47 情熱

 ネルフェットは可哀想な王子だった。

 まだ言葉が話せない頃から彼を見てきたリリオラは、一人おもちゃで遊んでいる彼の後姿を見て淡白な表情を向ける。そこには同情もないし、憐みもなかった。

 議会に向けても当たり前のように指図をするリリオラ。姿を変えて別人になっているとはいえ、彼女が長年培ってきた知識、経験に敵う者などいない。王族を除き、有能すぎる彼女に逆らえる者などほとんど存在しなかった。


 時代が変わり、人々が不可思議な現象を現実のものと認識しなくなったこともあり、魔法石の存在は隠してきた。それでも、彼女の独壇場は面白いくらいに続く。

 彼女が意図した通り、彼の両親である国王と王妃は国の利益となる政策の取り組みに付きっきりになり、ネルフェットが起きている間に触れあう時間はほとんど取れなくなる。すると彼が頼れるのは、お世話係と教育係のみ。リリオラは彼がミルクを飲むのを止めた頃にお世話係の仕事も奪い取り、ネルフェットを独占するようになった。


 両親との愛着もまともに築けなかったネルフェットにとって、リリオラは誰よりも頼れる存在へとなっていく。

 リリオラはそれを狙っていたのだ。

 まだ自分の傷も癒えていないというのに、今にもこの国はマニトーアと平和的な和解が成立しそうだ。

 マニトーアの文化的な発展によってソグラツィオの国民たち、とくに若者たちへの統制が利かなくなっている。

 リリオラにとっては恐るべき事態だった。とにかく彼女は自分を裏切ったマニトーアが気に食わない。

 国民たちの気を外に向かせないようにどうにかソグラツィオの芸術文化隆盛を企むが、芸術面においてはまだまだ発展途上なところもある。不十分ではないものの、このままではマニトーアの魅力に圧し負けてしまうだろう。忌まわしい王が聞いていたあの音色に。


 だからこそ、リリオラにとってネルフェットは最大のチャンスだった。

 芸術面では引けを取ろうとも、その他の国力ではソグラツィオの方が一歩上をいっている。加えて、着実に積み上げた王室の信頼や世界的な影響力も多大に成長している。

 リリオラはマニトーアが世界でちやほやされることを嫌い、いっそのこと世界から排除してしまおうと考えた。存在感が薄れてしまえば、リリオラが頭を痛めることもなくなる。それを期待したのだ。


 そのためには、まずは国内の規制を強める必要がある。

 とはいえ、強引に規制をしてしまえば必ず反発が起きる。そしてそれがいずれ反逆となるのは歴史が教えてくれることだった。

 そこでリリオラは、期待の王子であるネルフェットを利用することに決めた。

 彼を代表にプロパガンダを進め、マニトーアのネガティブな印象をじわじわと築いていこうとしたのだ。

 リリオラの教え通りに彼が成長した暁には、人気者である彼のもたらす影響は計り知れないだろう。

 彼のことを幼いころから独占的に支配できるリリオラにとって、彼への刷り込みは容易いものだった。歳を重ねるにつれ、彼も人並みの意思を持ち、反抗的な態度に出ることもある。けれど真摯な性格自体は変わらなかった。


 唯一恐れていたのが、彼の意思に大いなる影響を与えるであろう将来の伴侶だった。ただ、それもいずれ頃合いを見て、自分が適度なところで人形か砂で造った女性を宛がえばいいだろうと気楽に考えていた。

 それほどまでに、リリオラはネルフェットのことを支配できていると思い込んでいたのだ。

 彼を縛り付けすぎないように飴と鞭を携えて、時には彼の要求を受け入れ、ある程度の自由も与えてきたつもりだったからだ。彼女が魔法石と長らく過ごしすぎて、自己評価が高いことは否定できない。


「リリオラ様! 本当にいいのですか? ネルフェット様に護衛を付けなくて」


 ある雨の日のこと。絵にかいたような不安を浮かべた表情で、従者の一人がリリオラに問う。


「ええ、勿論よ。彼も思春期なのよ。一人の人間として尊重してあげなくては駄目よ」


 リップを塗り直しているリリオラは、余裕の滲む声で答え、優雅に微笑む。


「しかし……ネルフェット様に何かあったら……」

「まったく。心配性だこと。大丈夫だと言っているでしょう?」

「……でも」

「“愛”の力を見くびらないで?」

「…………?」


 きょとんと首を捻る従者を横目に、リリオラは部屋へと戻っていった。

 ぱたんと扉を閉めた後で、引き出しにしまっている石を手に取る。


「ねぇ? 大丈夫よね……フフフ」


 誰かに問いかけるように魔法石を恭しく撫でまわし、リリオラは石に優しくキスをする。すると魔法石は緑色に輝き、細い光を放ってからまた色のない姿へと戻っていった。


「……ああ、そうねぇ……。確かに、それも問題かもしれないわ」


 独り言を呟くリリオラは石を抱えたまま閉め切った扉を見やる。


「でも、大丈夫よ。心配ないわ。あの子は、馬鹿みたいにしっかりと約束を守っているもの。あの性格だと、破ることもないでしょう」


 フフフ、と再びほくそ笑むと、リリオラはもう一度石をペットのように撫でた。

 この部屋にかけたまじないを思い返し、一瞬の迷いはあった。けれどリリオラは当初の予定通りにネルフェットに術をかけることに決めた。

 彼に悪意を与える者には、すべて苦痛を持って報復せよ、と。

 この術によって、彼はこの部屋にかけた他者が勝手に踏み入ることを許さないまじないも効かなくなる。そのまじないには、相手への悪意が溢れているからだ。

 魔法石は同じ建物内に居れば自由に操れるため、持ち歩く危険を冒す必要もない。だから部屋に置いていることも多く、部屋には自分が不在の時には何人たりとも入れないようにしている。そのためのまじないだ。

 かといって彼に飴を与えるこの機会は逃したくない。

 一方で、自身の念願のために赤ん坊の頃から手塩にかけてきたネルフェットが誰かに痛めつけられることは避けたかったリリオラの決断だった。

 魔法石をしまい部屋を出たところで、リリオラは誰かとぶつかった。


「申し訳ございません。リリオラ様」


 ぺこりと頭を下げた少年。リリオラは彼のことを冷たい眼差しで見下ろすと、小さく息を吐いてすたすたとその場を去る。

 ぽつんと残った少年は、閉じ切られた扉を見上げてごくりと息をのみ込んだ。

 彼が先ほど目にした緑色の光。あれは、一体何だろう。ミハウはその日、厳しいだけのリリオラの印象がガラリと変化したのだった。



 すべてがリリオラの思い通りに進んでいた。

 そんなある時、思いもよらない存在がネルフェットの前に現れる。

 宮殿の見学だと言ってのこのことリリオラの前に姿を見せた女。リリオラはベッテに彼女の素性の調査を求めた。リリオラに逆らうつもりのないベッテは、彼女の言う通りに動き、リリオラが最も嫌う答えを持ってやって来た。


 トニア・マビリオは、マニトーアの人間。加えてネルフェットが惹かれているかもしれない存在。

 それを聞いたとき、リリオラはかつてマニトーア国王にされた仕打ちを思い出して凍り付いた。いや、怒りに震えて身体が凍てついたのだと錯覚しただけだった。

 トニアの気持ちは知らないが、すぐにでも対策をしなくては。リリオラは躍起になってミハウを呼び出した。咄嗟の判断の割にはこの上ない名案だと、彼女は舞い上がる心を抑えるのに必死だった。


 ミハウの父親の失態。それをどう調理するかも自分次第なのだ。リリオラは以前、彼の父の仲間の口封じに成功したことから、ミハウが自分に対して懐疑心を持っていることは察していた。

 しかしそれ以上に、彼は父の名を汚されることを嫌うだろう。表向きは彼の父は世に汚点を残してはいないのだから。判断力に自信のあるリリオラの思った通り、ミハウは提案を飲んでくれた。


 ネルフェットが見ていたという言い伝え。

 赤い紋様の伝説を、今ここに蘇らせればいい。

 長い時を生きてきたリリオラは、赤い紋様が少なくとも二百年前にはもう存在しないことは承知の上。けれど彼女にはその言い伝えを再現することができる。

 魔法石の力さえあれば、赤い紋様のでっち上げなど訳ない話だ。

 ミハウとトニアを紋様で縛り付けてしまえばいい。そうすれば、馬鹿正直なネルフェットを彼女から引き離すことも可能になる。

 親友の運命の相手なのだから、どちらも大切な存在であれば応援せざるを得ない状況を創り出せばいい。


 だからと言って、トニアには幸せになってもらうつもりもなかった。

 彼女は憎きマニトーアの娘。ミハウには彼女のことを邪険に扱ってもらって、地獄を見させればいい。そう彼に言い聞かせた。彼女の人生を縛り付けて、二度と放さない。そのつもりだった。

 にもかかわらず、ミハウがトニアのことを邪険にしきれていない様を目の当たりにし、リリオラは面白くない展開に罰を与えた。瓶の中身の入れ替えなんて、あまりにも簡単すぎる。


 永遠に拗らせてきたマニトーアへの恨み。

 待ち望んだ時が近づいているというのに、邪魔をするなんて許せない。

 リリオラはネルフェットがもたらした予想外の危機に余裕を失いかけていた。

 彼女が望むのはただ一つ。

 抗争を起こす側に手厳しい現代のこと。自分を虐げたマニトーア国。願わくば、”平和的に”彼らを世界から断絶し、未来の歴史から葬り去りたい。

 そのために、宝物を磨き続け、彼が輝きを放つ時を今か今かと待っている。



 「…………ハッ」


 雷に打たれたような衝撃で目を覚ましたネルフェットは、絨毯に倒れ込んでいた身体を勢いよく起こした。

 全身はだらだらと汗をかき、額に前髪がべったりと張り付いている。眠っていたのに呼吸は乱れ、心臓はこれまで経験したことがないくらいに強く、痛みを伴って鼓動を打ちつけていく。

 右手に冷たい感覚を覚え、青くなった顔で持ち上げた右手を見やる。手の平に収まった色のない石が、感情もなくこちらを見つめているように見えた。


「な、なんだ……今のは……。石の……記憶……?」


 震える右手から石がぽとりと絨毯に落ちる。

 がたがたと奥歯が音を立て、血の気が引いて体温が下がったネルフェットは自分を包み込むようにして小さくなった。


「リリオラ……? これは……え……?」


 まだ理解が追いつかない頭の中で、先ほど見ていた夢を思い出す。

 気を失った瞬間に勝手に頭に流れ込んできた情景たち。それらの中心には、必ずリリオラがいた。時折登場する見知った顔。ネルフェットは不意に頭を抱える。

 裏切り、恨み、戦争、復讐、プロパガンダ…………。

 あらゆる感情が胸に巻き上がり、ネルフェットはくしゃくしゃと頭を掻く。そしてふと、最後に見た記憶がぽっと脳裏に浮かんでくる。


「紋様は……偽物……?」


 感覚を失った指先で唇を抑え、ぽつりと呟いた。

 トニアがミハウと上手くいかずに悩んでいた姿と、アレルギーで命を脅かすこととなったミハウのぐったりとした姿が蘇り、ネルフェットは次第に身体に熱を取り戻す。

 彼らが苦しむ必要など本来はなかった。そのきっかけを与えたのは確かにネルフェット自身。しかし、もっと違う道もあったはずだ。

 リリオラに彼女の存在を教えた人物がいつも鳴らしている音が耳の中で静かに反響し、ネルフェットはごくりと緊張感を飲み込む。


 コッコッ……。


 秒針が時を刻む音に呼び覚まされるようにしてネルフェットは立ち上がる。

 絨毯に転がる石を拾い、元あった場所に戻すと、彼は急ぎ足で部屋を立ち去った。

 歩く度に思考が煩わしく喚きだす。リリオラにとって自分がどういう存在だったのか。彼女と過ごした遠い日々に残した感傷が胸を引っ掻き回す前に、ネルフェットは唯一分からなかった彼女の動機を求めて突き進んでいく。


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