46 緑色の

 「……リリー、…………リリー!」


 月のような落ち着いた声に呼ばれ、ブリュネットの髪の少女がハッと振り返る。大人になることを望みつつもあどけなさを残した可憐な少女の齢は、まだ十五、六頃といったところだった。


「すみません! 今すぐに戻りますので……!」


 少女は薄汚れて皺だらけの服を手で整えながら、深々と頭を下げてから慌てて声のする方向へと駆けて行く。


「いや、いいよ。そんなに急いでまた怪我でもしたら危ない。……ん? 何か拾ったのか?」


 急ぎながらも右手はぎゅっと何かを包み込んだままの少女に、声の主は優しく尋ねた。


「なんでもありません! ご主人様にはつまらないことですので。きっと退屈させてしまいます」

「ははは、そんなことはないと思うがね。まぁ詮索はよそう。皆、心配していたので早く戻ろう」

「はい!」


 少女は威勢よく返事をしてから、声の主である質の良い衣服に身を包んだ中年男性の後に続いて、川の向こうに見える大きな城へ向かって歩き出した。


「遅くなり申し訳ございません。ただいま戻りました」


 汚れた格好のまま、少女は様々な食材の匂いがする地下調理場にて頭が床につきそうなほど深く礼をした。涙が出そうなほどにか弱い声に、彼女を囲う年上の女性たちは腰に手を当てて呆れた表情で少女を侮蔑するように見下ろす。


「遅いんだよ! 新入りのくせに、どこをほっつき歩いていたんだい? 迷子になるような子は、この城じゃ働けないよ」

「申し訳ございません。丘で転んでしまい、すこし手当てをしていました」


 女性たちは少女の膝下に滲む血の跡を汚らわしい目で睨みつけ、ふん、と鼻を鳴らした。


「言い訳なんてしてるんじゃないよ。どうせ、怪我したとでも言えば許してもらえると思ったんだろう? 自分を傷つけることなんてお前みたいなやつには容易いだろうよ」


 この調理場の仕切り屋でもある女性が心底少女を見下したような目を下ろし、少女の怪我をしている方の足を蹴り飛ばした。少女は体勢を崩し、そのまま床に手をついて倒れ込む。傷みに顔を歪ませ僅かな悲鳴が漏れた。


「いいから。お前は早く生ごみの処理をするんだよ。どうせそんな恰好をしているんだ。どんなに汚れても同じことだろう」


 ガハハハ、と豪快に笑いながら、女性たちは少女の周りから離れて持ち場へと戻る。その際に、一人の女性が少女の床についた手をわざと踏みつけた。


「……いっ!」


 声を上げた瞬間、弓のような鋭い視線が飛んでくる。少女は咄嗟の感情すら許されない。そのまま骨が粉々になるような痛みを抑えながら立ち上がり、言われた通りごみ処理へと向かう。

 背後からひそひそと何かを話す声が聞こえてくるが、少女はそんな雑音など耳に入れずに調理場を出た。喧騒が遠ざかると、少女はポケットに隠した重みをそっと手に取り、艶やかなその表面を惚れ惚れとした様子で見つめる。

 手の平に収まるほどの楕円形をした平べったい色のない珍しい石に、少女は次第に恍惚の笑みを浮かべていった。



 石を拾ってから一年が経った頃、少女の立場は大きな変化を迎えていた。

 彼女が仕えていたのは一国の王家。当然、一番の下っ端で、城で働いていようとも王族と顔を合わせる機会など一切あり得なかった。

 そもそも街の外れで生まれ、病弱な両親の面倒を見るために物心ついた時から働き始めていた彼女が城で働くことになったのも、ただの偶然の巡り合わせだった。

 休暇がてらに街の視察に来ていた心優しい執事の一人に存在を憐れまれ、目をかけてもらったことがきっかけだった。責任感が異常に強い彼が、少女が少しでも良い給金を得られるようにと図ってくれたのが城に仕えることだったのだ。


 彼女は会うこともできない国王たちではなく、従者の一人である彼をご主人様と呼び、新入りに対するいびりに耐えながらもどうにか働き続けてきた。

 幸運だったのか、不運だったのか、そんな贅沢なことを考える暇もなく。そして彼との出会いに感謝をして良いのかも分からないまま、ひたすらに身を粉にしてきた。


 しかし今の彼女は、この出会いは必然だったと疑いもなく思っている。

 今日もまた、昨日と同じように汚れ一つない衣服に腕を通し、彼女は艶のある髪を一つに結んでから香水を首元に吹きかける。

 必要な家具はすべて揃った部屋から彼女が一歩廊下へ出ると、待ち構えていた従者二人が揃って頭を下げた。


「リリー様、おはようございます」

「ええ。おはよう。今日は一体、何をすればいいのかしら?」

「はっ! まずは国王様がお呼びです。そちらへ」

「まぁ。朝から熱心だこと。分かったわ。行きましょう」


 はきはきと喋る従者を従えて、リリーはゆったりと廊下を歩き始める。途中、すれ違う従者たちは、彼女を見るなりそっと頭を下げていく。彼女は満足そうにその反応に笑みを浮かべると、国王の待つ広間へと時間をかけて向かった。

 彼女の髪飾りに付いた、つやつやと麗しく輝く色のない石が窓から降り注ぐ太陽光を誇らしげに反射させた。

 広間では、年老いた国王が次期国王である第一王子とともに待っていた。リリーは彼らに礼をした後で、膝をついたまま彼らの用件を聞く。


「リリー、また頼みがある。この度、敵国軍にいるスパイから情報が入った。どうもソグラツィオへと攻め入るらしい。どうにか彼らを助けることはできないだろうか」


 国王がしゃがれた声で救いを求めるようにリリーに問いかける。その隣には、リリーがご主人様と見定めた執事が穏やかな顔つきに憂いを浮かべて控えていた。


「ええ、陛下。勿論。このリリーにできないことはございません」


 執事と目配せをした後で、リリーはもう一度頭を下げる。


「ソグラツィオ軍に、応援を送りましょう。ええ、大丈夫ですよ陛下。何の心配もいりませんから」


 リリーの余裕の表情に、第一王子は疑い深い眼差しを送りつつも精悍な声で彼女を激励した。

 その後リリーは国王たちに宣言した通り、ソグラツィオ軍に普通ではない応援を送り続けた。その間、リリーの部屋には誰一人として入ることはできず、彼女はそのまま二週間部屋にこもり続けた。

 閉め切った扉の向こうからは、時折緑色の光が溢れてきたと従者たちは口をそろえて証言した。


 一か月後にソグラツィオの国王からマニトーア国王へ感謝の意が送られてきた。

 どうやら敵国がソグラツィオ軍に攻撃をしようとすると、どこからともなく雷鳴が響き、敵国軍はすべて自然の脅威によって滅ぼされたという。


 リリーは両手の平で包み込んだ石をうっとりと見下ろし、朗らかに微笑む。

 この石こそが、彼女の地位を押し上げた立役者。あの日、丘で転んだ先で見つけた色のない石には、彼女が求めていたことがすべて詰まっていた。リリー自身も昔話として聞いていたただの伝説だった。しかしその伝説は、今彼女の手にある。


 色のない石は、かつて世界に存在した魔法使いたちが遺した呪いの証明と言われる物だった。魔法石と呼ばれ、大いなる力が現実に存在することを人々は望みつつも、その脅威に怯えていた。

 リリーは魔法石を手にしたことで、世界のすべてを手中に収めたものだと思い込むようになる。

 魔法石の力にすべてを委ね、国王たちの望みも欲しいままにした。

 魔法石を持つリリーに対し皆は一目置くようになり、城内でも彼女は特別な存在へと飛躍する。


 この国、マニトーアにとって、その時の彼女はまるで聖女のように扱われていたのだった。


 関係が変わり始めたのは魔法石を手にしてから八年ほど経った頃だった。

 かつての第一王子は国王へと肩書を変え、リリーにとってのご主人様は平穏な余生を過ごした後で優しい微笑みのまま息を引き取った。最期は、彼が大好きだったマニトーアの音楽に見送られ、無数の花束が彼を包み込んだ。

 この頃のリリーは国にとっての重大な先導者にまで成り上がり、国王の参謀役として日々密かに活躍をしていた。だが、ともに国を率いる国王は彼女が昔とは違うことに気づく。


 国王は王子時代から音楽が大好きで、事あるごとに演奏会を開いては国中に活気をもたらした。リリーもその時だけは昔のように楽しそうに過ごしていた。けれどその裏で、彼女が苦しみに悶えている姿を国王は度々目にしていたのだ。

 リリーは国王の言葉に耳を貸すことはなく、当時もっとも世界を恐怖に陥れた大戦争に向けて魔法石の力を使い続けた。しかし戦況が好転してきたころ、国王は突如戦争を平和的に終わらせようとリリーに提案をする。魔法石の力によって罪のない人々を苦しめることはリリーも辛いだろう、と道徳的なことを言い聞かせ続け、どうにか彼女の気を引こうと執拗につきまとった。

 リリーはそんな辛さはないと言い張り、もうすぐで勝てる戦争を止めることはしなかった。戦争に勝とうと言ったのは国王自身。彼女はそれを全うしていたまでだ。戦況が激しくなり、尻込みし始めた国王の言うことなど聞くことはなかった。


 いつまでも強情なリリーに対しついに国王は強引な手を使い始める。

 国王の権力以上の脅威を見せる忌まわしい魔法石をリリーの手から離し壊してしまおうと、彼女を罠に掛けようとした。リリーは当初、その罠に掛かり、あと少しのところで魔法石を手放してしまいそうになった。

 ただ、幼いころから身につけてきた判断力により彼女はどうにか罠から逃れる。しかし信頼していた国王の裏切りにひどくショックを受ける。


 マニトーアにいては危ないと判断し、当時の同盟国であったソグラツィオへ彼女は亡命した。そこで、マニトーアの国王が自分の力を疎ましがっていたと風の噂を聞いたリリオラは、これまで国王に尽くしてきたことの無力さがすべて怒りに代わり、復讐に支配された。

 お得意の処世術と魔法石の力でソグラツィオの軍へと入り込んだリリーは早速行動を起こす。マニトーア国王の根も葉もない噂をかつての立場を悪用して流し込み、ソグラツィオが自分と同じく裏切られるのだと吹き込んだ。


 結果として二国の同盟関係には亀裂が入り、マニトーアという国は王族という存在を失った。

 マニトーアは国の尊厳の全てを王族を失うことで踏みにじられたが、ソグラツィオは、それはマニトーア国王の裏切りのせいだと主張する。

 マニトーアはそれを認めず、その報復としてソグラツィオは多大な被害を受けることとなった。


 完全に拗れてしまった二国の関係。

 しかしリリーはその結果に一人笑みを浮かべていた。どんなにマニトーアが苦しもうと、当然の報いだと胸が晴れていたからだった。

 その後リリーはソグラツィオでひっそりと生活を続け一時は王族からも遠ざかっていた。

 それが今から二百年も経たないくらい前の出来事。


 魔法石によって永遠の命を得た彼女。しばらくの間は大人しくしていたリリーだったが、ふつふつと胸の底から湧き上がる欲求を抑えきることはできなかった。

 胸が焦げ付いて煤だらけになってしまいそうなほどの熱い感情に突如襲われ、息が出来なくなった彼女は再び表舞台へと姿を現す。

 戦争が終わって随分と時が経った当時、ソグラツィオはようやく周りの国々と肩を並べるくらいまで復興していた。それは喜ばしいことだった。だが彼女がどうしても気に食わなかったことが一つだけある。

 ソグラツィオの復興と同じように、マニトーアもまた世界での地位を高めていたのだ。分野こそ違えど、マニトーアは旅行先としても人気で、好感度の高い国へとすっかり姿を変えていた。


 リリーにとっては面白くない話だった。

 おまけに、ソグラツィオ王室もかつてのようなピリピリとした獰猛な威厳もなく、彼女にしてみれば腑抜けて見える存在になっていた。こんなことでは、またマニトーアに裏切られるやもしれない。

 もしそうでなくとも、またマニトーアと仲良しこよしをすることになる。歴史は忘れられていくものだ。マニトーアは世界に向けていい子ちゃんの顔ばかりを見せ続けるに違いない。


 最悪の結果を想定したリリーは居てもたっても居られずすぐさま王室へと入り込んでいった。

 魔法石の力によって年齢も姿も自在にコントロールできる彼女は、まず侍女として王室に取り入った後で次第にその地位を上げていく。

 流石に歳を取らないのはおかしいだろうと、適度なところで姿も名前も変えて代々仕事を引き継いでいった。そうして順調に出世を重ねていった彼女はついに王子の教育係にまで上り詰める。

 教育係よりも、国王の相談役を兼ねている方が偉大なようにも思える。けれど彼女はそうは思っていなかった。

 彼女は生まれたばかりの王子に対し、ようやく手にした魔法に涙を浮かべながら微笑みかける。


「はじめまして。リリオラよ。今日から、よろしくね」


 赤ん坊が伸ばしたふくふくとした小さな指先を優しく握りしめると、彼がほのかに笑ったように見えた。

 リリオラはその日から、ネルフェットを偉大な王にしようと、ようやく報われた心を燃やしはじめた。

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