52 アンコール
ネルフェットは途端に彼女を警戒し、ベッテを守るようにリリオラの前に立った。
「あらあらあららら。素晴らしい演奏だったわねぇ? ベッテ」
フフフ、と微笑みながらリリオラは片手を口元に添える。
突然現れたリリオラの姿に、観客たちは何事かとまたざわめき始めた。リリオラはそんな彼らに向かって両手を広げて大層に礼をして見せる。
「皆さん、ごきげんよう。楽しんでいらっしゃるかしら? 申し訳ないわねぇ。お見苦しいところを見せてしまって」
彼女の美しい声が響き、観客たちは動揺しながらも彼女の動向に気を向けた。
「なんて耳に毒な音楽なのでしょう。皆さま、今日は帰る前に毒抜きを忘れないでくださいね。まさか、王子がこんな失態を侵すなんて、私にも予測できないことがあるみたいねぇ」
リリオラのことを知っている者は、彼女の余裕たっぷりの笑みにたらりと冷や汗をかいた。彼女のことを知らない者も、その独特の妖艶な雰囲気に僅かな不安を抱く。
「ネルフェット!」
キッと彼を睨みつけ、責めるようにどすの利いた声だけで彼を殴りつける。
ネルフェットの後ろにいる、病人のような顔をしているベッテのことを虫けらを見るような目で見た後で、リリオラは人差し指を立ててネルフェットを呼びつけた。まるで公開処刑をするような光景に、観客たちは存在感を消そうと息をのむ。
「どういうつもり? ネルフェット。一体、どこでそんなものを手に入れたの」
「……貴女には知らなくていいことだ」
「それは聞いてから私が決めることよ。……ああ、それとも何? あの娘かしら?」
リリオラはニヤリと笑い、ゆっくりと観客の方へと視線を向けようとする。
「違う! 彼女は関係ない! 彼女を巻き込むな!」
すかさずネルフェットが声を上げ、その威勢の良さにリリオラはすぐに視線を戻す。
舞台上の出来事を眺めることしかできないトニアは客席で手に尋常ではない汗をかいていた。ネルフェットが危ないかもしれない。根拠はないが、リリオラの何食わぬ顔に恐れを抱いたトニアは直感でそう思ってしまった。
「まぁ。大事なお友だちを庇おうと言うのね? なんて優しい子なのかしら。そう。そうよ。私が育てたのは、そういう子のはずよ、ネルフェット。こんな裏切り、身が切られるような思いだわ。ショックで死んでしまいそう」
儚い表情をして、リリオラは涙をぬぐう振りをした。ネルフェットは彼女の小芝居に顔をしかめ、一段と凛々しい刃のような瞳を向ける。
「……何よ。怖い顔しちゃって。随分な態度ね」
彼の反応がつまらなかったのか、リリオラはちっと舌打ちをしてため息をつく。
「これは俺が自分で決めたことだ。ベッテに伴奏を頼んだのも俺だ。彼女は何も悪いことなどしていない」
ベッテは自分の前に立ちはだかるネルフェットの背中を見上げ、力の抜けた両手をだらりと垂らした。今にも椅子から倒れそうな彼女。ぐらりと身体が傾くのを、袖から駆け付けたミハウが支えた。
「ふぅん……。なら、なおさら、再教育が必要みたいねぇ」
リリオラがネルフェットのことを舐めるように見ると、ネルフェットは彼女の腰のベルトについている巾着に目をやった。
リリオラもその視線の動きに気づいたのだろう。ふふ、と目元を緩ませ、巾着をベルトから外してネルフェットに向けて突き出して見せた。
「部屋に忍び込んだのはあなたね。ネルフェット」
「…………ああ」
「あらあら……。教えを守っていた可愛い子は、どこに行っちゃったのかしら」
リリオラはそう言って笑いながらもネルフェットのことを睨みつける。
「…………リリオラ。あなたは魔法に囚われた悪魔だ」
「まぁ。なんてロマンチックなことを言うのかしら」
言葉こそ余裕があれど、リリオラの表情には怒りが滲む。
「あなたはかつてのマニトーアへの一方的な恨みで、今のマニトーアすら壊そうとしている。規制することで、この国の国民を、いや、世界を思い通りに動かせると思い上がるな」
「あら? この子は一体何を言っているのかしら」
ネルフェットの訴えを聞き、観客たちが疑念に満ちた声をひそひそと上げるのが聞こえてくる。リリオラはちらりとそちらを気にしながらも、罪のない顔をし続けた。
「アルヴァー・カンテレラ。彼を言いがかりの罪で追放し、殺したのはあなただ。リリオラ。国に尽くして、音楽を愛した彼を、あなたは襤褸切れのように捨てた。どんな音楽を好もうと、学ぼうと、自由なはずなのに。それを強引に縛り付け、押し付けた。彼らに罪などなかったはずだ」
ネルフェットの告発に、ベッテを抱き支えるミハウが顔を上げる。表情は険しく、そのまま視線はリリオラへと向けられた。
「…………くだらないわ。ありものにしか縋りつけない作曲家なんて、居ない方がマシじゃない。私は、業界の洗浄をしてあげただけよ。腐ったものは、すぐに伝播してしまうから」
「……じゃあ、認めるんだな? 彼を殺したことも」
「…………まどろっこしい。言わないと分からないの?」
大きな動揺が会場内を駆け巡った。
大波のように後方までうねるどよめきに、トニアは血の気が引いていくのが分かった。彼の死因は謎のままだった。でも、今、その真犯人が公に晒された。舞台上にいるミハウは、精悍な表情のままリリオラのことをただ睨みつけている。取り乱すことを抑えるように、強くその足を床に抑えつけているようにも見えた。
「すべてはソグラツィオの発展のためよ。私がどれだけ尽くしてきたと思っているの? 感謝もせずに、罪だけを擦り付けるのかしら?」
リリオラは開き直ったかのように堂々とした声を出す。ネルフェットは彼女から目を逸らすことはなく、少しずつ彼女に近づいていった。
「いいや。リリオラの貢献をなかったことになんてしない。それは、父も母も分かっていることだ。でも、でもあなたは……あなたは復讐に囚われすぎて、やりすぎた……! 一線を、越えたんだ」
「人殺しが? 戦争を知らないの? 処刑を知らないの? 人が命を落とすのには時代に沿った理由があるものよ」
「いいや違う!」
ぴしゃりと会場内を震わせる声が響く。ネルフェットの毅然とした態度に、リリオラは思わずびくりと目を丸くした。
「あなたは、アルヴァーさんだけではなく、ベッテやミハウ、そして、トニアを、縛り付けている。彼らの大事なものを奪って、平気な顔をしてるじゃないか!」
「…………ネルフェット?」
彼の口から出てきた自分の名前に、トニアは前のめりになって前の椅子の背もたれに手をついた。
「リリオラ! 俺はあなたのことをこれ以上野放しになんてできない。あなたはマニトーアを貶めるためならなんだってする。手段も選ばない。俺も……俺も馬鹿だった。気づけなかっただなんて。あんなに素晴らしい国を、何もしていないのに敵国だと認識してしまうところだった! 今の標的はマニトーアだけかもしれない。けど! あなたの理想がそこで止まるはずなどない。いずれ、また世界に悲劇をもたらすことだってあり得る」
つかつかとリリオラに詰め寄るネルフェットは、目の前にしたかつての一番の恩師に向かって声を張り上げた。
彼の表情は親愛なる人を断罪することへの苦悩に満ち、それでも決して捻じ曲げることのない力強い意思を宿していた。
「俺は……俺は、あなたの望むように、自由などなくてもいい。人形でも砂の令嬢でも、なんでも望み通りの人間に縛り付けておけばいい。それでもあなたの思い通りになど動かないけどな。……でも、彼らのことを縛り付けるな! ベッテの手も、ミハウとトニアも……。トニアの、彼女の人生を縛り付けるな!」
びりびりとした振動が身を震わせ、トニアは放心状態で口も閉じられずにネルフェットの怒りを目の当たりにした。
「わた、し……?」
リリオラに直接何かをされた覚えのないトニアは、ふと目線を落として右手首を見やる。
「……え……?」
リリオラと紋様を交互に見て、トニアは理解の範疇を越えた見解に辿り着かずにぼうっとしてしまう。
「あなたが壊してきた世界を、俺はこれから新たに紡いでいく。時代にそぐわない規制などいらない。リリオラ、確かにあなたは俺の教育係だ。あなたのおかげで、王を継ぐことの責任や意味がよく分かった」
ネルフェットは微かに笑みを浮かべ、黙ったまま目を丸くしているリリオラに最後の感謝を伝えた。
「…………あなたは、当事者じゃないからそんなことが言えるのよ」
わなわなと唇を震わせて、リリオラは巾着を持った手を体側に落とす。
「あなたに分かるの? 裏切られた私の悲しみが」
感情を見失ったリリオラの冷たい声に、ネルフェットはぐっと警戒の眼差しを向ける。
ネルフェットの警戒を目にしたリリオラはニヤリとほくそ笑み、目にも止まらぬ速さで巾着を開けて石をつかみ取った。
「……あ! まずい!」
ネルフェットが手を伸ばしたのも束の間。リリオラは客席に向かって石を掲げ、会場内に雷鳴を轟かせた。どこからともなく真っ黒な雲が浮かび上がり、容赦なく眩い雷が客席へと落ちていく。
「キャー!!」
パニックになった観客たちは、我先にと出口を目指し、逃げ惑う人々をリリオラはけらけらと笑いながら雷で弄ぶように追いかけ続けた。
「やめろ……!」
ネルフェットがリリオラを止めようと飛びかかるも、運動神経の悪い彼の動きはリリオラにとっては容易く避けられる。愉快に笑いながら、不格好に自分を止めようとするネルフェットのことを華麗にかわした。
観客たちの悲鳴が響く中、リリオラは口角を上げて頂点に上った怒りをネルフェットにぶつける。
「私がマニトーア国王にされた扱いを、もう知っているんでしょう? マニトーアを敵国から守り、国益をもたらし、強靭な国へと育て上げた! にもかかわらず! あの臆病者の王様が全てを無に返したんだ! 私のこの力がさぞ疎ましかったことだろう。彼が一生をかけても成し遂げられないことを一晩でいとも簡単にやり遂げてしまうんだからねぇ!」
手に持った魔法石がおどろおどろしく緑の光を放つ。ミハウは意識が朦朧としているベッテを抱きかかえながら舞台の端まで移動した。途中、その緑色の光をじっと見つめ、昔に見た光を思い出す。
「あいつが最後に何を言ったと思う!? リリー、一緒に踊ろう。だ! そうやって私を手中に収めたつもりになって、この石を奪おうとしていたんだ! あいつを信じた愚かな私の心がどれだけ踏みにじられたと思う!?」
「くそっ……! このままじゃ……」
魔法石の光の眩さに眩暈がしそうになりながら、ネルフェットはどうにかリリオラを捉えるチャンスがないかを探った。どうやら観客たちは衛兵に守られて大半が逃げられたようだ。がらんとした劇場内に落ち続ける雷の音と焦げ付いた匂い。ネルフェットは音楽堂が崩れてしまう前になんとかしなければと、自身の運動神経を恨みつつも考えを巡らせ続ける。
「あいつは! 私を裏切った……! あいつの残した国に、希望などない……!!」
リリオラの恨み節がつんざめく。もうすっかり気が狂ってしまったようにリリオラの顔は獣そのものだった。
その時、彼女の後ろに見えた銀色に光る凛々しい像に、ネルフェットは一瞬の気を取られる。すると。
「待ってください……! そ、それは、ちょっと、違うかもしれません……!」
勇気を振り絞ったのか、若干の震えを伴ってネルフェットの耳を奪う声が背後から聞こえてきた。
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