23 リプライズ
学院の視察も疎かに、ネルフェットは宮殿へと戻る。
ちょうど今の時間、ミハウはベッテと一緒に曲の練習をしているはず。ネルフェットは大広間に向かって大股で歩く。途中、すれ違った衛兵への挨拶も忘れてしまう。様子の異なる彼の姿に周りの者は首を傾げた。
「ミハウ!」
大広間の扉を勢い良く開け、乱入してきた王子にぎょっとする楽団員たちの驚いた顔に見向きもせず、ネルフェットは楽団の後ろで座って休憩しているミハウに詰め寄る。
「なんだネルフェット。学院はどうした」
譜面を読んでいたミハウは楽譜を下ろし、静かな顔でネルフェットを見上げた。
ネルフェットは楽譜を持っている左手の、しっかりとカフスが止められた袖口をちらりと見やる。
「……どうかしたのか?」
黙ったまま自分の手元を見ているネルフェットに向かってミハウは淡々と疑問を口にして眉をしかめた。
「いや……ちょっと見たくて」
「見る?」
「ああ。曲、どれになったんだ?」
ネルフェットは高まる緊張で自分の声すら聞こえなくなる。それでも不審な行動をしている自覚はあるのか、ミハウに対して違和感のなさそうな理由を選んだ。
「休憩しましょう。皆、二十分後に再開するから」
二人の異様な空気を察したベッテは楽団員たちにそう伝えた。ネルフェットがあんな様子で練習場にいたら、皆気になって演奏どころではなくなってしまう。
楽団員たちが戸惑いながらもそれぞれ休憩に入る中、ベッテは二人のそばにそっと近づく。
「まだ伝えてなかったか?」
ミハウはネルフェットに向かって楽譜を差し出す。今は詠唱会の前に行われる祝祭に向けて曲の完成度を上げているところだ。詠唱会に比べたら規模が小さく、詠唱会前のちょっとした公開稽古みたいな位置づけではあるが、ミハウたちにとって規模の大小は関係ない。
どんな機会だろうと、観衆に自分たちの曲を届けるためであれば全力で取り組む。
「あ、悪い……」
ミハウに渡された楽譜を受け取り、ネルフェットはまた袖口に注目する。ミハウはそれに気づいているのか、彼の視線の先を自分も追った。
「見たのか?」
「……え?」
楽譜を一向に見ようとしないネルフェットにミハウが尋ねる。当然、ネルフェットは楽譜のことだと思って急いで譜面に目を落とす。しかし。
「今朝、俺の手、見たよな?」
「……なっ……知って……!」
ミハウの一撃に、ネルフェットはあからさまに心を乱して思わず楽譜を落としそうになる。
「朝食の後、俺が持ってた袋を覗いたときに一瞬これ見てただろ?」
図星をつかれたネルフェットが茫然としている間に、ミハウはカフスを外して左手首を見せつけた。
「赤い紋様。ネルフェットも興味あるのか?」
「…………ミハウ、お前、そのこと知ってんの?」
もはや腕は下ろされ楽譜は一切の役目を果たさなくなる。ネルフェットは怪訝な面持ちでミハウに問いかけた。
「赤い紋様の逸話は有名だろ。当然知ってる。まさか自分の身に起きるとは思わなかったが」
ミハウは紋様を隠すこともなく涼しい顔をして答える。
「誰かの悪戯かもしれないし、ピエレットに聞いた方がいいかもしれないな。まさかこんな病気はないだろう」
ピエレット。ネルフェットは今朝、彼女に助けを求めていた人物を思い返し、ぐっと唇の裏を噛む。
「ミハウ、よく見せてくれ」
「? なんだ、珍しいな。流石に現実に起きたことは気になるか?」
ミハウは微かに口元を歪ませ、食い気味で手を伸ばしてきたネルフェットに手首を預ける。
「……随分と真剣だな」
じっくりと紋様を観察するネルフェットの眼光に、ミハウは驚きとともに彼に興味を向けた。
「…………ありがとうミハウ。押し入って悪かったな」
「いや。いい」
ミハウの手首を離したネルフェットは、先ほどとは違い落ち着いた様子で楽譜を返す。ただその表情はどこか危なげだった。
「ベッテ。邪魔して悪い」
「……いいえ。ちょうど休憩しようと思っていたところだし」
少し離れたところで二人を見ていたベッテが、組んでいた腕を解いて首を横に振る。
「ところでミハウ」
ネルフェットがどこか気の抜けた顔をしているので、ベッテは二人の方へと歩み寄った。
「その紋様、お相手はいるのかしらね」
ぎくり、とネルフェットの肩が上がる。ベッテは些細な彼の動きを見逃さなかった。
「分かるわけないだろ。そもそも逸話とは違うんだ。どうやって探せばいいのかも分からない」
「ええ。まぁ、確かにそうね。おとぎ話のようにはいかないわ」
ベッテはミハウのもっともな意見に肩をすくめた。
「ミハウは……知りたいのか?」
ぽつりと、ネルフェットの声が雫のように二人に落ちる。ミハウとベッテは真っ直ぐに真摯な眼差しを向ける彼を同時に振り返り、続けてベッテは興味深そうにミハウに視線を向けた。
「……ああ。知りたいと思うのはおかしいことか?」
「……いいや」
ミハウの闇を切り裂くような鋭くも温かい声に、ネルフェットは小さく首を横に振った。自分と目を合わせる彼の見慣れた瞳の奥に、忘れたはずの感傷が胸を突いてくる。
幼いころから見てきた彼の日々。
ネルフェットは一度多めに息を吸い込み、ゆっくりと静かに吐き出した。
「おかしくなんてない。それが君の望みだ」
今にも暴れ出しそうな弱虫な心を叱咤し、ネルフェットは穏やかな笑みをつくり出す。
「運命の相手に、会えるといいな」
「……ああ」
ミハウはネルフェットの言葉に同調の意を返し、踵を返したネルフェットの行く末を見守る。
ネルフェットが大広間を出て行くと、ベッテがミハウのことをちらりと見やった。
ミハウは彼女の視線に気づき、煩わしさから逃れるために、何事もなかったかのように譜面の世界へと再び視線を落とす。
部屋に戻ったネルフェットは、パタンと力なく閉じる扉の音とともにソファへと腰を掛ける。
全身の力が抜けて亡霊のように座り込んだ自分をしっかりと受け止めてくれたソファの柔らかさにも気が向かない。
ネルフェットは何もない壁を見つめたまま、ぼーっとする頭の中では何も考えていなかった。
すると、脳は勝手な興味を選択する。
先ほど見た赤い紋様が頭に浮かび、ネルフェットの呆気にとられたままの瞳の色は徐々にその色を強めていく。
これはミハウの紋様だ。
けれど、それだけではなかった。
彼の紋様であると同時に、学院で見たものとまったく同じ。
トニアの手首にも刻まれていたものだ。
「……正気かよ」
自分を慰めるように、情けない声がこぼれる。
落ちてきた額に手を当て、ネルフェットは体温も何もかもが真っ白になっていくのを感じた。
昨日のトニアの笑顔が脆くなった情に夕陽のように眩しく差し込む。
ネルフェットは大きく息を吐き、そのままわしわしと髪を搔き乱した。感情の行き場がない。
「運命の紋様とか、言い伝えじゃなかったのかよ……」
乱れた髪のまま手の平に頬を預け、ぶっきらぼうに呟いた。
空っぽの屋敷の前でトニアが恥ずかしそうに話していた姿を思い出し、ネルフェットの転がり続ける心はせき止められる。
「ほんと…………まったく……」
濁点だらけの唸り声を上げた後、ネルフェットはバンッと両膝を叩き自らを鼓舞した。
ミハウのことをトニアになんて伝えればいいのだろう。
悶々と考えていても答えが出ない。しょうがないので、ここは彼女にきっかけを請うしかない。
ネルフェットは意気地のない自分を嘆きながらピエレットが来るはずの研究室へと向かった。
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