51 出番
客席に座ると、ちょうど前方の中央部で舞台全体がよく見えた。照明が落ちていく中トニアは空になったトートバッグを折り畳み、小さな鞄にどうにかしまい込んだ。
前回の祝祭ではあまりまともに見ることが出来なかった舞台。その上で、まずは楽団の演奏が始まる。指揮を執るのは以前も顔を合わせたことのあるベッテだった。彼女が指揮棒で合図を取ると、会場内がしんと静まり返る。
トニアは呼吸音すら響いてしまいそうな空間の中心で、立っているだけで迫力を表すベッテの凛とした姿勢につられて背筋を正した。
ソグラツィオ独特の音が奏でるリズムが会場全体を包み込むと、トニアは迫りくるような滑らかな音の数々に全身を打ちつけられたような衝撃を覚える。降り注ぐ一音一音が肌に触れては消えていき、そのすべてが過ぎ去っていくことが惜しかった。トニアが永遠を望もうとも、曲はいずれ終わりを迎える。
譜面が進むことを惜しんでいる間に、最初の一曲が終わり会場は拍手が鳴り響く。
トニアは初めて真正面から受けたソグラツィオの本格的な音楽に圧倒され、高揚するままに堪能した。楽団の演奏がいくつか終わると、舞台上にはミハウが現れる。
彼のファンも多いのだろう。彼がお辞儀をすると、待ってましたとばかりに拍手が浴びせられ、ミハウは客席に向かってもう一度小さく会釈をした。
大勢の観客の前で彼が歌うところを見たことがなかったトニアは、小劇場での経験は実に贅沢なものだったと思い知る。彼を迎えた拍手が鳴り止むと、皆は待ち望んだ歌声に飢えた耳をそばだてる。
ベッテの指揮のもと、小編成の楽団とともにミハウが歌い始めた。前回聞いたのとは違う歌で、その時よりは少し歌詞を聞き取れはしたけれど、やはりまだすべてを理解することはできない。
しかしそんなことはどうでもよくなるのが歌の不思議な力だった。彼が声を乗せる歌詞が分からなくとも、歌声と曲そのものの魅力は十分に心を奮わせる。トニアは先ほどまで目の前にいた彼が豪勢な舞台の上に立ち、知らない人のように見えてしまうことに僅かな寂しさを覚えながらも彼の歌声を噛みしめた。
あの時よりも彼との関係が深まったからだろうか。
彼の歌声が、もっと素直に、伸びやかに聞こえたような気がして、トニアは自然と表情が緩やかになっていく。
ミハウの抱えていた苦悩を少しは和らぐことが出来たのなら、それはこの上なく嬉しい。彼に楽譜を渡し、真実を伝える。トニアが憂慮していた、その行動によって引き起こされる懸念が歌声に乗って舞い上がり、遠くへと消えていくのが分かる。
トニアは彼が歌い終わると、誰よりも早く立ち上がり拍手を送った。彼女に続いて、周りもスタンディングオベーションを送る。
照明の当たる舞台からだと自分のことはよくは見えないだろう。
彼女はそう思っていたが、実際にはそんなことはなく、ミハウは真っ先に視界に入ってきた彼女の柔らかな笑顔に気付き、穏やかな眼差しで感謝の一礼を観客に向けて返した。
前半のプログラムが終了すると二十分間の休憩に入る。トニアはざわざわと心地の良い喧騒に身を任せ、天井を見上げた。頭を横に傾けると、前にネルフェットが座っていたボックス席が見えてきた。
今日はそこには誰もいない。ピエレットから事前に聞いた話だと、詠唱会は一番最後の演目以外、国王と王妃も会場内には来ないらしい。彼らがいると、観客が委縮してしまうかもしれないとの計らいだった。それまでの間、彼らは王宮で国内に放送されるのと同じ中継を見ていると言っていた。
主催者なのになんとも寂しい話にも聞こえる。それでもトニアはそんな気遣いも悪くないのではないかと少しだけ思っていた。人前にいると気を遣うのは向こうも同じだろう。ならば少しでも安らげる方が互いに都合がいい。
誰もいないボックス席から目を離すと後ろに座る観客たちの声が聞こえてきた。一人はトニアよりも若く、まだ高校生くらいの御令嬢。もう一人は彼女の父親だった。
「お父様聞いた? 今日はネルフェット王子の演奏があるんですってね」
「ああ、聞いたよ。彼は出演するときとしない時があるけど、今年は見れるなんてラッキーだね」
「本当。ああー! 早く聞きたい! 彼の演奏」
「はは……。お前は王子のあの演奏する姿が見たいだけだろう……」
ワクワクとした様子の娘の弾む声に、父親は渇いた笑いを向けた。娘は父親の反応など気にもせず、今度は母親に向かってネルフェットの演奏を楽しみにしていることをひらすらに語り掛ける。
(ネルフェットも、出るんだ……)
彼の演奏を聞いたのはいつが最後だっただろうか。トニアはふと空っぽの屋敷を思い出す。
最近は忙しくて行けていなかった。けれど彼は、トニアがわたわたとしている間にもきっと真剣に練習に取り組んでいたはずだ。でも、詠唱会に出るのだから宮殿でソグラツィオの楽器を練習する必要がある。だから彼も同じく余裕はあまりなかったのかもしれない。
トニアは瞼を閉じて初めて聞いた彼の音を耳に蘇らせた。あの日に見た強烈に燃えるような夕陽に溶けた彼の姿。拙くも楽しそうなヴァイオリンの音色。彼に出会った時、まさかこんな紋様事件に関わることになるなんて思いもよらなかった。豪勢な詠唱会にも出席して。彼がもたらした変化はトニアにたくさんの未知を教えてくれた。
それでも、トニアの中でネルフェットの印象はあの時のまま。
素朴な音を奏で、懐かしい故郷の景色を思い出させてくれた、ただ一人の、飾り気のない青年。
着席を促すベルが鳴り、再び会場は暗くなっていく。
トニアは瞼を開け、幕が上がっていく舞台をゆっくりと視界に入れる。
拍手に包まれたその先には、ピアストエの前に座るベッテ。先ほどまであったたくさんの譜面台と椅子は片付けられているようで、一部を奥に残して舞台の上はスッキリとしていた。
ベッテが立ち上がり一礼すると、舞台袖を手で示す。すると皆はまた手を叩き、拍手の音に迎えられてネルフェットが舞台に向かって歩いてきた。
正装をした彼の姿。後ろの娘のため息が聞こえた気がした。しかし観客たちはすぐに拍手とともにこそこそと声を上げ始める。
トニアも思わず前のめりになり、目を細めて舞台を歩くネルフェットのことをじっくりと観察した。
ざわめくのも当然だ。
「…………ネルフェット?」
彼が持っているのは、トニアがよく見てきたものと同じ。先ほど回想していた時に彼が大事に抱えていた物。
「ねぇ、あれって……」
「どういうこと……? いいの……?」
「王子って、あれ弾けるの?」
「はじめて本物を見た……!」
周りから聞こえてくるそわそわとした声。皆、彼が持っているものを素直に受け入れていいのか迷っているように聞こえた。気が引けているのか、どの声も不安そうだ。
騒然とする会場の様子にネルフェットが気づいていないはずがない。それでも彼は、ピアストエの前に座るベッテと目を合わせると、構わずに楽器を構える。
トニアはごくりと息をのみ込んだ。
彼が持っているのはヴァイオリン。それは、この国では禁じられているはず。
それをこんな公の行事で大々的に演奏しようだなんてどうかしている。
はらはらとする心が落ち着きを失い、トニアは鼓動が早くなるのを感じていた。
会場を見回し、彼女がどこかに座っていないかを必死で探してしまう。こんな場所で、こんな舞台で、バレないはずがないのに。トニアはネルフェットの意図が読めずに、焦った表情のまま彼を見つめた。
ざわめきが治まらないうちに、ネルフェットは弓で弦を引く。重厚な音が会場に響くと、観客たちははたと口を閉じ、舞台の中央に立つネルフェットに注目した。
調弦が終わると、もう一度ベッテと目を合わせる。こくりと頷いたベッテは、グローブのついた手で鍵盤を丁寧に叩きだした。ベッテの演奏をしっかりと聞いたのも初めてだったトニアは、まずその音の持つ風格に驚き、しばしの間そちらに気を取られる。しかしネルフェットがベッテの演奏に合わせて弦を奏で始めると、あっという間に彼に意識が持っていかれた。
前に聞いた演奏とは歴然として違う。
音に拙さなどは全くなく、音の繋がりも自然に移ろいメロディーを奏でる。
堂々とした彼の演奏に、トニアだけではなく観客たちは皆魅了されていくように夢中になった。
確かに、二人の合奏は息もあっていて素晴らしい。けれどトニアは、彼らが奏でる曲に聞き覚えがあり、ふと目を開く。
(あれ…………これって……)
ソグラツィオとマニトーアの音楽は、リズム感や好まれる音が異なっている。
先ほどまで聞いていた楽団の演奏やミハウの歌は、どれもがソグラツィオ音楽と言われるものだった。
しかし今、耳に届くその曲は、トニアの耳には懐かしさを思い起こさせる。
幼いころから聞いてきたマニトーアの音楽。それによく似ているからだ。
この国ではあまり聞き慣れない音色に会場はすぐに虜になった。彼らの演奏が、迫力があるのに親しみやすいものだったからかもしれない。
ふと、ネルフェットが瞳を開いて客席の中央を見た。
(えっ…………)
彼と目が合ったような気がして、トニアは微かに顔を上げる。
再び演奏に集中しているネルフェットはもうこちらを見てはいない。優雅に、そして何より楽しそうにヴァイオリンの演奏を続け、彼の唇は朗らかに弧を描いていく。
繊細な音が心まで響くたびに、トニアはリスクを感じて高鳴っていた鼓動とは違うものが心臓を打っていることに気づいた。でもこれを自覚してしまったら、また迷宮に入ってしまう。
トニアは素直になりたい心と、その先に見える苦しみを天秤にかけ、ぐらぐらと揺れていた。
(どうして…………)
ぎゅうっと胸のあたりを握りしめ、トニアは顔を伏せて俯いた。心を守るように傾いていく彼女の目元には、熱の上がった涙が溢れそうになる。
彼の音色が胸に直接届く。この場の華美な雰囲気に惑わされているだけ。慣れない空間に浮足立って、勝手に舞い上がっているだけ。それなら良かった。
けれどあまりにも正直なその音に、トニアはぎゅうぎゅうと心臓が押しつぶされそうになる。
そうしているうちにも、曲は知らない音を次々に奏でていく。舞台の上では、ピアストエを弾いているベッテの表情が時折歪み始めた。近くにいるネルフェットもそれに気づき、演奏を止めないまま彼女のことを心配そうに見やる。
「…………うっ……!」
少しずつ指先に痛みが伴い始め、ベッテはミスタッチを繰り返すようになった。
「だめ……だめだめだめ…………!」
自身の手に異変が生じていることは本人がよく分かっていた。どうにか最後まで演奏をしようと、彼女はもがきながら必死に鍵盤を捉え続ける。あと少し、あと三小節……。
ベッテは意地で指を走らせ続けた。そして最後の一節を終えた拍子に、彼女の手は完全に止まる。
わぁっという今日一番の歓声が上がり、観客たちは一斉に立ち上がって二人を称賛した。
しかしベッテは両手の平を茫然とした様子で見つめたまま、立ち上がることが出来なかった。代わりにネルフェットが二人分のお辞儀を返し、すぐにベッテに駆け寄ろうとする。
「指が…………動かない…………」
へたりと肩を落としたベッテは、骨が抜けたようにだらんと垂れた両手から目を離して、絶望の表情でネルフェットを見た。
ネルフェットが口を開きかけた時、人一倍大きな拍手が舞台上に響く。
はっと二人がそちらを見ると、淑やかな顔をしたリリオラが恭しく二人に拍手を送っていた。
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