18 憧れと現実と
要塞を抜け、トニアは目の前に聳え立つ古城を見上げる。
「……綺麗……!」
古城は、いつ建てられたのか定かではないが、少なくとも四百年余りは経っていることだろう。黒い外観をしているこの古城は、ソグラツィオには珍しく、すべてが木で出来た木造建築。ドームのような丸形の球体屋根が特徴的で、いくつものドームが城を綾なしている。
どこまで限界に挑めるのか。飽くなき挑戦に向かい、木材を加工し、匠の技が結集して造られた城。現代の技術をもってしても再現は難しいと言われていることをトニアは当然理解していた。
「ネルフェット、信じられない……! 知ってる? これ、釘が使われていないの!」
「そうみたいだな。俺もちょっと勉強した」
トニアがネルフェットの方を見ると、先ほどまで城を見上げていた彼の顔はこちらを向いていて、トニアの興奮を静かに受け止めてくれた。
「今は夜だし、余計に黒く見えるけれど、陽に当たると少し煌めくようになっているんだって。それも面白いよね」
「確かに。興味深いな」
「ふふふふ。すごい……本当に、異世界に来てしまったみたい……」
再びトニアは城を見上げる。
ネルフェットはトニアが満たされたような笑顔から表情を戻せないことに気づき、彼女に喜んでもらえたことを確信した。ようやく得た確信に、彼は強張っていた肩の力を抜く。
この島には自然のほかに、古城とそれを視界から塞ぐ要塞しかない。トニアが言っていたように、起源は謎とされていて、建造物保護の観点から観光も禁止されている。だからこそミステリアスさが増してしまうこの場所を題材にした物語も多い。
トニアに付き添って古城の外観をぐるぐると見学する間、ネルフェットは彼女が言っていた物語について思いを巡らせた。
運命の赤い紋様の逸話は、ここに住む姫が度重なる戦争で心を悩ませ、塞ぎ込んでしまったところから始まる。争いを終わらせたい彼女とは違う意見を持っていた両親は、常に戦争を有利にすることばかりを考えていた。ついには、とある王国の傲慢な有力者との政略結婚の申し出を受け入れ、心を失った彼女のことをまるでただの自分たちの人形のように扱う。
彼女の手首には幼いころから赤い紋様があり、両親はそれを気味悪がっていた。そのこともあり、彼女のことを愛することができなかったという。
直に正式な婚姻となる少し前、彼女を憐れんだこの島に宿る妖精は、それと同じ紋様がある人物が、あなたのことを導く、と彼女に囁いた。妖精と仲良しだった彼女は、妖精の言うことを信じ、国民や国を訪れる全ての人の手元を注意して見るようになった。
そしてある時、城を訪れた隣国の騎士と偶然街で出会った際に、彼の手首にも紋様があることに気がつく。
彼は彼女の勇気と優しさに惹かれ、ともに戦争を止めようと協力をするようになる。彼女もまた、彼の大胆でユーモアのあるところに惹かれるようになり、塞いでいた心を取り戻していった。
二人の勇敢な行動によって戦争は終わり、政略結婚も立ち消えた。ヒーローとなり結ばれた二人は世の中に平穏をもたらし、幸福に満ちた世界を作り出す。
この逸話が広がるとともに、舞台となった古城は彼女の苦しみの証だとも言われるようになった。
確かにハッピーエンドの物語。しかし少なくともこの物語の中では、この古城はあまり良い印象を残さない。それでもトニアは、建造物そのものが持つ価値や魅力に惹かれたのだろう。
逸話だけでは不気味に思ってもおかしくはないのに。
ネルフェットは彼女の建築に対する情熱を改めて認識し、心がむず痒くなる。
ソグラツィオの建築を褒めてもらうことは、まるで自分の大切なものを褒められているみたいに歯痒くも嬉しい。そういうことをトニアに出会ってからネルフェットは思い知らされた。
これまで他国との交流で同じような機会はあったはず。彼らの送ってくる言葉が、社交辞令、礼儀のように見えてしまっていたことはネルフェットもよく自覚している。そう思うのは、恐らく彼もそうだったからだ。
国の代表として恥をかいてはいけない、かかせてはいけない。肝に銘じてきたことが、かえって心を遠ざけてしまっていたのだ。
ネルフェットはこれまで当たり前にしていたコミュニケーションに疑問が浮かび、ふと答えを求めるようにトニアを見やる。気づけばネルフェットは、彼女の表情を見ることが癖になっていた。自分の知らない世界を見せてくれるからだ。
ちょうど城を一周し終えたトニアは走り書きのメモを見直し、きりっとした表情で何かを分析していた。
彼女はマニトーア出身。彼女はソグラツィオのことをよく褒めてくれる。それに対し、自分の態度はどうだっただろうか。
ざわざわと木々が騒ぎ出し、ネルフェットは耳障りなその音から逃れようと瞼を強く閉じる。
「トニア」
木々のざわめきが消え、彼の声だけが空気を揺らした。
「リリオラの話、不快だったよな……?」
「……え?」
トニアのペンを走らせる手が止まり、真っ直ぐな眼差しをネルフェットに向ける。
「マニトーアのこと、良く思ってないだなんて、気分が良い話じゃないよな」
「…………それは」
彼の長い睫は伏せられ、言い訳を拒むような口惜しい思いが表情に出ていた。トニアは彼の不安を取り除いてあげたくて、そっと彼の顔を覗き込む。
「そんなこと、ないよ。確かに、寂しい、けど……。でも、しょうがないことだよ」
トニアの穏やかな声に誘われ、ネルフェットの瞳には彼女の姿が映されていく。
「ネルフェットも当然、知ってるよね? 歴史のことは。マニトーアとソグラツィオが、あまり良くない関係だったって。仲が良かったのに、悲しい話だよね。だから、ね、色々な考えの人が出てくるのは避けられないかなって、私は思う」
「それは……器が大きいな」
憂いの瞳が緩み、トニアは彼のいつもの軽い声色が戻ってきたことにほっと胸を撫で下ろす。
「それに、リリオラさんがマニトーアのこと嫌いでも、それだけじゃない話も聞けたから」
「話……? なんか言ったっけ?」
「言ったよ。ネルフェットは反対にマニトーアの楽器に興味を持って、好きになってくれたって!」
「あ……そっか」
ネルフェットが本当に忘れていたようなので、トニアは思わずからかうように笑ってしまった。
「正直に言うとね、私、ネルフェットの演奏を聞いて、ちょっと、救われたの」
「…………?」
「こっちに来て、勉強づくしで休んでいる暇もなくて……というか、休むことが怖くてずっと走ってた。家族とも連絡する時間が取れないくらいに。誤魔化していたけど、きっと疲弊してた。そんな時に、ネルフェットの演奏を聞けて、懐かしい音に、泥だらけだった心が洗い流されたって言うか……なんか、楽になったような気がした。演奏を聞いているときは」
トニアは初めて見たネルフェットの姿を思い返す。
「だから、私はネルフェットの音が大好きなの。前に言ったときは信じてくれなかったけどね」
「……悪かったな」
「マニトーアのこと、どんな形でも、一部だけでも好きでいてくれる人がここにいるんだもの。そう思わない人を責めるつもりもないし、全然、私は平気だよ!」
古城を目にした時と同じくらいの笑顔が咲くと、ネルフェットは申し訳なさを残しつつも、つられるようにして表情を緩めていく。
「ありがとう、トニア。今は、信じてるよ」
「え?」
「俺の演奏を好きって言ってくれたこと」
「……あ、当たり前! ちゃんと信じてよー!」
「悪い悪い。疑り深くってさ」
「そんなの……もう。王子だからしょうがないって思っちゃうでしょ!」
「それを狙ってるんだけど」
「その手は禁止……! だって、と、友だち……でしょう?」
勢いに紛れて、トニアは心臓をバクバクとさせながらその言葉を口にした。
「ああ。友だち、だな」
だからこそあっさりと認めてくれたネルフェットのことが信じられなくて、トニアはアッと開いた口元をメモ帳で隠した。こんなにも容易いことだと誰が想像できたのか。
「家族にあんまり連絡できてないの? 今も?」
「え? あ、ううん。前よりはできてるかな」
さり気なく発した話題を拾われ、トニアは頭をくるりと切り替える。
「お兄さんがいるんだっけ?」
「そう! 覚えててくれたの?」
「ああ。逸話を教えてくれる兄って、なんか印象的で」
「ふふ。そっか。あとね、お姉ちゃんもいるんだよ。弁護士やってて、すごくかっこいいの。あ、そうだ、うちね、レモン農園をやってるんだよ」
「レモン? マニトーアでも有名な地域?」
「うん! そうだよ。ネルフェット知ってるの? 嬉しい」
「流石にそういうことは知ってるって。でも、なんかいいな。家族で農園って」
「王子様にそんなこと言ってもらえて光栄。皆に伝えなくっちゃ」
砕けた様子で笑うトニア。家族の話をしていると地元に帰ったような気分になれるようだ。ネルフェットは自分の前で緊張していない様子のトニアを久しぶりに見たような気がして羽が生えたように心が軽くなる。
「農園はお兄ちゃんが継いでるの。まだまだ半人前だーって、お父さんは厳しいんだけど」
「怖い人?」
「ううん。怖くはないよ。情熱的なだけ!」
「なるほど。じゃあトニアに似てるんだ」
「えぇ? それは……どうなんだろう。でも、私が建築のことに突っ走っても、家族はいつも応援してくれてて……だから、離れていても頑張れるっていうか……寂しい時も、皆の笑顔を思い出せばどうにか元気になれるんだ」
へらっとはにかむように笑うトニアに、ネルフェットは興味深そうに笑みを返す。
「家族と仲が良さそうなのは伝わる。トニアの家のレモン、食べてみたくなった」
「本当? 今度送ってもらうね! そしたら、特製のレモン料理食べて欲しい! よく収穫を手伝った後に食べてたやつで、もう絶品なんだよ」
「へぇ。それはいいな。トニアも農園よく手伝ってたんだ?」
「それはもうね、農園に生まれた私の宿命だよ」
「……そっか。楽しそう。マニトーアは楽器だけじゃないよな。もっと、色々と知りたいことがありそうだ」
「……ほんと?」
「ああ。トニアの話聞いてると、マニトーアのこともっと好きになれそう」
ソグラツィオの文化に興味を示してくれたトニアのように。
何かを守るために囲っていた心の防壁がようやく崩れたネルフェットは自分だけにそう告白をし、賑やかそうな家族のことを思い浮かべているトニアの幸福な顔をじっと観察する。
彼は一人っ子で、両親も多忙。自分も将来は両親たちのように忙しくなるのかと身構え、自信を失っていたころにミハウという友人が出来たことで、少年時代もそれなりに楽しく過ごしてはきたが、やはりもう少し両親と交流をしたかったのが本音だった。
代わりに、リリオラという厳しくも愛に満ちた美しい人にいろいろなことを教わった。彼女とは異なる自分の環境に、ネルフェットは思わず羨望の眼差しを向ける。
「……ネルフェット?」
トニアはその眼差しの正体に気づいていた。
電車の中で感じた彼への違和感。やはり彼の警戒は、意図的に他者を威圧するものではなさそうだ。トニアは彼の瞳に宿る恐れを見つめる。
「ん? なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけ」
「そう? でも、ネルフェット。もし、なんかすっきりしないなぁって時は、私に話してくれてもいいんだよ?」
ぼんやりとした彼の表情に向かって、トニアは今日一番の勇気を振り絞る。古城が見守っているからか、彼女は少し強くなれた気がしていた。
「友だちだから、遠慮しないで」
まだ慣れないその関係。それでもトニアは、彼と友だちになれたことを噛みしめるように敢えて声に出す。ようやく心の迷路から抜けられそうなのだ。彼への胸を締めるような想いは封印して、しっかりと友だちとして対等に向かい合う。それが出来るだけで、彼女の胸中はスタンディングオベーションに包まれる。
彼との距離感をようやく手に入れた喜びと、うずうずとした胸のさざ波に、トニアの鼓動はその音を変えていく。
「……分かった。頼もしいよ、トニア」
ネルフェットはわざとトニアの名前を大げさに強調してから、揶揄するように笑う。
「本当にそう思ってるのかな……?」
トニアは腑に落ちない表情で首を傾げた。もっと彼のことを知りたい気持ちは変わらない。友だちになった今こそ、これからもっと曝け出してくれるだろうか。
彼と親しいピエレットとミハウのことを頭に浮かべながら、トニアは新たな目標を掲げる。
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