26 甘くない距離

 ぐったりとした友人の様子に、ピエレットは一度声をかけるのを躊躇った。

 昼食時のカフェテリアは、いつにも増して人が多い。賑やかな声が四方八方から飛び交い、引きずられるようにして心が弾んでしまいそうな空間にもかかわらず、彼女は病み上がりの如く覇気もなくワッフルを頬張っている。


「トニア、甘いものばっかり食べちゃっていいの?」


 最近の彼女の食事はもっぱら糖分の摂取に勤しんでいることをピエレットは気づいていた。見かける度に甘い誘惑を手に携えているものだから、つい自分の気も緩んでしまいそうになる。


「いいの。頭を使うには糖分が必要」


 そう言う彼女の前には閉じられた参考書が放置されたままだ。ピエレットが自らといい勝負だと認めるくらいに勉強していた彼女は、以前と比べて学業に身が入っていないのは明らかだった。


「そんなこと言っちゃって。本当は最近のどたばたにエネルギーが足りないだけなんでしょう?」

「……うっ」


 ワッフルが喉につまりかけ、トニアの目に焦りが浮かぶ。図星だ。ピエレットは頬杖をついてやれやれと笑う。


「どう? ミハウさん。わたしは仕事でもかかわりがないし、あんまりよく知らないんだけど」

「……どう、もこうもない」

「そうなの? でもミハウさんって結構宮廷で働く人たちには評判いいんだよ。落ち着いてて、包容力がありそうって言うか」

「…………ふーん」


 半分になったワッフルを一口かじり、トニアは疑るような声を鼻から出す。


「ふふ。なにその態度。トニアはミハウさんの正式なパートナーだから、余裕って感じですか?」


 ゴシップを楽しむ記者のようにピエレットはニヤニヤと歯を見せる。


「うーん。《つかみどころがなくて殺風景な人って感じ。……失礼だし》」

「ん? 何? マニトーア語? なんて言ったの?」


 ピエレットはトニアのミハウ評に興味津々なようで、母国語で回答をぼかしたトニアに対して身を乗り出す。

 ミハウとは宮殿で会った日以降、度々顔を合わせている。大体は街の中で。トニアが講義を終えて帰る時間が、ちょうどミハウの買い物の時間と重なるようだ。以前見かけた朝市でもたまに会うことがある。

 街にいると彼は少し目立つ。背が高いこともあるのだろうが、舞台に立つ人間のためか、やはりどこか特異な雰囲気を放っているからだ。見つけるつもりなどなくても目に入ってしまう。


 まだ少し気が重く感じることもあるが、無視をすることはできなかった。街で会う彼も、先日の態度と大きく変わったことはない。

 いつもつまらなそうな顔をして、演奏会に向けた練習だとか、日々を消化している話をする。

 トニアの日常を聞いてくれることもある。話の後半になると彼はトニアの話に興味を失ってしまうようで、手に取った食材の艶なんかを眺めていたりするが。

 それでも話の腰を折ったり、強制的に終わらせることはしてこない。むしろ彼女が話を強引に終わらせようとすると、どうして、ちゃんと話して、なんて言ってくる。興味があるのかないのか分かったものではない。


 だからこそトニアは困っていた。

 彼は冷たい。とにかく味気ない。けれど、時折見せる彼の些細な関心に、トニアは興味を引かれてしまう。

 彼が自分に好意がないのは明らかだ。だからといって、彼の全てを否定してしまうのは如何なものか。

 彼女は自分の往生際の悪さにほとほと参ってしまいそうだった。


「余裕なんてあるわけないでしょ。……それよりも、研究の方はどうなの?」

「うーん。二人の皮膚やら血液やらも採取させてもらったし、同僚に医学的観点からも調べてもらったんだけど、特に異常はないって。アレルギーとか、炎症を起こしているわけでもなし」

「そっか……」

「あ。でもまだわたしの調査は終わってないから。まぁ、難航してることは認めておくけど」


 はぁ、とため息を吐き、ピエレットは肩をすくめた。


「当たり前だよね。……こういうこと、これまではなかったのかな?」


 トニアはもぐもぐとワッフルを食べ進めながらピエレットに尋ねる。


「聞いたことはないなぁ。数少ないわたしの同志からもそんな報告はない。あっ! このこと皆に話してもいい? 協力者が多い方が何か分かるかもしれないし! それに、皆このこと聞いたら絶対モチベーション上がると思うんだ!」


 瞳を輝かせて請うものだから、トニアは頷くことしかできなかった。ピエレットは素直に両手を上げて喜んだ。


「ありがとうトニア! 絶対、真相を解明するね」

「うん……」

「ん? 何か引っかかることでもあった?」

「ううん。そんなこともないんだけど……」


 口ではそう答えるものの、トニアはずっと引っ掛かっていた。

 初めて会った時とは大きく印象の変わってしまったミハウのこと。

 確かに最初の印象では、ピエレットの言っていた評判も理解できる。ただ、結局は彼も一人の人間。理想を押し付けてしまうのはこちらの勝手。彼の本来の性分は、対外的にあつらえたそれとは全く異なる性質なのかもしれない。

 トニアは最後のひとかけらを口に放り込み、束の間のワッフルの甘い香りで口内を満たした。

 だとしたら、ネルフェットのように、彼もまた何か葛藤を抱えているのかも。

 そう思うことで、トニアは彼の失礼な態度を少し許せる気がしてきた。素直に生きられないのは、きっとしんどい。そんな、彼女には発想すらなかった選択肢を彼らは選んでいる。


「ミハウさんと、うまくやっていけそう?」


 ピエレットの素朴な問いはトニアの耳に届かない。

 その回答を今、世界で最も知りたがっているのは彼女自身だ。

 うまくやっていける自信などない。それでも彼のことが気になってしまうのは、これこそが運命と言われる所以なのだろうかと、トニアはまた頭を抱える。



 「ミハウ」


 練習のために音楽堂へと向かっていたミハウは名前を呼ばれて立ち止まる。振り返らなくても誰だか分かる。ひたひたという静かな足音と同時に、からからと小気味のいい木材が軋む音が混ざり合う。


「何か用か? ベッテ。作曲はどうした」

「休憩。朝から作り続けていて、少し外の空気を吸いたくなったから散歩しようって思って」


 外へと続く廊下の先を見やり、ミハウはベッテの方を向く。


「それと?」

「うん。リリオラ様から許可をもらえたから伝えようと思って」


 ベッテは手に持っていた淡い紫色の四角い封筒をミハウに差し出す。


「なにこれ」

「招待状。今度の祝祭の」

「……出演者だけど」


 ミハウはベッテから招待状を受け取り、そのざらついた肌触りの表面をじっと見る。


「何を言っているの。あの子のものに決まっているじゃない」


 ベッテはまるでミハウが素っ頓狂なことを言っているように驚いて目をぱちぱちとさせた。


「……トニア?」


 ミハウの眉が不快そうに動きベッテのことを軽く睨みつける。


「そう。リリオラ様が招待していいって。あなたの未来のパートナーだから」

「…………随分と気が利くんだな」


 封が閉じられたクリーム色のシーリングワックスの塊を鬱陶しそうに見るミハウの声は低く、相反して口角は微かに上がっていった。


「リリオラ様の気遣いね。あなたは宮廷の人間。トニアはそのパートナー。トニアを邪険にすることはできない。いくらリリオラ様でもね。民を大事にしているネルフェットたちの意に反するから」

「ネルフェットの許可は?」

「必要ない。祝祭の主催は王よ。王が断ると思う?」


 ベッテはくすっと笑い、首を横に振る。


「ミハウ、観念なさい。彼女のこと、ちゃんと大事にしてあげてよ」

「……ベッテにそんなことを言われるとは」

「あら。私だってトニアの気持ちが少しくらいは分かる。一応、女で生きているから」

「…………それだけじゃ理由にならないけど」

「うだうだと言わないで。彼女に見捨てられても知らないんだから」

「…………招待状は渡しておく。決めるのは彼女だ」

「そうね」


 ベッテはこくりと頷くと、ミハウを追い越して外へと向かう。ミハウはその場に棒のように立ち尽くしたまま招待状をじっと眺める。


「今日も買い物か……」


 ぽつりと独り言をこぼし、錘が乗ったように深い息とともに肩を落とした。

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