16 地下の展覧会
家を出たトニアは、心臓がずっと落ち着かないことを自覚している。何度も深呼吸をしても変わらない。待ち合わせ場所に早く着きすぎたのも、気持ちが焦っているせいだろう。
夕陽が落ちた時刻。もうとっくに閉め切られている学院近くの、モザイクが刻まれた壁の前で冷たくなった手を組んで囁くように空を見上げる。
彼は本当に来るのだろうか。もちろん顔を見ることが出来たら嬉しい。だけどいっそのこと、来なくてもいい。彼が来なければ、結局あの笑顔は幻だったと思える。都合の良い夢を見ていたのだと。
トニアは無意識のうちに組んだ両手を顔の前まで上げ、瞼をぎゅっと閉じる。
(お願い。来ないで……来ないで来ないで……!)
祈るように念じる心とは裏腹に、小さな鼓動は鳴り続けていた。
「トニア?」
「……はっ」
ポカンとした声が耳に届き、トニアはパッと目を開けて声の方向を見やる。
「ごめん。待たせた。……寒かった?」
固く組まれたトニアの両手を見て、ネルフェットは被った帽子を一度上にあげてから申し訳なさそうに眉を下げた。帽子を被り直した彼の表情は少し見えづらい。
「ううん。違う……!」
慌てて手を離し、背中の後ろで腕を組んで隠した。ネルフェットは彼女の素早い動きに、また不可解そうな表情をしてからなんとなく頷く。
「あ……これからどこへ行くの?」
気を取り直したトニアは、驚きで縮こまった心を落ち着けようと笑顔を取り繕う。
「……内緒」
ネルフェットはトニアの笑顔を疑るような目で見ると、息を吐いてそう返事をする。
「ついてきて」
くるりと背を向けて、ネルフェットは近くの路地へと入っていく。トニアは軽く駆けると、その背中について歩き、ひたすらに道を進む彼に続く。
世の仕事も多くは終わっている今、街の中は帰りを急ぐ人ばかり。街灯と住宅から漏れる光だけが穏やかに街の営みを彩っていた。
すれ違う人の声が波のように通り過ぎていく。賑やかなレストランの前を通り過ぎ、バス停を越え、二人は地下鉄へと入っていく。
「……うわぁ」
何度見ても感動してしまう。トニアは洞窟の中にいるようなこの地下鉄の駅が大好きだった。天井は丸みのある凹凸のドームに包まれているようで、石壁に描かれた植物の模様が、地下という息苦しさを忘れさせてくれる。
足を止めてしまったトニアを、ネルフェットは文句を言うこともなく待つ。彼女が見ている絵画を見上げ、彼女が映し出す世界を真似ようと試みていた。
キラキラと、光の反射とは関係なく輝く表情に、ネルフェットは不思議な感覚を覚えた。急ぎ足で過ぎ去る人が数人、立ち止まった二人を追い越していく。
「トニア、電車来るぞ」
「うん……! ごめん!」
ソグラツィオは公共の場にもその造形で人々の心に驚きと発見、想像を与えてくれる。トニアはそんな建築がもたらす気遣いが大好きだった。地下鉄に乗る機会が少なく、久しぶりに見た光景に舞い上がってしまったのか、ネルフェットの声から棘が削ぎ落ちていることにも気づかなかった。
電車に乗ったトニアは、帽子を被っただけで普通に乗っているネルフェットにやはり慣れなかった。居合わせた人たちも、ちらちらと存在に気づいているようなのに、彼は全く気にしていないようだ。
念のため、万が一にも身動きがしやすいようにと座ることを避けたトニアに合わせ、ネルフェットも空いた席があっても立ったままだ。ピエレットが言っていた例の噂が広まっているのか、ネルフェットに近づこうとする者もいなさそうだが。
トニアは隣で窓に寄りかかり、たまに通り過ぎる電球が走る線を目で追いかけているネルフェットをちらりと見上げた。
彼は今、電球を追うことに夢中なようだった。腕を組んだままぼうっとしている彼の瞳を真正面から見てしまい、トニアの胸は子犬に噛まれたように柔く痛む。
自由になれる時間を失いたくないと言っていたネルフェット。王宮で彼は、きっと常に自分の役割を果たしていないといけないのだろう。自由に外に出られても、易々と近寄る者もいない。
彼は皆に愛されてはいる。庶民の目線で情報を見聞きしている事実に脚色はない。それでも噂のせいなのか分からないが、彼は一人でいる時間の方が多い。両親も忙しいと聞くし、教育係のリリオラとも上手くいっているのかは分からない。
それでもミハウやピエレットがいるから、きっと大丈夫なのだろう。
トニアはぎゅっと唇を噛み締める。自分もそこに入れるだろうか。
(ネルフェット。私、友だち、になってもいいのかな……?)
もしかしたら、彼の警戒は友だちを作りにくい環境からきているものかもしれない。
その憶測が彼女の胸にすっぽりとはまり、胸中で絡まっていたリボンが一つ解けたような気がした。
「ネルフェット」
小さく呼びかけると、帽子の下の深く切り込まれた目頭がこちらを向き、微かに首を傾げる。
「あとどれくらい?」
「あと……七つかな」
次に止まる駅を確認したネルフェットは、電車の音に掻き消されない程度のボリュームで答える。
「うん……。分かった」
「トニア」
「何?」
「今日は鞄、軽そうだな」
「……えっ」
肩から掛けている自分の小さな鞄を咄嗟に見ると、彼はその反応が可笑しかったのか、控えめな笑い声がこぼれた。
「きょ、今日は、講義じゃないから……」
トニアがはにかむように目線を窓の外へと逸らすと、ネルフェットは彼女を労うように目元を緩める。
(困ったなぁ……)
彼への思いを断ち切り、友だちになる決意を固めるために来たのに。彼女は優柔不断な自分の気持ちに渇を入れるように通り過ぎていく電球を睨みつけた。ネルフェットももう暗いトンネルの流れを見ている。
鼓動が鎮まるのには時間がかかりそうだと、トニアは途方に暮れた顔でこの先を思いやった。
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