19 波打つ方へ
「……あっ!」
パチン、と二人の幻がトニアの脳内から弾けて消える。ネルフェットが突然大きな声を出すので、トニアの肩は勢いよく跳ねた。
「時間……! もう行かないと!」
「あ、そっか!」
腕時計を確認するネルフェットからは、先ほどの余裕の笑みはすっかり消え、わたわたと辺りを見回す。
「トニア、もう大丈夫!?」
「うん! 大丈夫!」
彼の問いに、トニアは両手でグッドサインを出して気合いを入れた。
「よし! 急げ!」
彼女の満足そうな表情を合図に、二人は一斉に駆け出した。桟橋までは少し距離がある。急がなければ、ボートは二人を乗せずして出発してしまう。
要塞を背にして平坦な道を全速力で走っていく。トニアは走ることが苦手ではない。むしろ得意だった。もともと並みの運動はできるが、安定した走りにだけは自信があった。
もちろん、今も順調にその足の運びを発揮していた。だからこそ桟橋に向かうことだけに夢中になって、背後にいるネルフェットのことなど気にもしていなかった。
「ぎゃっ!」
そんな彼女の耳に蛙が潰れたような声が聞こえてくる。急いでいるのに何事かと振り返ると、何かにつまずいたネルフェットが見事に転んでいる姿が見えた。
「ネルフェット!?」
彼女の脳裏にはいつしか書庫で走った戦慄が浮かぶ。彼が梯子から落ちそうになったあの時だ。
慌てて引き返し、咄嗟に立ち上がったネルフェットのことを凝視する。怪我はしていなさそうだった。
「悪いなトニア」
「ううん。いいの」
再び走り出し、足元をちらりと見る。小石が落ちていて、暗いこともあって転びやすいかもしれない。また足を取られてしまう可能性もある。そうしたら、今度こそ怪我をするかも。
自らの想像にぞっとしたトニアは、後ろを走っている彼のことを気遣うように振り返る。
どたどたどた。
目に入った彼の走りのフォームに、トニアはそんな擬音が勝手に聞こえてくるような錯覚に陥った。
腕は足の動きと絶妙にずれたタイミングで振られ、軽やかながらも不自然に宙を蹴っている足先。
(あれ……? そんな走りのフォーム、あったかな?)
違和感が焼き付いて、トニアの速度は次第に落ちていく。人が走っているところをこれまで様々な場面で見てきた。学校、駅、競技場、テレビ……。
しかしネルフェットの独特の走り方は、それらのどこでも目にしたことはなかった。
トニアには別の感情が沸き上がってくる。見ていると不安になるのに彼から目が離せないのはそのせいか。
「……み、見んなよ」
いつの間にか隣に並んでいたネルフェットが恥ずかしそうに目を逸らし、ぶっきらぼうに言い放った。
トニアは並走を続けながらもネルフェットから目を離さない。
「あーそうだよ! 俺は運動神経が悪いの!」
彼女の視線に耐えかねたのか、彼はやけくそのように大声で真実を告げた。
「かっこ悪いから、秘密にしてたんだよ……。あぁ、また秘密か……まったく」
精神を落ち着かせようとぶつぶつと呪文のように呟くネルフェット。トニアを横目で見やると、彼女の表情は落ち着いてはいたものの、何も読み取れない。彼の胸中では叫び声が懸命に響く。
(くそ……っ。恥ずかしいな。何を考えてるんだ? トニア、おい、おーい!)
桟橋まであと少し。腕時計をもう一度確認したネルフェットは、その足を緩め、ボートの持ち主に走っているところを見られないように徐々に歩みを変える。
トニアもそれに倣ってゆっくりと歩き出した。
「…………なんだよ」
じーっと見つめられ、ネルフェットは気まずそうにトニアを見ながらも感情を読み取ろうと試みた。しかしすぐにその試みは失敗となる。トニアが静かに湧き上がる声で風鈴のように笑い声を漏らしたからだ。
(やっぱり、かっこ悪いよな……)
彼女が何を言うのかを覚悟し、ネルフェットは瞼をぎゅっと閉じてあきらめの境地に入る。
「ふふふっ。ネルフェットにも、弱点ってあったんだね。同じだ!」
「……は?」
疑うように彼女の表情を窺い、ネルフェットは眉間に皺を寄せる。
「運動神経悪くても、別にかっこ悪くないよ。ネルフェットの個性なんだからさ。ふふっ、でも、びっくりした……ああいう走り方初めて見たから、すごく器用だね」
笑いながら、トニアはネルフェットに称賛の眼差しを向けた。彼女にとっては珍しかったのだろう。いずれにせよ、ネルフェットの予想していなかった反応に、思いがけず彼は戸惑ってしまう。
「あ、そ、そう……?」
「うん。かっこ悪いとか、そんな自分のこと責めちゃだめだよネルフェット」
「あ、ああ……」
「時間、間に合ったかな? 良かった……!」
桟橋で待つ男性が二人に向かって手を振ってきたので、トニアも元気よく手を振り返した。ネルフェットは彼女のその後ろ姿を瞳に映す。
「ネルフェット、本当にありがとう。すごく貴重な経験だった」
「ああ……そう思ってもらえてよかった……」
ボートに乗り込む際、ネルフェットは再び彼女をエスコートした。
手が触れた瞬間、彼の瞳の奥では眩いばかりの火花が飛び散る。
「…………本当に、よかった」
誰にも聞こえない声で囁くように言葉を繰り返す。彼女が離れた指先がとくとくと静かな脈を打つ。
『あなたのタイプだったりして?』
『何だい? 王子様。恋人と密会かい?』
ある日のベッテと、ボートに乗る前に囁かれた男性の声が風に乗って運ばれてくると、ネルフェットの首筋にはひんやりとした汗が垂れていく。
(タイプじゃない。タイプ、ではない……。恋人……でも、ない……けど)
彼らに返した言葉に嘘はない。彼が従来認識していたタイプは彼女とは確かに違うものだったし、彼女は友だちになったばかりだ。
けれど彼は観念しなければいけなかった。
自分は、このマニトーア代表建築マニアのことが好きなのだと認めざるを得ないことを。
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