17 とびきりの
ネルフェットに促されて降車したトニアは目の前に書かれた駅の名称にぱちりと瞬きをする。
「どうかした?」
足を止めてしまった彼女をネルフェットが少し遠くから呼ぶ。トニアは慌てて彼の方へと駆け寄り、乗った駅よりも簡素な造形のホームを後にした。
(ここ、って、もしかして……?)
黙って先陣を切るネルフェットの帽子を見上げ、トニアは微かな期待に胸を弾ませた。
(いや、だめだめ。そんなことない。期待するだけネルフェットに失礼かも……)
もし彼が向かっている先が予想とは異なったら。
その時に落胆したような表情は出したくない。トニアは自分にできる僅かな心遣いを思い、小さく首を横に振って冷たい空気で頭を冷やした。
駅からしばらく歩いた二人は、海へと伸びた桟橋の傍に辿り着いた。しかしそこが海に見えたのはトニアだけで、実際、目の前に広がる水面はこの地域の特徴とも言える湖だった。
湖は霞色に星が溶けた空を映し、きまぐれに波音を立てて眠るように二人のことを迎える。
「悪い。頼む」
トニアの脳内でこれまで数えきれないほど眺めた地図が衛星観測のごとく流れゆく間、ネルフェットは桟橋で待っていた一人の老人に声をかけて握手をしていた。
老齢の男性はにこにこと微笑み、ネルフェットの耳に何かを囁いている。トニアはネルフェットが彼の言葉を聞いて不意打ちを食らったように慌てて首を横に振るのを他人事のようにぼうっと見ていた。
自らの予測とネルフェットの思惑。男性に肩を叩かれている彼のどぎまぎとしたような顔を見ていると、そんなことはどうでもよいのだと気づく。
「トニア、船酔いとかする?」
「え? ううん……したことはないよ」
「そっか。じゃ」
ネルフェットは小さなボートに片足をかけ、トニアに向かって手を差し出す。
「あと少しで着くぞ」
男性に会えたことで気が緩んだのか、安堵したように彼は唇をにぃっと横に広げて笑う。
「うん。ありがとう」
彼の温かい手を取り、トニアはよいしょとボートに足を踏み入れる。重みで若干傾いた船体に浮遊感を覚え、トニアは心までふわりと磔から剝がれて浮いたように思えた。
二人が乗り込んだことを確認すると、男性は操縦座席へと戻り、しっかり座るようにと告げた後でエンジンをかけ始める。
全身に振動が走り、トニアは思わず興奮したような声を零す。アトラクションに乗るような高揚感に包まれ、閉じ込めていた遊び心が目を覚ましたようだった。
徐々にボートが速度を上げていくと、風が前面から大きく向かって吹いてくる。トニアは好き勝手に暴れる髪の毛を少し手で押さえた。
ソグラツィオに来てからの勉強漬けだった日々に不満などはない。けれどたまには、こうやって塞ぎ込んでしまいそうな気持ちを自然に任せて吹き飛ばしてしまうのもいいかもしれない。思わぬ気分転換に、トニアはくすくすと笑いだす。
彼女の笑い声は隣のネルフェットの耳には届いていない。彼に聞かれる前に風がどこかへ飛ばしてしまうからだ。だからこそトニアは思いきり笑うことができた。
ふと隣に目を向けると、ネルフェットは真っ直ぐに前を見据えたまま。
視線の先を切り裂いてしまいそうなほど真剣な表情をしている。するとトニアの目元はまた勝手に緩んでいく。
彼とともにごく普通の、ありふれた日常を過ごせるのなら、それだけでも十分だ。
トニアはつい先ほど見つけた答えに満足し、深く息を吸い込んだ。
「ネルフェット」
「……なんだ?」
「もしかして、酔いそうなの?」
「…………まさか」
すっと息を吐いたネルフェットは、表情一つ変えずに小さく返事をする。僅かに眉が動き、トニアは彼の主張の否定はやめることにした。
「ふふ。絶対に酔わないから、大丈夫だよ」
優しくそう声をかけ、彼の自己暗示を促す。ネルフェットは視線を変えずにこくりと頷き、目に入る風にも負けずに凛とした姿勢を保っていた。
また一つネルフェットのことを知れた気がしたトニアは、精神を整えている彼とは対照的に、ちょっとした遊園地に来た気分になって乗船を楽しんだ。
ボートが別の桟橋に着くと、ネルフェットは瞼を閉じて深呼吸をした。トニアは彼の三半規管が無事だったことに心の中で拍手を送る。
「じゃあ、時刻通りにな。今日は御馳走が家で待ってるもんで」
「はい。ありがとうございます。時間には戻ります」
ボートの主である男性に丁寧に頭を下げたネルフェットは、腕時計の針を男性のものとしっかり合わせた。
「トニア、行くぞ。悪いけどあんまり時間がないんだ」
「うん。でも、時間って……?」
島に降り立ったばかりのトニアは、ぽかんとした様子で頷く。
「ほら」
ネルフェットはトニアの疑問に答えることはなく、桟橋に座り込んで葉巻に火をつけた男性とネルフェットを交互に見ている彼女の手首を掴み、軽く引いた。
包むように柔く、それでもしっかりと手を掴まれ、トニアの全身に一瞬にして緊張が走る。
「暗いから、気を付けろよ」
「うん……分かった」
どちらにせよ、彼がどこへ向かうのか分からない。ならば従うしかないだろう。握れない彼の手が傍にあることを意識しないように、トニアは彼に身を任せることにした。
ざくざくという葉を踏みつける音と波の音だけが辺りに響く。トニアはネルフェットに導かれるがままに歩を進める。確かにもう月が空に鎮座しようとていて、高いところはともかく、足元は見にくい。トニアはネルフェットのペースに合わせながらも慎重に草原の上を縫うように歩く。
ボートが辿り着いたのは、湖に浮かぶ細長い島だった。降りる前に見た島の姿は、木々が整備されて生えているにも関わらず、岩肌がむき出しになっている場所もあり自然なままの姿にも見えた。あとは小高い丘があるということしか分からない。
ネルフェットが選ぶ平坦な道を歩き続けるうちに、二人の前には高い石壁が姿を現した。古い城壁で、要塞のように外部から中を守っているように見える。少し視線を上げると、高い壁の向こうに球体のような独特の屋根のようなものが覗いていた。
長年雨風に晒されていたことが視界が鈍くなってもよく分かる。トニアは慌てて足を止め、自分の手首を掴んでいるネルフェットの腕をぎゅっと握り彼を止めた。
ネルフェットは急停止したトニアを振り返り驚いたように彼女の表情を窺う。
「ネルフェット、あの……もしかして、なんだけど……」
どきどきと鼓動が待ちきれずに音を立てる。
トニアは心臓を抑えながら、速まる気持ちをどうにかぎりぎりのところで止めようとする。それでも彼女の心は今にも命綱なしで崖に飛び込んでしまいそうなほどに興奮を隠しきれない。
「ここって、古城……?」
「ああ。そうだ。やっぱり、トニアは分かる?」
待ち遠しい答えに、トニアの瞳は星を落としたように一気に輝きを帯びていく。
「……嘘……本当……? で、でも……立ち入り禁止じゃ……」
静かな声とは裏腹に彼女の鼻息は少しずつ荒くなる。ネルフェットは掴んでいた彼女の手首を離し、興奮で前傾姿勢になるトニアのことを支えようと、彼女に拘束されていない方の手でなだめるように彼女の肩を撫でた。
「立ち入り禁止だよ。だけど、ちょっとお願いしてみた。トニアに見せたくて」
「……え?」
「トニア、この古城が見たかったって言ってたから。俺からのお礼」
「お、お礼って、まさか楽譜の……?」
「そう。あと、秘密を守ってくれたお礼。……迷惑じゃないといいけど」
ネルフェットは自信がなさそうに自嘲的な笑みを見せる。
「迷惑? 迷惑なわけないじゃない! ネルフェット、こ、こんなこと、ある……?」
「え?」
興奮のせいか声が大きくなるトニアは、そのままネルフェットに飛びかかってしまいそうな勢いを抑えようと一度呼吸を整えた。
「こんなに素晴らしいこと、私、初めてだよ……!」
瞬きをする度にきらきらと光の粒が零れ落ちそうなほどに眩しい彼女の表情に、ネルフェットは何かを言うことを止めた。彼女の言葉をもっと聞きたいと望むように、彼はじっと彼女の笑顔を見つめる。緊迫していた彼の瞳の奥から、落ち着きの色が滲んでいく。
「私、ずっとずっとこの古城に憧れて、近くで見てみたかったの! 何度も夢に見て、何度も絵に起こして妄想してた! 私に夢をくれたのは、このお城なの……! 建物って、夢を現実に形として再現できるものなんだって、そういうことを教えてもらった。この古城が私にそうしたように、誰かの心を捉える、そんな建物を作りたいって、誰かの物語を作りたいって、そう……そう思ったの! でも、ずっと見ることを禁じられていて、幻みたいな存在だった。それが、こんな目の前に……。本当に、いいの? ね、ネルフェットが、怒られたり、しない……?」
口火を切ったように想いが溢れ出るトニアの自分を気遣う眼差しに、ネルフェットは意図せずクスリと笑う。
「大丈夫。担当者に、今日のこの時間は特別にいいよって許可貰ってるから。あ、でも、やっぱり制限があるって言われてさ。撮影も駄目だし、眺めるだけになっちゃうけど……。それと時間があんまりなくて……さっきのボートに乗せてもらって帰らないとだから……一時間もないんだけど……」
ネルフェットは気まずそうに腕時計を見やる。
「ごめん。トニア、中途半端で」
「ううん!」
トニアは出来る限りの大きな声を出し、ブンブンと頭を振ってネルフェットに詰め寄った。
「全然、そんなことない! 本当にありがとう、ネルフェット!」
「……そう? かな」
「時間制限があるなら、なおさら急がなくちゃ! 余すところなく見ないと勿体ないもんね。ネルフェット、早くいこう!」
トニアはそう言うと、早足で要塞の向こうへと急ぐ。ネルフェットがついてくる音も聞こえるが、トニアのそわそわとした心には、その足音すら最高のエッセンスとなった。
彼と駅を降りた時から、あるいはボートに乗った時から、もしやと微かに期待はしてしまった。トニアがこの古城に恋い焦がれていた年月を思えば、少しのヒントでそう思ってしまうのも無理はない。
それでも彼女は、そんなはずはないと自分に言い聞かせてここまで来た。
だからこそ、古城が目に映った時の喜びは何事にも代えがたかった。ネルフェットの向こう側に見えた愛おしいシルエットに、トニアの心の中ではファンファーレが鳴り響き、その瞬間から夢の世界に足を踏み入れたのだ。
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