイはうちの店にやってきた。


「彼女のお店に、美しい花を飾ってあげたくてね。だから、君に花束を作ってもらいたいんだ」


 それは名案だと思った。あのお店にはきっと花が似合うだろう。

 ボンベイ、あなたはね。

 あなたはきっと、この花の名前も知らないだろうけれど、私はあなたのために花束を作ろうと思うんだ。

 あなたの恋がどうか花を咲かせますように。

 ああ、花束みたいだ。

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