25 くせのあるひと
廊下から見下ろす陽がさした庭。草の色が黄色に染まり、さらさらと葉の鳴く音が耳に聞こえる。閉ざされた窓の内側から、目が離せないまま眩しさにくらくらとしてしまいそうだった。
「ネルフェット」
とりとめもない風の音とは違った確かな声が肩から飛んできた。世界から乖離していた彼の意識は、ようやく器に戻ってくる。
「……べ、ベッテか……」
衝撃が走った身体をびくりと震わせ、ネルフェットはいつの間にか隣に立っているベッテに目を向ける。驚いてしまったことを訂正したかったが、彼女にそれが通用するとも思えない。
ネルフェットは小さくため息を吐いて気の抜けた自分を戒める。
「あら。二人の様子はどうだったの?」
窓の外を見下ろしたベッテは、微かに眉を上げて薄い唇の端を緩めた。
「どうもこうも……。ピエレットいわく、興味深いとしか……」
「あの子はそう答えるでしょう。彼女の望んでいた伝承を目の当たりにしたんだから」
冷静に息を吐くベッテに、ネルフェットは困ったように眉を下げる。
「あなたの見解を聞いているんだけど」
「……俺は」
そのまま窓の外に再び意識を向けると、門までトニアを送るミハウの姿が空虚な感情をつつく。ネルフェットは居心地の悪い環境に苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「分かるかよ。そんなこと」
「そう? 彼女の反応はどうだったの? 見ていない?」
「……珍しいな。そんなに質問ばかり」
「私だって人間だから。不可思議なことに興味くらいはある」
「…………ふぅん」
窓縁に力なく手をつき、ネルフェットは二人をじっと観察しているベッテを横目で見た。
「トニアは……まだ、驚いているとは、思う」
「……ええ」
「でも…………きっと、すぐに慣れる」
空気が抜けてしまったボールのように張りのない声に、ベッテの視線はネルフェットへ興味を向ける。
「ミハウはいい奴だし。それに……」
ネルフェットはそこでぐっと息を飲み込む。彼の喉仏が隠した言葉をベッテが追うことはなかった。
寂しさの光る彼の瞳から目を逸らし、ベッテは腕を組んで鼻から息を吐く。
「あ……ほら、見て」
口を結んでしまったネルフェットに、ベッテはグローブで覆われた人差し指で二人を示す。
ネルフェットの視線が追いつくと、ちょうどトニアがミハウに向かって何かを言い、緊張しているのか、恥ずかしそうに笑っている様子が見える。彼の静寂を保っていた心に、細い針が落ちてきた。
「二人、結構いい感じなのかもね」
ふふ、と朗らかな二人の姿に笑みをこぼすベッテ。ネルフェットは彼女に同意の相槌を打ちながらも、その手はぎりぎりと痛みに堪えるように窓枠に救いを求めていた。
(トニア、運命の赤い紋様に夢を見たって言ってたもんな)
彼女のはにかむ顔を、この数日で幾度となく繰り返した。
それでも見飽くことのない柔らかな頬の色づきに、ネルフェットの唇は力なく絆されていく。
「よかったな……トニア……」
彼女の信じた言い伝え。自分の感情などよりも、彼女が喜ぶことであれば受け入れるべきなのだろう。
ミハウの手が彼女に向かって伸びていくと同時に、ネルフェットは二人から目を離す。
相手がよく知った人間であったことが幸か不幸か判断する余裕はまだない。
ネルフェットは窓枠から手を離し、ベッテを残したままそっとその場を後にする。
ベッテが静かに見送る彼の背中は、そのまま廊下の角を曲がって見えなくなった。
*
(ど、どうしてこんなことに……)
まだバクバクと心臓がうるさい。トニアは綺麗にめかしこんだ庭の道を歩きながら隣を歩くミハウをちらりと横目で見やる。
絵に描いたように涼やかな顔をしたままのミハウは、感情のない瞳で先に見える門だけをただ目指しているように見えた。
「トニアは建築を学んでるんだよな」
「えっ? あ、はい」
視線に気づかれた気まずさからか、ミハウの瞳がバチッと合った拍子に、トニアの声は悪戯が見つかった子どものように裏返る。
「もう資格は持ってるの?」
「あ、えっと……まだ、です。マニトーアの学校で、アシスタントレベルのものは取りましたけど……。正式なのは、まだ……」
「そう。大変だね」
「いいいいいえ。そうは思いません。好きでやってることなので」
異様に恐縮してしまう自らの態度に、トニアは少し自分が嫌になる。ミハウの圧に負けないと誓ったものの、やはりまだ初日。なかなか調子は安定しない。
「み、ミハウさんだって、宮廷の声楽家とか、大変なのでは?」
それでも一歩ずつ進まなければ。
トニアは恐れる勇気を今日は取り払おうと、自分自身を焚きつけた。
「全然。俺は昔馴染みなこともあるし、試験とか、そういうのもなかったから」
「あ……そうなんですか?」
「……期待外れ?」
「い、いえっ! そうではなく……! そもそも、ルールとか、そんなこと知りませんから……っ!」
「無知を盾にするの、侘しいね」
「……な……っ」
ふっと笑ったミハウの表情が、今のトニアには意地悪に見えた。ミハウの言う通り、自分は咄嗟に逃げの言葉を使ったかもしれない。だとしてもそんな言い方はないだろう。最低限の気遣いが見えない彼の正直すぎる態度に、トニアはやるせなさが通り過ぎていったような気がした。
「まぁ、君は知らなくても当然、か」
「なんですかそれ。留学生、だからですか?」
「他に理由、ある?」
「ありません……!」
思わずむきになって語気を強めた。ミハウは相変わらず淡々としたままだ。
「ミハウさん。どうして、私に付き合ってくれるって言ったんですか?」
応接室にいる間からこれまで、ミハウは自分に対して一本調子で素っ気ない。言い伝えのことを信じていないのであれば、嫌だと言えばいいものを。トニアはミハウが何を考えているのか読めずに眉をしかめる。
別に、無理に紋様の関係に付き合う必要などないはずだ。トニアは彼の選択肢を奪うつもりなどはなかった。しかし実のところ、応接室で自分は夢見るような顔をしていたのだろうか。
自分の顔を常に把握することはできないし、ましてやコントロールは苦手だった。トニアは自分のせいでミハウが言い伝えに反することを伝えづらい雰囲気を作ってしまっていたのではないかと僅かながらの懸念があった。
そうであれば、この態度も頷ける。ならば早くなかったことにするべきだろう。紋様は見なかったことにして、隠してしまえばいい。時間が経てば、憧れへの夢や運命への裏切りの罪悪感も鎮まってくれる……はずだ。
トニアは一瞬空を見て考えたような素振りを見せたミハウの回答を、一攫千金がかかった真剣師のごとく高まる緊張の面持ちで待つ。
「……そうだなぁ。まぁ、俺も一人の人間だし」
「……はい?」
下りてきたミハウの視線に、トニアはぽかんと首を傾げた。
「それなりに、欲望はあるんだよ」
そう言って彼の真っ直ぐだった唇は緩やかに笑みをつくる。
「えっ……?」
「君が運命の人だろうと、俺にはどうでもいい。でも、滅多にない経験だし、いずれ身を救うかもしれない」
ミハウの主張が理解できず、トニアは呆気にとられたまま彼の顔を見上げていた。
「運命の二人は、互いに幸せになれるんだろ? その幸せがどういうものか分からない。けど、損はなさそうだとは思える。これから先、リスクが減るのは俺にとっても都合がいい。例え君を好きになれなくても構わない。君がいれば、”幸福“が俺を待ってるんだからな。どんな高望みだって、多少の無茶をする気になれる」
「…………そ、そんな、こと?」
ミハウの瞳の奥から燃え滾る反骨のごとき信念が見えたような気がして、トニアは袖の下の肌が粟立つのを感じた。
「私は、ただの魔除け……なの?」
先ほどまでミハウを追い詰めていたのではないかと疑っていた心はすっかり消沈した。
むしろ、彼にとって自分は都合がいいということなのだろうか。彼の野望が指し示すものは彼女には分からない。しかし今、自分が見ているこの人には、ただならぬ覚悟が窺える。
微かな惧れを覚え、トニアの表情が切なく揺らぐ。
「トニア、大丈夫。別に君を利用するわけじゃない」
不安感が丸見えだったのだろう。ミハウは表情を和らげた。
「君の欲にも、ちゃんと応えるよ」
「……な、なんですか、それ……」
表情を変えた彼にこのまま絆されてしまわないように、トニアは牽制の微笑みを向ける。緊張して表情が固くなっていたことは否めない。ミハウはぱちぱちと瞬きをした後で、呆れたようにため息を吐く。
「なんですかって……」
ミハウはそっと手を伸ばしてトニアの風になびく髪を優しく指に通す。滑らかに彼の指の間を通る髪の振動が頭皮にまで届き、彼女は警戒するように顎を引く。
「言わないと分からない?」
「はい」
まだ煮え切らないトニアの声に、ミハウはきょとんとしてから彼女の耳元で何を囁いた。彼がすべてを言い終わらないうちに、トニアは慌ててミハウから離れ、真っ赤な耳のまま彼のことを恨めしそうに見る。
「ミハウさん! そういうのはセクハラって言うんですよ……!」
「セクハラも何も……僕らは、赤い紋様で結ばれた二人、だろ」
「そうだけど、そうじゃない! わ、私はそんなの別に、望んでませんっ!」
「なるほど。そっか。それは良かった」
「はぁ!?」
胸を落ち着かせたようなミハウの安堵の声に、トニアは反射的に真意を探ってしまった。
「俺も別に、好きな人じゃないのに親密になりたくないし」
「んんんんん」
これまでならばミハウのこの回答には全力で頷いて拍手を送りたかった。けれど今は状況があまりにも特殊だ。
トニアは複雑な想いが絡まりすぎてしまった問答を頭の中で繰り返し、それは呻き声として表れた。
ミハウはしばしの間トニアを観察した後、手に余ると判断したのか、すたすたと門に向かって歩みを再開する。
「嫌なら嫌って言ってください! 私も夢から覚めますから!」
その後ろをトニアは急ぎ足で追いかける。
「別に嫌じゃないし。むしろいい経験。トニアもこの状況を楽しめば」
「そんな軽く言わないでくださいっ」
「じゃあ、夢からもまだ覚めないな」
からかうように笑うミハウに、トニアは反論する言葉もなく表情だけで彼に対する慨嘆を訴えかけた。
ネルフェットとの歪な関係があってから、これくらい張り合いのある方がいいと思った。
確かに、そう思ってしまったことは認める。
けれどトニアは、ネルフェット以上に考えていることが読めないミハウに早くも白旗をあげそうだ。
いっそどことなく悔しさはあるものの、こちらが折れればいいのだろう。
前途多難な運命の行方に、トニアはそんなことを考える暇もなく翻弄されていた。
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