24 ご対面
紋様が現れてから二日後、トニアはネルフェットとピエレットに呼ばれて宮殿へと向かう。
こんなに何度も訪れることになるとは考えてもみなかった。トニアは身分証明を済ませ、三度目の王宮へと足を踏み入れる。
「トニアー!」
門から少し歩いたところでピエレットが出迎えてくれた。やはり勝手に歩くことは許されていないのだろう。大きく手を振るピエレットにトニアは急ぎ足で近づく。
「ありがとうピエレット、無理を言ってごめんね」
「全然! というか今日は、ネルフェットが呼んだんだし」
「え? ネルフェット、が?」
以前と同じく、ピエレット経由でネルフェットを説得したのだと思っていたトニアはきょとんとする。
ネルフェットとは紋様が出た初日にしか会えていないが、宮殿に来ることはあまり望んでいないように見えたからだ。トニアは意外な招待主にわずかながらも気が晴れる。
「そうそう。だから、ネルフェットが待ってるよ。応接室に行こう」
「……え?」
ピエレットに手を引かれ、トニアは訳が分からないまま宮殿内へと入る。
廊下を進み、書庫よりも手前にある一般家庭のリビングほどの大きさの部屋へと案内されると、トニアは指定されたソファに腰を掛けた。
「ちょっと待っててね」
ピエレットはそそくさと部屋を出てネルフェットを呼びに行く。
一人残されたトニアは、そわそわと落ち着かない心のまま、応接室とは思えない豪勢な家具に目を向ける。今、自分が座っているソファだって、こんなしっかりとした生地は初めてだ。
トニアは自身の一大事だと言うのに、見慣れない環境でそんなことに興奮をしてしまった。
「トニア、呼び出して悪いな」
部屋のあちこちを見ていたトニアの前に、ネルフェットがいつの間にか現れる。トニアは気配が消えていた彼に驚き、「わっ」と思わず幽霊を見たような声を出してしまった。
ネルフェットがその反応に少ししょんぼりしているように見えたのも束の間、彼の後ろに朝市で見た覚えのある頭部が見えてくる。
「ミハウさん……!?」
今一番気気がかりな人物の登場に驚くなというのも無理な話で、トニアのお尻は軽く飛び上がり、一人だけわたわたとしているさまにトニアは恥ずかしさでいっぱいになる。
「トニア、前に会ったこと、あるよな?」
ネルフェットは背後に控えるミハウをちらりと振り返った。
「う、うん。声楽家のミハウさんだよね」
「そう。よかった覚えてて」
ネルフェットは安堵したように笑い、一度ミハウに部屋を出るように伝える。ミハウはトニアに対して会釈をして部屋の扉を閉めた。
「ネルフェット、どうして、ミハウさんが……?」
どきどきと衝撃が鳴りやまない中、トニアはネルフェットに助けを求めた。まさか彼は心が読めるのか。トニアは自分がミハウの紋様を見たことを見抜かれていたのかと不安になる。ありもしないことも、今ならなんでも信じてしまいそうだ。
「トニア、落ち着いて聞いて欲しんだけど……」
ネルフェットはソファに座るトニアの前に膝をつき、真剣な眼差しで彼女を見る。トニアは彼の痺れるほどに真摯な眼差しに緊張感が高まっていく。
「うん……なに……?」
「……えっと…………」
ネルフェットは言い難そうに口をまごつかせた後で、きりっと眉を上げた。
「ミハウが、トニアの運命の人だ」
「…………え?」
時間が止まったように感じた。この一瞬、世界には二人だけしかいない錯覚に陥る。目の前のネルフェットの精悍な顔つきに、トニアはぽっかりと心に穴が開いたような気がした。
「……どう、し、て……?」
ずばりと言い放たれ、トニアは混乱する余裕もなく真っ白な頭でネルフェットに尋ねる。
「ミハウの紋様、見たんだ。トニアとまったく同じだった」
ネルフェットはトニアの右手首を目を伏せて見ると、ふんわりとした笑みをトニアに向けた。
「正直、安心した。ミハウなら、いい奴だから大丈夫だって」
「……え……そ、それって……どういう……」
言葉が出て来ないトニア。ネルフェットがそんなことを言うなんて予想していなかった。トニアは彼が自分のことを心配してくれていたのかもだなんて、きっと自分の都合の良い解釈だと言い聞かせる。
「俺、ミハウとの付き合いは長いんだ。合唱団の頃からだから……もう十年以上になる。あいつのことは俺もよく知ってる。あいつの歌もいいが、人間としても信頼できる奴だよ」
「……そ、そう……なの?」
「ああ。かっこいいし、落ち着いてるし、いつも余裕がある感じだろ? 実は昔、俺もああなれないかなーって、密かに憧れてた。ミハウには内緒な」
ネルフェットは気恥ずかしそうに人差し指を立て、唇を横に広げてシーッとする。
「うん……言わない」
彼がミハウに気を許しているのが分かる。自然体な彼の姿に、トニアは緊張を緩めてほのかに笑う。
「まだどんな奴かトニアは分からないだろうけど、とにかく、悪い奴じゃない。それは言える」
「ふふっ。そっか、ははは、安心しちゃった」
いつになく優しい声のネルフェットに、トニアはすっかり肩の力が抜けていく。ネルフェットはようやくいつもの調子に戻ったトニアを見て、目元を弛ませた。
彼女がミハウを意識して緊張しているのがよく分かった。だからこそ彼は、少しでも彼女の気が紛れればと、出来る限りの精神力で動揺を隠し通した。
「ネルフェット、もう大丈夫?」
扉の向こうからピエレットの声が聞こえる。ネルフェットはトニアの目を見て、彼女が頷いたのを確認した。
「ああ、いいぞ」
立ち上がったネルフェットは、ピエレットが扉を開けるのを待つ。そろそろ限界だ。ピエレットが見えたら、もう部屋から出よう。ネルフェットはトニアの方を見ないようにしながら視線の先に集中する。
「じゃーん! ミハウ・カンテレナでーす!」
ピエレットが陽気に扉を開け、ひらひらと手をはためかせてミハウの存在を強調した。
彼女も研究対象が一人増えたことを知り、人知れず意欲を燃やしていたのだろう。ミハウは元気なピエレットとは対照的に、冷静な表情のまま部屋に入る。
「じゃあ俺は、仕事があるから」
入れ替わるように、ネルフェットは足早に部屋を出て行く。隣を横切る際に、ミハウは表情の見えないネルフェットの横顔を流し目で見る。
「あ、わたしも、ちょっと一回研究室行かないと……! あとで迎えに来るね、トニア」
「うん……」
盛り上げ役を終えたピエレットもネルフェットの後に続いて部屋を出て行き、トニアは少し遠くに立っているミハウとの間に流れる気まずい空気に嫌な汗をかく。
「あの……」
思い切って声をかけてみた。そもそも、ミハウは赤い紋様のことをどう思っているのだろう。トニアはそれすらも知らない。
「……トニア、だったか?」
「あ、はい…………」
これまで耳にしたものとは全く違う、威圧感のある低い声が彼の口を通して出てくる。トニアはその声に思わず身構えた。
「くだらない。赤い紋様など」
「……え?」
ミハウは自分の左手首をじっと見つめた後で、冷酷な眼差しのままトニアへと視線を変える。睨まれているわけではないが、トニアは彼の真実を刺すような視線に琴線を整えた。
「確かに、同じもののようだが……」
一直線にトニアの方へと近づき、彼女の右手首をそっと撫でる。こそばゆさと、彼の指先から香る底の知れない艶めかしさに恐れにも似た感情を抱き、トニアは咄嗟に手を引っ込めた。
「君は、赤い紋様を信じているのか?」
「……え、えっと……」
斜め上から見下ろしてくるミハウの瞳に、トニアは両手を抱きしめるように握り、じりじりと彼から距離を取ろうとする。前に見た朗らかな彼の雰囲気はどこにいってしまったのだろうか。トニアはごくりとつばを飲み込む。
「しん……しんじ、て……」
ネルフェットに秘密を打ち明けた時、生身の自分を晒すくらい身の縮む思いをしたのを覚えている。ほぼ初対面のミハウに、彼女は同じことをする勇気は持てなかった。
「信じるしか、ないと思っています。今……これを目にして」
トニアはミハウの紋様に目を落とし、感情のない声で答える。どうにか平静を装わなければ。
「……そうか」
ミハウは間を置いて頷くと、すっとトニアに傾けていた上半身を真っ直ぐに戻す。
「ならしょうがない。君に付き合うよ」
「……え?」
背を向けて静かにそう告げるミハウを、トニアはぽかんとした顔で見上げた。だらだらと、心の中では汗が流れ続けて水溜りができる。
「俺は、どうでもいいんだけど。君がそう言うなら、運命に従おう」
顔だけ振り返ったミハウは、間の抜けた顔をしているトニアに微笑みかけることもなく淡々と続けた。
「トニア」
「は、はい……」
くるりと身体の向きを変え、ようやく彼の何も描かない表情に変化が見えた。客観的に見れば麗しいはずの彼の余裕の微笑みに、トニアは他の人とは真逆の感想を抱く。
「これからよろしくな」
そう申し出る彼の声には色がなく、どこかおぼろげな場所を向いている。
彼の瞳は口元の穏やかさとは全く違い、脆く儚い憂いがトニアを睨みつけているように見えた。
ネルフェットの尊敬できる人。
トニアは友人である彼のことを信じ、恐れとは裏腹にミハウに立ち向かい、こくりと頷いた。彼女はこの時、幼心から染みついた意地が出ていたのだろう。同時に成長の過程で知った現実も、そこには織り込まれている。
留学してみて気づいたことだが、自分は思った以上に周りが見えなくなることがあるらしい。
きっと自分の相手は、これくらい張り合いがある方がいいのだろう。
なにも運命の人が必ずしも憧れの騎士や王子様であるはずがないのだから。
トニアは立ち上がり、ぐっとミハウに詰め寄る。
「こちらこそ、ミハウさん」
ミハウのような表情が出来ているはずがないと分かっていた。
それでもこうやって彼に圧倒されずに済んだのは、恐らくネルフェットに鍛えられたせいだ。
ソグラツィオで身につけた度胸に、トニアは密かに賛辞を贈る。
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