48 からくりの心
「ベッテ!」
雄渾な声が響くと同時に、閉じ切っていた扉が大きく開かれる。
飛び込んできたボールが背中にぶつかったような衝撃を覚え、名前を呼ばれた彼女は目を丸くして振り返った。
「ネルフェット……? どうしたの? 今、練習中なんだけど……」
ピアストエの鍵盤に囲まれるようにして中央に座るベッテは、手を宙に浮かせたまま固まった。
「練習中に悪い。でも、今すぐに話がしたいんだ」
扉を閉め、ネルフェットは少し眉を下げながらもしっかりとした姿勢のまま悠然とベッテの方に近寄ってくる。彼の足音を耳に入れながら、ベッテは警戒するようにグローブに覆われた両手を膝の上に置いた。
「何……? 急ぎなの?」
「ああ。そうだ。もう待ってなんていられない」
鍵盤越しに向かい合った二人は、途端に流れ出す神妙な空気に表情が硬くなっていく。
「……………………聞きたくない」
ネルフェットを冷たく突き放すような瞳を上げ、ベッテは唇を強く結んだ。彼が何を言おうとしているのか、敏感な彼女にはすぐに分かってしまう。
「……ベッテ」
彼女が誠実であることを知っているからこそ、ネルフェットはその反応に胸が切り刻まれるような罪悪感に誘われる。それでもここで引くことはしない。彼は苦しみと困惑、そして悲しみが入り乱れた切なげな表情のまま、小さく低い声を零した。
「君を責めるつもりなんてない。俺は、君のことを誇りに思っている。それは決して、何が起ころうと変わらないんだ。それだけは信じてくれ」
不意に逸らした彼女の瞳を追いながら、ネルフェットはピアストエにそっと手をついて正直な声色で語り掛ける。
「ベッテが王宮に来てくれて、本当に感謝してる。ベッテのおかげで、ソグラツィオの音楽は多大な発展を迎えた。楽団員たちの士気も上がったし、皆、君の創る音楽が大好きだ。俺も……こっそり練習した」
最後の方は少し恥ずかしそうに声が細くなった。
「でもやっぱりベッテの実力には追い付かないからさ。難しくて、なかなか思った通りに弾けないんだ。今度、コツを教えてくれよ」
ネルフェットは情けなく笑い、微かに頬を掻いた。
「…………そんな言葉、なんの慰めにもならない。…………言葉で恐れを取り除けるのなら、私は……なにも怖いものなんてない」
カタ、カタ、と木片が揺れる音がピアストエの下から僅かに聞こえてくる。ネルフェットは顔を伏せたベッテの眼下に見える木のグローブに閉じ込められた両手の指が小刻みに震えていることに気づき、ついていた手を離して鍵盤に囲まれている彼女の目の前に移動した。
「ベッテ」
鍵盤という障害物がなくなり、二人の間を阻む壁は何もなくなった。それ故に、彼によく見えてしまう両手をベッテは身体で隠そうとする。ネルフェットに背を向け見知らぬ恐怖に怯えている彼女を目にし、彼はそっと上半身を屈めて隠しきれない彼女の両手に触れた。
背後から優しく伸びてきたネルフェットの手がグローブの隙間から直接ベッテの指に触れ、彼女は忘れかけていた他人の温もりが指先に伝わりビクリと肩を跳ねさせた。
「ベッテの苦しみを俺は知らない。それって……やっぱりおかしいよ。ベッテが大丈夫だって言うからって、それだけの理由で今まで見て見ぬふりしてた俺って、確かに馬鹿みたいに間抜けだよな」
まだ鮮明に覚えている魔法石の記憶から伝わってきたリリオラの自分に対する侮蔑に、ネルフェットは自嘲的に笑う。
弱弱しい彼の笑い声に、ベッテは理由が分からず小さく首を傾げた。
ネルフェットはベッテの右手を掴んだまま、跪くようにして体勢を下げる。彼に導かれるようにしてベッテも身体の正面を彼の方へと向け、自分を見上げる不甲斐ない表情をじっと見つめた。
「ベッテが宮廷楽長に就任した時、このグローブについて聞いたら、生まれつき骨が弱くて、矯正としてつけているだけって言ってたよな。演奏するにも指揮をするにも支障はないから大丈夫だって。何ともないような顔をして言うから、俺はすっかりそれを信じちゃったよ」
膝の上に置いた彼女の両手を慈しむように見て、ネルフェットはまた眉を下げて自虐する。
「見たもの、聞いたこと、それをそのまま鵜呑みにし続けて、さぞ厄介な上司だったよな」
ぎゅっと、両手をグローブに覆われた彼女の両手と繋ぐと、ネルフェットは「ごめんな」と真剣な眼差しで謝った。
「…………見たの?」
「え?」
ようやく沈黙を破ったベッテの静かな声に、ネルフェットは彼女の沈み切った瞳を見上げる。
「見たんでしょ? あの石の記憶を」
「…………知ってるの?」
ネルフェットの問いに、ベッテはこくりと頷く。
「正確には、見ざるを得なかった、って、感じだけど」
震えが治まった自身の両手を見下ろしてベッテはぽつりと呟いた。グローブ越しでは、しっかりと握られている彼の手の感覚も何もかも分からなかった。それでも彼が自分にかける言葉が嘘ではないことは伝わる。
もし、ベッテがリリオラの企みに心から賛同しているとしたら。そんな可能性すら当初から除外したような彼の疑いのない心を感じた彼女は、ネルフェットのきょとんとした瞳を見つめ、小さく口を開いていく。
「ここで働けるってなった時に、実際の配属前にまずはリリオラとの面談があったの。最終審査、ってところだったのだと思う。そこで、あの石を渡された」
「……どうして」
身内である自分すら知らなかった真実を、まだ宮廷で働くことになったばかりの人間に教えるとはどういう魂胆か。ネルフェットは吐いた息とともに自然と声が出て行った。
「理由なんて簡単。リリオラは、都合のいい手下が欲しかっただけ。私は、それに選ばれた。宮廷楽長としては若すぎるって、周りからはあまり良い顔をされなかったこともあるから、そういう風に居場所探しに必死になっている私の存在は、彼女にとっては待ってましたって感じだったんでしょう」
淡々としたベッテの声。しかしいつもとは違って、そこには水でふやけてしまったような微かな憂いが溶けていることにネルフェットは気がついていた。
「だから、彼女はあの石で過去に自分がした恐ろしい記憶を見せて、それで、私が逆らうことがないように恐怖を植え付けた。あの時辞めても良かったのだと思う。でも、もうすでに彼女のことを知ってしまったし、それに、私だってようやく掴んだチャンスを逃したくはなかった。ずっと憧れていたアルヴァーさんと同じ職に就けるなんて、願ってもないことでしょう?」
ベッテの瞳が震え、ネルフェットは彼女の主張に同意するようにゆっくりと頷いた。
「私も意固地になってた。でも、それでも、彼女の手からは逃れられなかった」
繋いだ彼女の手に力が入り、ネルフェットは彼女のことを気遣うように握り返す。
「この手……この手はね、違う。骨が弱いとか、そんな話じゃない」
感情が振れることのない彼女の瞳が潤み、反対に強がるように笑った口元から、ネルフェットも知らない彼女が頑なに秘密にしてきた事実が告げられた。
「私の指は、リリオラに人質に取られているの」
彼女の左目尻から、そっと雫が頬を伝う。真っ直ぐに、揺らぐこともなくネルフェットのことを見つめたまま、彼女は唇で創り出した笑みで嗤いかける。
「私の指は、もう私のものではなくなった。リリオラの所有物なの。グローブがないと手の骨が抜けてしまったように言うことを聞かなくなる。この忌まわしいグローブを付けていれば、演奏だって、物書きだって、なんだってで出来る。だけど、リリオラの機嫌を損ねたらそれこそおしまい。演奏も何もできなくなる。作曲だって、きっと難しくなる。大好きな音を奏でられなくなるなんて、私……耐えられない」
ぽろぽろと、彼女の瞳からは涙が静かに落ちていく。ネルフェットは彼女の強張った手を握りしめたまま、表情だけは決して崩そうとしないベッテに真摯な眼差しを向けた。
「でも、ベッテがそんな枷を追う必要がどうしてあるんだ? 手下にしたいなら、そんなまどろっこしいことする必要ないだろ。……リリオラには」
「ううん。違う。必要があったの、彼女には」
ベッテは首を横に振る。
「あの石が創り出す魔法は、人を操ることはできない。だから、それ以外で自分の思い通りになる方法を考えないといけない。リリオラの望みを叶えるには、想定外のことが起きた時のために協力者が必要だった」
「だからって、指を取る必要あるか? だって、ベッテは宮廷に音楽をするために来たんだから」
「…………アルヴァーさん」
「え?」
「アルヴァーさんのことが、あったから……」
突如として出てきたかつての恩師であるミハウの父の名にネルフェットは眉をひそめる。
「……アルヴァーさんは、違法レコードの罪で追放されたでしょう? あの時、リリオラは身近な人間に裏切られたことに、いいえ、きっと、支配しきれなかったことが相当気に食わなかったはず。それで、二度と間違いがないようにって、入念に術をかけたんでしょう」
リリオラが裏切られたというマニトーア国王の趣味を思い返し、ネルフェットは彼女のマニトーア音楽に対する異常なまでの憎しみを推測した。当時リリオラが取り乱していたことは確かだ。その後、アルヴァーの行方が分からなくなった頃に、彼女が笑いを隠しきれていなかったことを覚えている。
「リリオラはアルヴァーさんに何かしたのか?」
「……呪いをかけた。いいえ、魔法、ね。じわじわと侵食する魔法で、気づいたときにはもう手遅れ。衰弱して、死に至る魔法だった。彼の肺を、彼女は追放時に人質に取っていたみたい。彼は歌うのも上手だったから」
「…………嘘だろ」
ネルフェットの手から力が抜けた。ベッテは血の気が引いていく彼の表情を見つめたまま、真実を肯定するように頷く。
「アルヴァーさんは、リリオラにすべてを壊された」
「それ…………ミハウは……?」
「知らない。教えられるわけがない。私には無理」
ベッテは涙が渇いた頬を傾け、居心地が悪そうに目を逸らした。
「私が見せられた記憶はそれだった。だから、私、怖くなって、告発するって思わず言ってしまった。そうしたら、彼女は嬉しそうに私のことを脅し始めた。嘘つき呼ばわりされるのはひよっこのあなたに決まっているって。確かにその通り。けど、黙っていたら大好きな仕事をいくらでもやらせてあげるって、そう言って中途半端に私を褒めるの。それで、私が何も言えなくなると指を奪った」
ベッテは事態を飲み込み切れていないネルフェットの頭頂部をじっと見つめる。
「おかしな話。彼女は人が一番奪われたくないものをよく知っている。あんなに冷酷なのに、人の心をよく分かっているの」
感心しているのか、蔑んでいるのか分からない声でベッテはくすっと笑った。すると、しばらくの間を置いて、ネルフェットが俯いたままぼそっと声を落とす。
「…………なら、俺の脳みそでも奪えばいいのにな」
「……え?」
表情が見えないネルフェットが何を思ったのかが分からず、ベッテは首を傾げる。
「リリオラの望みは、俺を使ってマニトーアを貶めることだろ。それなら、遠回りなんてしないで俺に直接魔法をかければいい」
「何かを奪ったり、人質に取る魔法はリリオラ自身の負担も大きいみたい。だから、ネルフェットの何かを取るのはいくら強靭な力があろうとも避けたかったんでしょう。操れるわけではないのだから。私みたいな代わりのいる駒でもないネルフェットに魔法をかけて、脅して、あなたとの関係が拗れたら元も子もないじゃない」
ベッテの冷静な分析に、ネルフェットはそっと顔を上げて彼女の落ち着いた眼差しと目を合わせる。
彼の暗がりが訪れた表情は、苦しさと悔しさで溢れていて、その行き場を失くした嘆きの瞳からは自らを許すことを認めない覚悟が見てとれた。
「確かにそうかもしれない。けど、そうしたら、ベッテもミハウも、皆、苦しむ必要なんてなかった。どうしてだよ。なんで……なんで、俺じゃないんだよ……!」
ネルフェットはもう一度ベッテの手を力強く握りしめる。その手から伝わる彼の葛藤は、木のグローブを軋ませ、ベッテは耐え切れなくなった彼の憤懣に驚いて表情から力が抜けた。
「ベッテ! ベッテはそれでいいと思ってるのか? リリオラに大事な指を取られたまま、いつまでも彼女に怯えて、間違ってると思うことも言えなくて。ベッテの夢は、そんなものじゃなかったはずだろ?」
声を上げるとともに、ネルフェットの瞳に徐々に精悍さが取り戻されていく。ベッテは何も言えずに眼下に見える彼の英姿を夢物語を見ているようなぼうっとした思考のまま見つめる。
「い、嫌。嫌に決まってるでしょ。私、私だって、まだまだやりたいことがある。で、でも……無理。無理に決まってる。彼女に指を取られているんだから。もしかしたら、彼女の言うことを聞き続けていれば、いつか指は返してもらえるかも……。私、は、ピアストエも、他の楽器も、演奏できなくなってしまうなんて嫌。音楽が嫌いになってしまう。すべてを捧げた音楽を……。そんなの嫌。嫌、怖い……!」
ぱっと彼の手から両手を離し、ベッテは恐怖で青ざめた表情でネルフェットから身体を反らして遠ざかろうとする。ベッテは最悪の結末を予期して震えている自分を包み込むように抱きしめた。
「私から音楽を取り上げないで……! お願い……! ごめんなさいネルフェット。あなたに協力したいけど、でも、やっぱり、無理……!」
ネルフェットから顔を背け、ベッテは冷たい汗をかきながら小さくなっていく。
「ベッテ。謝らないで」
ネルフェットはゆっくりと立ち上がり、一人、吹雪の中を彷徨うかの如く冷たくなっていく彼女の肩を撫でた。
「ベッテが音楽に関することに真面目なのは、もうずっと知ってる。ミハウの歌と同じように、君にとっては演奏することや曲作りそのものがそうだ。君にとっては、それが生きる意味になっているから」
ネルフェットは落ち着いた声で彼女の気持ちを汲んでその生き様を称賛する。
「だからこそ俺は、なおさらリリオラが許せない」
「……え?」
ベッテは恐る恐るネルフェットを見上げた。これまでの付き合いでも聞いたことのない声色が彼の口から放たれたからだ。
「ベッテも、ミハウも、トニアも……リリオラに大事なものを奪われている。人のことを踏みにじるなんて、そんな、彼女の思い通りになんてさせない。俺は、そんな風に誰かの大事なものを奪ったり、壊したくはないんだ」
瞳に映るネルフェットは、声とは裏腹にとても穏やかな表情をしていた。ベッテは意外な彼の眼差しを見て、力んでいた全身から少しずつ力が抜けていくのを感じた。
「ベッテ。例え、君が指を失おうとも、俺はベッテの才能は失われることはないと思ってる」
「………どう……して……?」
「ベッテは知らないと思うけど、ベッテのことを宮廷楽長に推薦したのは俺だ。楽器を演奏する中で、参考にしたくて色んなプロの人を見てきた。その中で、ベッテのいる楽団の演奏会に行ったとき、俺はその音色にすっかり嫉妬した。あまりにも素晴らしくて。おまけに、作曲したのもベッテだって知って、もう、愕然としたね」
ネルフェットは当時の衝撃を思い出したのか、はにかむようにしておどけた顔をする。
「俺が見出した才能だ。当然、ちょっとやそっとじゃなくなるもんじゃないって。他人事だから言ってるんじゃない。……そう思われても当たり前かもだけど。でも、もし、指が言うことを聞かなくなっても、音楽との向き合い方はいくらでも残されてる。探すのも楽じゃないとは思う。勿論、それはそうだ。辛いはずだし、立ち直れないこともあるだろう。でもベッテ、覚えていて欲しいんだ。その時は、俺も傍にいるってこと。どんなことだって協力するし、なんだって頼って欲しい。俺も全力で応える。ベッテだけを苦しめることなんてさせない。いや、苦しみなんて寄せ付けない。ベッテが心安らぐ道を、どこまでだって模索する。絶対に、君の居場所を守る」
ネルフェットは天に誓いを立てるように凛々しい眼差しでベッテと真っ直ぐに目を合わせる。ベッテは彼の宣言に、目をぱちぱちとさせてぽかんと口を開けた。見つめ合った彼は表情を切なく揺らがせると、許しを請うように頭を下げる。
「頼む、ベッテ。力を貸してくれ。君の才能が必要なんだ」
ぐっと唇を噛み締め、ベッテは深く下がった彼の頭をじっと見つめた。それから何分が経っただろう。彼を見つめていた彼女の瞳は、迷宮を抜け出す光を見たような錯覚を直感的に信じることにしたようだ。
「…………分かった」
ベッテの答えに、ネルフェットは半信半疑で頭を上げる。
「何をすればいいの? ……後悔、させないでよね」
「ベッテ……!」
ネルフェットはがばっとベッテの両手を握りしめ、瞳を輝かせて嬉しそうに笑う。
「……ふふ……まったく……」
彼の安堵したような表情からはベッテを敬う過剰な恩が見てとれた。
「まだこれからでしょ」
張りつめていた緊張がすっかり解けてしまった空気に、ベッテは呆れたように表情を崩して笑った。その時ベッテは、久しぶりに心の思うままに笑顔になったことに気づき、ふと口をつぐんだ。
ネルフェットだけではなく、自分自身も棘だらけの縄から抜け出したような安堵を覚えているようだった。
ベッテはそれを自覚し、もう一度くすっと笑う。
ネルフェットはベッテのそんな様子を少し不思議に思いながらも、何度も彼女にお礼を言い、それから椅子に座ったままのベッテから少し離れて傍に置いてある楽譜に意識を向けた。
「あの子に感謝しなくちゃ……」
何かを探すように楽譜を次々に見るネルフェットの横顔に向かって、ベッテは誰にも聞こえないように呟いた。
ネルフェットが真実を知って何かを起こそうと決意したのは、間違いなく彼女の存在があるからだ。
ベッテはそれを確信し、心に芽生えた朗らかな安らぎを想い、目元を緩ませた。
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