27 市場に一歩

 講義が終わり、人出の多くなった市場の近くを通りがかったトニアはふと足を止め、有象無象の人々の流れに目を向けた。

 何のためにそちらを観察してしまうのか、トニアはよく分かっている。

 彼を探しているのだ。もうすっかり、いつもこのくらいの時間に買い物に来ているのを覚えてしまった。

 今日は天気があまり良くないためか、陽気な市場の明るさに雲がかかっているように見える。トニアは霧がかかった人ごみの向こうをじっと窺う。

 すると、一人の婦人がスパイスを買ったその後ろに、ふんわりとした柔らかな髪が見えた。


「やっぱりいた……」


 嬉しいのか、がっかりしたのかもはや分からなかった。それでもトニアの足は彼の方へと向かう。

 彼に好いて欲しいわけではない。無理にそんなことを強要するつもりなんて塵ほどにもなかった。

 トニア自身も彼のことを無理矢理に好きになることを望んでいるわけでもないことは分かっている。これはただ、人間としての興味なのだとトニアは納得していた。

 触れたら怯えて隠れてしまうかもしれない。ちょっとした体温で溶けて消えてしまうかもしれない。僅かな衝撃で、飛んでいなくなってしまうことだってある。そんなひどく繊細な関係を繋ぐものがトニアの心を放そうとはしない。


 右手首に刻まれた紋様が袖の下から見え隠れし、それは縫うように歩かなければならないほど多くの人が周りを囲もうと誰の目にも触れることはなかった。

 この紋様が二人を繋げた。それはきっと偶然でもなんでもない。

 たとえ思っていた運命の形じゃなくとも、そこに正解などはないし間違いもないはず。違和感があるとすれば、きっと勝手に正しい形を思い描いていただけだ。

 トニアは肩にかけた鞄を支える手にぐっと力を入れる。

 ミハウの左手首と自分の右手首。きっと二つが指し示していることは、語り継がれたおとぎ話の結末とはまるで違う。でもそれでもいい。彼女の瞳には覚悟が映し出された。

 伝承を信じていたなんて恥ずかしくて言うこともできなかった。けれど実際その身に起きた時、案外すんなりと受け入れられるのは悪いことではなかったと今なら思える。


 紋様の意味することを探ればいい。これはミハウにとっても悪い話ではないと彼女は思っていた。彼はこの状況を気味悪がっている。でも、彼も意味のないことだなんて素直に思えるはずがない。

 ずんずんとトニアの歩幅は大きくなっていった。

 二人だけの新しい運命の関係を見つければいいだけ。それまで、彼との関係をどうにか続けよう。


「ミハウさん」


 トニアから声をかけたのはこれが三度目だった。一度目は驚きのあまり大きな声が口から出て行ってしまったし、二度目はミハウが腐りかけのレモンを買おうとしていたからどうしても止めたかった。


「トニア。講義終わり?」

「はい」


 手に持っていたトマトを戻し、ミハウは変わらない温度のない声でトニアを迎える。


「買わないんですか?」

「トマト料理はレパートリーが少ないし」

「へぇ。じゃあ私が教えてあげます」

「は?」


 彼が戻したトマトを手に取り、両手に収まるようにあと二つを合わせて提示し、お金を店主に差し出す。ミハウは彼女の行動に不意をつかれたようにきょとんと表情から力が抜ける。


「これください」

「はーいよっ。お嬢ちゃん」


 店主がトニアからお金を受け取り、朗らかに笑顔を返してくれた。


「ありがとうございます。……あ、これお願いします。ミハウさん」


 買ったばかりのトマトを袋を持っているミハウに渡すと、ミハウは言われるままに受け取った。


「今日は難しいですけど、今度教えてあげますね。とっておきのトマト料理」

「……うん」


 いつになく押しの強いトニアを訝しげに見て、困惑したままミハウは彼女の申し出を受け入れる。

 袋に入れたトマトをちらりと見たミハウは、他の店の様子をきょろきょろと見ているトニアの横顔と交互に視線を動かす。


「でも……」

「……ん?」

「トマトそんなに得意じゃないけど」

「えっ……!」


 ミハウの告白に驚いたトニアは信じられないと言わんばかりの驚愕に包まれた表情を返し、反射的にあがってきた右手で口を抑える。


「う……そ。そうなんですか? あっ。それは……あの、なんというか……」


 ミハウには苦手な食べ物はないと思い込んでいた自分に罪悪感を覚え、トニアは目を白黒とさせていた。ミハウは悪気のない顔のまま、すとん、と息を落とす。


「まぁいいよ。君が謝ることじゃないし。トマト食べられない俺が悪いよね」

「そんなことは思ってないです! 別に、好き嫌いを悪いとか、思いませんから!」


 どちらかと言うと、苦手だという人に渡されてしまったトマトに同情する。

 トニアは後で絶対にトマトは引き取ろうと決意した。


(相変わらず感じ悪いなぁ……)


 隣の果物店に移動するミハウを横目で見上げ、トニアはもどかしさから肩で息を吐く。


「トニア」


 ミハウに手招きをされ、立ちすくんでいたトニアはとぼとぼと彼の隣に並ぶ。ミハウはトニアが来たことを確認すると、目の前にあるレモンを一つ手に取った。


「これ。こういうやつが鮮度がいいんだっけ?」

「……え。はい。そうです」


 二度目に声をかけた時に教えた知識を覚えていてくれたようだ。トニアは彼の意外な問いにすんなりと頷いてしまう。

 鮮やかな艶のあるレモンをトニアに見せつけたミハウは、トニアの返事を聞いてもう一度レモンに目を向ける。


「弾力もあるし、重みもある。これなら良さそうだ」

「いいと、思います」


 そのままレモンを購入するミハウ。トニアはまた彼の掌で転がされている気分になってブンブンと頭を横に振って自我を取り戻す。


「レモン、は食べられるんですね」

「ああ。どうして?」

「……いいえ」


 トニアはミハウから目を逸らし、頭に浮かんできた勝手な解釈を振り払った。

 リリオラはマニトーアが嫌いだ。ネルフェットもそれは認めていた。彼も彼女の影響を強く受けていたようだったが、王宮で過ごす時間の長いミハウもそうなのかもしれないと思ったのだ。

 レモンもトマトも、マニトーアを連想させる代表的な食べ物と言える。トニアは彼に対する偏見を疑った自分が嫌になりしょんぼりと肩を落とした。食べ物の好みなんて関係ないのに。そんなことを一瞬でも考えてしまったことが許せなかったのだ。

 重たい鞄が肩からずれ落ちそうになり、ミハウは鞄の行く末を静かに見守る。


「そうだトニア」


 鞄が地に落ちる心配はなさそうだと判断したミハウは上着のポケットに入れていた招待状を取り出す。


「これ、今度の祝祭で演奏会がある。俺も歌うことになってるんだけど……。気が向いたらおいで」


「……祝祭?」


 招待状を受け取ったトニアは、まさかのお誘いにぽかんとする。


「そう。詠唱会の前段みたいなものだけど。規模は小さめ。とはいえ、王室にとっても大事な催しで、国王たちも楽しみにしているものなんだ。招待客しか会場には入れないから、来るならそれ必ず持ってきてね」

「そうなんですか。わ、私が招かれちゃってもいいものなんですか? そういうのって、よく分からないけど、特別な人とか、お偉いさんとかしか呼ばれないんじゃ……」

「普通はね。でもまぁ、気にすることはないよ」

「でも…………」


 招待状を見つめ口の中をまごまごとさせるトニアに、ミハウはとんっと招待状に書かれた文字を指差す。


「トニア・マビリオ。君の名前が書いてある。招待客なのに、余計なことを気にする必要がある? 遠慮なんてしなくていい」


 ミハウの人差し指の先には確かに自分の名前が書かれている。トニアは珍しく気遣うようなことを言ってくれる彼の表情が気になり、恐る恐る顔を上げた。


「それに、ちゃんと聞いたことないだろ?」

「……なに、を?」

「僕の歌。いい機会だから、聞いてみてよ」


 彼は優しく笑っているわけでも、穏やかな眼差しを向けてくれているわけでもない。

 トニアに向けるのは、変わらず淡白な表情。しかし彼の言っていることには一理ある。トニア自身もミハウの歌声を聞いてみたいという気持ちはあった。


「分かりました……。そうしたら、お邪魔しようと思います」

「うん。もうトニアは関係者だから、裏側にも入れると思うよ」

「そうなんですか?」

「だから音楽堂の内部も余すことなく見れるだろうけど、あんまり夢中になりすぎて、白い目で見られないように。俺も恥をかく」

「! 失礼な……っ! ちゃんと分をわきまえますっ!」


 宮殿の見学をしていた時、そんなに前のめりになっていたのだろうか。

 トニアは魅力的な建物と対峙した時の自分の身のふりを客観的に見れていないわけではない。そう思っていた。


「どうだろうな」


 ミハウは呆れたように瞼を閉じ、トニアのことを信用しないまま次のお店へと踵を返す。


(そんなことないそんなことない……!)


 トニアは自信を失いつつも、視線を落とした先にある招待状に描かれた音楽堂のシルエットに本能的に胸を弾ませた。

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