50 試験

 試験の当日は、緊張で朝からまともにご飯すら食べられなかった。けれど食べなければ試験中に集中力が切れてしまう。トニアは無理矢理にパンを口に放り込み、どうにか噛み潰した。


 会場が行き慣れた学院だったことは幸いだった。道に迷う恐れもない。それでもトニアは時間にかなりの余裕をもって家を出た。早く着いた分、その場で勉強を詰めればいい。とにかく落ち着いていられなかったのだ。

 見慣れた建物の中だろうと、試験ともなると雰囲気は様変わりし、教室に入るなり緊張感はますます高まっていく。トニアは席につき、すでに来ていた何人かと同じように参考書を開いた。


 一年に一度だけの試験。今日駄目なら、また一年後までチャンスはない。

 限られた機会を想いながら、これまで身を尽くしてきた日々を胸に秘め、トニアは鐘が鳴るまで最後の追い込みを続けた。

 長い年月をかけて辿り着いた試験の本番は、体感で言えば一瞬だった。

 周りの人々が次々に席を立ちあがる中、トニアは机の上を片付けながら早速の反省会を開催する。

 採点してみなければ結果は分からない。自己採点が出来るようになるのももう少し時間がかかる。それに、審査員が評価する項目だってある。そこは流石に事前には目安も分からない。


 門を出て、トニアはふと足を止めて空を見上げる。

 今日は最近では珍しく、雲もあまり出ていない晴天だ。空気が冷たいから、真に迫るほどの存在感を示す澄んだ青が地上を包み込んでいる。


「……終わったんだ……」


 つい息がこぼれた。


「…………終わったんだね、試験」


 じわじわと湧き上がる実感に、トニアはゆるやかにほぐれていく心を解放する。


「お疲れ様……!」


 あとは天に祈るだけ。トニアはぐっと目を閉じてから、健やかな空気を吸い込んだ。

 感触は悪くない。

 結果が分かるまで、生きた心地はしないだろう。

けれどトニアは自分を信じて一歩ずつ足を踏み出し学院を後にした。


 試験が終わってから五日後には、トニアは後に残してきた課題に取り掛かる。

 以前ネルフェットとともに勉強をした少し身綺麗な衣服を身に纏い、化粧も身につけたアクセサリーに見劣りしないように入念にした。いつもより時間をかけて身支度を終えたトニアは、忘れないように壁に飾っておいた招待状を鞄に入れると、これまた履き慣れない靴に足を収めて目的の場所へと向かう。


 この日は詠唱会が開かれる。ピスタチオの苦い思い出を刻んだあの音楽堂を見上げ、トニアはごくりとつばを飲み込んだ。

 周りの招待客の荷物は皆小さく、メインの鞄とは別にトートバッグを肩に下げたトニアは明らかに浮いている。しかし彼女はそんなことは気にもせず、皆よりも一足お先に音楽堂へと入っていった。


 舞台裏の場所はもう覚えた。嫌でも忘れられないその場所へ、トニアはコツコツと足音を響かせながら足を踏み入れる。ばたばたと開演準備をする人たちは、既にトニアのことを認識しているようだ。彼女が勝手に裏に入ってきても誰も何も言うことはなく、むしろ愛想良く挨拶をされてしまった。

 トニアはきょろきょろと辺りを見回して、楽器の整備をしている楽団員の塊を見つけた。

 彼らに少し尋ねてみようと近づいていく途中、大きな手が視界にカットインして彼女の前方を阻んだ。


「トニア、何をしてるんだ? 懲りずに建物見学か?」


 見上げると、ミハウが呆れた顔をしてため息をついていた。トニアは彼を見るなり心臓の音がぎくしゃくと壊れたおもちゃのように軋んでいくのが分かった。でも一方で、探していた彼を見つけられたことに表情は安堵する。


「いいえ。忙しそうなので、見学はまた今度」


 くすっとミハウに微笑みかけ、トニアは凸凹とした感情に眩暈を覚える。


「そう? じゃあどうしたの」


 ミハウはトニアの心の中がぐちゃぐちゃに噛み合わない様子を見透かしているかのように眉をひそめ、人気のない場所へと彼女を誘導した。

 周りが静かになり、トニアは僅かに平静を取り戻す。


「ミハウさんに、どうしても伝えたいことがあって……」


 誰も寄り付かない小部屋。埃の気配を感じるこの場所なら、恐らく誰にも聞こえない。トニアは深刻な眼差しでミハウを見つめる。震えないように、彼女の手はトートバッグの持ち手をぎゅっと掴む。


「あ、そうだ……。試験、終わったんだよね? お疲れ様。上手くいくといいね」

「えっ……? あ、はい……。ありがとう、ございます……」


 なかなか続きを言わないトニアに対し、ミハウが興味のなさそうな声で会話を振ってきた。


「試験に合格して、学院も修了したら、トニアはマニトーアに帰るの?」

「……わ、分かりません。まだ、考えていなくて……」

「そう。まぁ結果が出てから考えればいい」

「はい……」


 ちらりとミハウの左手首を見やる。袖で隠れてしまっているが、確かにそこには紋様がある。すっかり自分の身に染みてしまった紋様。はじめからそこにあったかのように違和感の失せた今、トニアは改めて自らの紋様を袖の下から出す。


「…………紋様があるからって、君の選択を狭めるつもりはないよ」


 トニアが将来の選択をするときに、紋様のことを気にしてしまうと思ったのだろう。ミハウはつくづくどうでもよさそうに呟いた。


「………………私、分かったんです」

「……何?」


 トニアが躊躇いのままに声を出したので、ミハウは眉間に皺を寄せて小さな声に近づく。


「これ…………ミハウさんに渡したくて……」


 重たい手を動かし、トニアはトートバッグを開いた。取り出したのは大きな封筒。封筒の中身は見せないまま、トニアはそれをミハウに差し出す。

 ミハウはトニアに促されるままに疑心の目をしながらも封筒を受け取った。


「これ、何?」


 少し厚みのある封筒の裏表を見た後で、ミハウは意味が分からないと言いたげにトニアを見る。


「……アルヴァー・カンテレラ」


 消えそうな声で、トニアはどうにかその名前を告げた。心臓が今にも口から飛び出そうなほど彼女は緊迫していた。動悸が止まらず、彼が何を言うのかが怖くて、ぎゅっと唇を噛む。

 ミハウはその名を聞くと、眉をピクリと動かして再び封筒を訝しげに見つける。


「ご、ごめんなさい……っ! こんな、公演の前に……! で、でも、渡せるのは今かなって思ったんです。きっとミハウさんの歌を聴いたら、私はまた足踏みしてしまうから……。だ、だから、私の我が儘なんですけど……今、渡したくて……」


 彼の目が見れず、トニアは目を伏せて頭を下げた。


「私、か、勝手に、お父様のこと調べていました……! そ、そうしたら、マニトーアで起きた事件に行きついて……それ、それで……警察の方に、マニトーアの、警察の方に、借りたんです。……その楽譜を」

「…………楽譜?」


 ミハウの声は複雑に絡み合った蔦のように向こう側が読めなかった。トニアは頭を下げたまま続ける。


「はい……。事件の、あの……その事件の、当事者が住んでいた家にあった……い、遺品……です」


 彼が父の安否についてどう思っているのかは分からない。だからこそトニアは、はっきりと事件の顛末を断言することができなかった。噛みしめた口内からは僅かに血が滲んでいく。トニアはそんな痛みにも気がつかなかった。


「…………そう。わざわざ、そんな手間を」


 ミハウは落ち着いた呼吸のまま、目の前で震えながら頭を下げ続けているトニアを見やった。


「ありがとう、トニア」

「…………ミハウさん」


 トニアの気のせいだったかもしれない。けれど彼の和らいだような声に、彼女はそっと顔を上げた。ミハウは落ち込んでも悲しんでもいない表情をしていて、反対にトニアは重責に押しつぶされ脆くなった眼差しで彼を捉える。


「父のことは、もう諦めていた。当然、生きてはいないだろうと思っていた。もう誰も知らない場所で、静かに亡くなったのだと。だから、遺品を手にすることがあるなんて思いもしなかったよ」


 ミハウはトニアの肩を支え、そっと彼女の身体を起こした。


「君のお節介には感心せざるを得ないな」


 ほろりとこぼれたトニアの涙をミハウは人差し指で拭った。


「だから礼を言う。ありがとう」

「……いいえ。お礼なんて、いいんです。わ、私……」


 ミハウの指先が頬に触れ、不意に赤くなったトニアは慌てて自らで涙を拭く。その時に、自分の右手首が目に入り、鮮やかな紋様がライトに照らされたように見えた。


「きっと……これが、紋様の意図なんです」

「……え?」


 トニアは涙で潤んだ瞳でミハウを見上げて朗らかで晴れ晴れとした笑顔を向ける。


「運命の紋様は、これを届けるために、私たちに現れたんですよ……!」


 彼女の澱みのない声にミハウは瞬きをした。


「私はマニトーアの人間です。ミハウさんは、宮廷の関係者。あまり、思うように動けないこともありますよね。だから、好きに動ける私だからこそ、この楽譜に辿り着けたんです。きっと……!」

「…………トニア、それは……」


 ミハウは思いがけない彼女の言葉に戸惑い、ふるふると首を横に振る。


「私もミハウさんに出会えたおかげで、素晴らしい建築物に巡り合えましたし、ずっと憧れていた経験をしました。貴重な歌声だって、独り占めしてしまいましたよね」

「…………」

「ミハウさん。その楽譜は、あなたに出会うのをずっと待っていたんですよ。きっと……きっと、これで、離れていた家族が、また、会えますよね……?」


 トニアが嬉しそうに笑うので、ミハウは何も言えずにぐっと封筒を持つ手に力が入る。

 ミハウは彼女の知らない真実を隠していることに後ろめたさを感じ、崩すことを禁じた表情を保つ葛藤で瞳は険しくなっていく。

 彼女にはそんな眼差しすら、父の真相をまだ処理しきれていない苦悩に見えるのだろう。ミハウは懸命に自分を気遣う彼女の瞳に痺れを切らした。

 ほんの僅かな気の緩み。隙間が空いた心には、抑え込んでいた風がようやくの出口を見つけて一気に吹き込んでくる。


「…………トニア。君は、きっと素晴らしい建築家になれる」

「……え?」


 トニアは突然の称賛に、ミハウのことをきょとんとした顔で見つめる。


「人のことをよく見て、考えられる君は、街の人のこともよく見ているんだろう。彼らが何を望み、何が彼らの望みとなるのか。それをきちんと探し出す」

「…………そ、そんな……大層なことは……」

「建物を作るには、技術や知識、お金だけではどうにもならないことだってある。けど君は、最も大事なものを持っている。トニアの情熱は、必ず報われるべきだ」

「……ミハウさん?」


 淡白な声ではあった。けれどその中に、これまで隠していた彼の本意が織り込まれているようで、トニアは本格的に照れくさくなってきて身に余る言葉に心がそわそわしてきた。褒められているのが嬉しい。だけど、やっぱり実績も何もない今は恥ずかしい。


「トニア。前に君は猪突猛進だと言ったことがあったよな。それは誰もが持っているものじゃない。君の持つ、君だけの特権だ。だからトニア。勝手に諦めたりするな」

「…………あきらめる……?」


 建築家になることを諦めたことなどない。確かに模試で落ち込んではいたけれど、だからといって道を断つなんて考えもしなかった。ミハウは言葉を飲み込み切れないトニアに揺らぎのない声をかけ続ける。


「そのまま真っ直ぐに進んで行けばいい。それがきっと幸運をもたらす。こんな紋様なんて必要ない」

「ミハウさん……」


 トニアの肩をぽんぽんと優しく叩き、ミハウの口元は穏やかに微笑む。


「俺は、父の遺品を手にできて幸運だ。君に出会えたことに感謝してる。……けど、君を幸せにできるのは俺じゃない」

「…………」


 トニアの瞳が揺らぐのを見ると、ミハウは彼女の鞄から落ちそうになっている招待状を手に取り、彼女に改めて渡した。


「君を招待した本人に、顔を見せてやってくれ。きっと喜ぶから」

「……え? でも、それ……って、ミハウさんじゃ……」


 招待状を受け取り、困惑したように眉を下げるトニアにミハウは静かに首を横に振る。

 とんとん、と招待状の下部に書かれたサインを示すように指先で叩く。


「この楽譜は、公演のあとで目を通すよ。先に見ると公演中、何を思うか分からないからな」


 封筒を掲げたミハウはそれだけを言い残し、彼が指差した箇所を目で追うトニアを横目に小部屋を出て行った。

 トニアは細い筆先でさらりと残された流れるような筆跡を見つめたまま、開演前の着席を合図するベルが鳴るまで放心状態でその場に佇んだ。

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