15 企みの夜
自室に入ったネルフェットは、息苦しさを感じて首に近いシャツのボタンを二つ外した。
視線の先に見える机の上に置いたままのペンと、バラバラになっているピアストエの楽譜を見やる。
「……やるか」
カフスボタンも外して開放感を得たネルフェットは一度肩に力を入れて落とした後で、当たりの良い背もたれに寄りかかることもなく真っ直ぐに椅子に座った。
楽譜に穴が開くほど強い眼差しを向け、高まった集中力で自然と顔は表情を失い真顔へと移ろいを見せる。
すらすらと進めていたペンは時折止まり、その度に彼は思い悩むように喉を鳴らして眉をしかめた。
彼は今、トニアにもらった楽譜に描かれていた記号を参考に、所持していたピアストエの楽譜をピアノ向けに訳しているところだ。頂き物の楽譜は読み込みのため一度持ち帰った後で、学院の屋敷へと隠している。
覚えたての言葉を頼りに、ネルフェットは真っ新だった五線譜にメロディーをひたすら綴り、いつの間にか足元では拍を刻んでいた。
最近は公務も忙しく、なかなか筆が進まなかったが、この日はやけに頭が冴えるような気がした。彼の中で一つの懸念が解消したからだろう。
今日、彼女が御礼のお誘いを承諾してくれたことに、彼は内心ホッとしている。返してくれた本を貸した時の反応を思えば断られてもおかしくはない。断られることを覚悟で誘ったせいか、変に緊張してしまったのは想定外だった。
返してくれた本を書庫に戻していなかったことを思い出し、ネルフェットは入り口の棚の上に置いてある厚みに目を向ける。そう、確かにこれを受け取った彼女は、神経を尖らせていたように思えた。
あの時、記憶していた文献に間違いがないか気がかりで、もし認識が違っていたら呼びつけたトニアに申し訳ないと不安がよぎったネルフェットは、梯子に上った後のことを考えていなかった。
普通に下りるのであれば問題ないはずだ。そう思いはするものの、なかなかの高さに上った彼は、僅かに足がすくんでしまった。足を踏み外して着地に失敗すれば、運動神経の弱さが露呈してしまう。
ネルフェットはこれまで、リズム感、運動神経どちらの弱点も明るみにすることはなかった。当然、王室の人間や関係者は嫌でも知ることになっただろうが、外ではまた別の話。公で踊る時は、みっちり練習を重ねることでどうにかバレることなくやり過ごしてきた。
トニアに見られたら、また彼女に口外禁止を迫るのだろうか。それは避けたい。あの場所でネルフェットは妙な緊迫感に包まれた。慎重に、ゆっくり下りればいいと息を整えたのも束の間、結局はバランスを崩してしまったが。
彼女が絶望と悲鳴が衝突したような表情を浮かべた時、あまりの反応に、もしやバレてしまったのかと思い誤魔化そうとしたが、かえって不自然だっただろうか。
ネルフェットは彼女の自分に対する評価が胸に引っ掛かり、はたとペンを止める。
もしかして、彼女は自分に引いているだろうか。例えそうだとしても、そう思うことを否定はできない。こそこそ隠れて楽器は演奏しているし、大したことのない着地も綺麗にできない無様な姿。
それに何より、彼女は自分のことを警戒を越えて不審がっているようにも思える。そんなに、本を貸すことに違和感があっただろうか。
ネルフェットはこれまでの自分が向けてきた彼女に対する疑念を省みて睫が下がる。
今日のトニアの笑顔もそうだ。
どこに行くのか楽しみだと口では言っていたが、表情はどこか浮かない様子だった。また彼女のことを睨んでいたのかもしれない。彼女にお礼をしたいのだって、つまるところ自分の気持ちを押し付けているだけにすぎない。
これ以上は干渉しない方が彼女のためなのかもしれない。迷惑をかけ続けるのも気が引ける。
再びペンを動かし、ネルフェットは無心を取り戻そうと背骨をしっかりと伸ばして姿勢を改めて正す。
しかし少しメロディーが進んだところで、脳内ではトニアが熱心に建物を見学していた時の真剣な表情が勝手に流れていく。
初めて彼女に会った時に未知の存在に対して身構えていたのが懐かしく思えた。
自分の目で彼女のことを見ようと決意したネルフェットは、今やマニトーアから来た彼女のことをもっと知りたいという欲求が目覚めている。
彼女は自分とは背景も何もかもが違う。だからこそ、ほんの僅かな刺激はネルフェットの眠っていた好奇心を心地よく誘う。
ぼやけた彼女の元気がない笑顔を思い出し、ネルフェットはゆるやかに胸が絞まる錯覚に陥った。
異国で学びに勤しむ彼女の気丈な姿を思い、彼の心に漂流してきた雲がゴロゴロと鳴き声を上げ始める。ネルフェットは気を紛らわすかのように、決してこの手を止めまいと、五線譜上に一心にペンを走らせ続けた。
深夜が近づく頃、ネルフェットは酷使した手を虚ろな目で見つめたまま宮殿内の廊下を歩く。夜も深いというのに、廊下は煌々とした電気が点いたままだ。まだ働いている者もいるのだろう。
ネルフェットはすれ違った衛兵に会釈をすると、彼らの向こうに見えた花瓶に目が留まった。
隠された写真を花の隙間から見つめていると、誰かが会話をしながらこちらに歩いてくる音が聞こえてきた。
「ネルフェット、まだ起きてたのか」
夜中になっても顔色一つ変わらない清涼感に満ちたミハウがネルフェットを見つけて瞼を上げる。
「良い子はもう寝なさい」
続けてベッテがネルフェットを窘めるように静かに呟く。
「いつまでも子ども扱いすんな」
歳があまり変わらないはずなのにミハウは小言を言われない。彼の隣にいるベッテに対し苦言を呈したネルフェットは、はぁ、と、魂の抜けたような空気の軽い息を吐いた。
それを見た二人は、ちらりと横目で目を合わせる。
「二人は? まだ仕事なの?」
「もう終わり。リリオラと話をしていただけ」
「リリオラ?」
ベッテの返事にネルフェットは顔を上げた。
「そう。今度の詠唱会で使う曲について、三人で相談していたから」
詠唱会は、年に一度、国の英雄を称え、先の平穏への祈りを捧げるコンサートのようなものだ。今年はベッテがリリオラに命じられて制作した楽曲の中からいくつか演奏をする予定だった。ネルフェットはそれを思い出し、納得したように相槌を挟む。
「まぁ、まだ決まっていないんだけどね」
ベッテは光の見えない眼差しを疲れたように伏せる。
「ミハウの歌も決まってないんだ?」
「うん。でも俺は歌えれば何でもいいけど」
ネルフェットの隣にある花瓶を一瞬捉えたミハウは、些細な視線の動きに気づいたネルフェットによって花瓶が視界から塞がれた。
「ふぅん」
そんな動きは意図していないとでも言いたいような反応を見せたネルフェットに澱みを感じたミハウは首を傾げる。
「どうかしたか? 何か懸念でもあったか?」
ネルフェットの公務がようやく落ち着いてきたことを知っているミハウは、彼が何か仕事でやり残しがあったのかと邪推して尋ねた。
「いいや。順調だ。何の滞りもない」
「へぇ」
ベッテが興味深そうに声を出す。
「ちゃんとお礼もできたの?」
「は?」
突然の話題に話が見えないミハウが微かに声を出してベッテのことを不審な目で見た。ネルフェットとベッテはミハウの疑問に構うことなく話を続ける。
「……ああ」
「まぁ、それは良かった」
感情のない声で笑うベッテに、ネルフェットに疑るような表情が浮かぶ。
「ベッテ、本当にお礼は必要だと思う?」
「私は、そう思う」
「…………そっか」
「どうして? そんなこと聞かなくても分かるはずでしょ?」
「いや、そうだけどさ……」
気まずそうに言葉を濁すネルフェットに対し、ベッテは眉をひそめて奥の見えない瞳でじっと彼の表情を観察する。
「余計なことしてたら、かえって相手に悪いとか……ない?」
煙に巻かれた答えを探るネルフェット。気を揉んでいることが表情から隠しきれていないにもかかわらず、その瞳には恩情が宿っていた。
「……大丈夫でしょう」
ゆらゆらとした不安定さの見えない眼差しに、ベッテは単調な声のまま頷く。彼女の深い瞳の奥では、鋭い瞳孔が目を開く。
話の見えないミハウは、追及することもなく二人の顔を交互に見やり、ネルフェットの宙に浮いたままの心に気づいて眉に力が入った。
「じゃあ、私たちはもう休むから、ネルフェットも早く戻りなさい。明日も暇ではないでしょう」
「ああ。おやすみ」
カラリと声色を変えたベッテは、ひらひらとからくりのグローブに覆われた手を振り、真っ直ぐに歩を進めていった。残されたミハウは、花瓶の前に立ったまま一歩も動こうとしないネルフェットと一度目を合わせると、おやすみ、と返してベッテに続く。
ネルフェットはミハウがこの場から立ち去るのを待って、少しの間を置いてから隠していた花瓶を振り返る。
微かに見える写真に写るミハウの姿を目に入れたネルフェットの表情は凛々しくも脆く揺らぎ、こみ上げる悔しさを隠すように、体側に垂れた拳を握りしめた。
花瓶の位置をずらして写真を隠したネルフェットは、廊下の端の窓から下を見下ろす。
「…………やっぱり、賄賂が間違いないかな」
眼下に見える衛兵をまじまじと観察しながらぶつぶつと独り言をつぶやいた。
王宮を守る衛兵たちが優秀なことを彼は誰よりもよく知っている。誰がどの時間に出かけて、いつ戻って来たのかをしっかりと把握しているし、警備もつけずに出歩いているネルフェットに対してもそれは変わらない。
比較的一人で外に出て行けるとはいえ、彼らはネルフェットの動き自体は見ているのだ。
ある一定の時刻を過ぎると、その監視の目は厳しくなり、彼は流石に一人で外出することを看過してもらえなくなる。しかし今回はそれでは困る。
深刻な表情で考え込むネルフェットは、それからしばらくの間、衛兵たちの動きを監視し続けた。
*
「ベッテ」
楽団との練習終わり。もっとも新しく完成した楽曲の演奏が初めて合わせたにしては上手くいき、広間の空気は揚々としたものだった。そんな中、深く澄んだ声で呼び止められたベッテは片付けの手を止め振り返る。
目に入った上品に化粧を施した肌は荒れる気配も見せず、しなやかに笑みを浮かべていた。
「リリオラ様、どうかされましたか?」
ベッテはゆっくりと歩いてくるリリオラに静かな声を出す。
「ネルフェットの様子はどう?」
「……今日も学院へ行かれました」
がやがやと広間を出て行く楽団員たちが通り過ぎていく中で、ベッテは表情を変えずに答えた。
「……まったく。彼はいつまで学院の視察を続けるつもりなのかしら。少しは保身を考えて欲しいものだわ」
舌打ちにも似た嫌悪がリリオラの声から漏れ出ていることを本人も意識はしていなかった。
「護衛を、つければよろしいのでは」
「それは駄目よ。あまりにもやりすぎると、彼の不満が溜まるでしょう。皆が近寄りがたい空気を作ることは好んでいないみたいだから」
ベッテの提言にリリオラは慈悲深く息を吐いた。
楽団員たちは皆広間を出て行き、二人だけが残された。
髪の毛一本が落ちる音すら響きそうな広い空間の中でも堂々たる佇まいは変わることのないリリオラに、ベッテはしっかりと目を合わせる。
「ところで、あの娘のことはどうだったのかしら?」
リリオラは勿体つけるようにベッテの表情を隅々まで眺めた。
誰もいなくなったことを確認し、ベッテは彼女の艶やかな瞳をじっと見やる。
「……リリオラ様の懸念は、正しいかもしれません」
「えぇ?」
面白くない答えだったのか、リリオラの端正な眉が一瞬にして歪んだ。
「あの娘は、マニトーアの生まれです。……学院で、出会ったのでしょう」
ベッテは粛然と逆流していくリリオラの血の巡りに空気が震えていくのを感じた。リリオラの口元は笑みのまま、ベッテの話の続きを待っている。
「確かなの?」
「はい」
前に楽器店で彼女を見かけた時、彼女の発音がソグラツィオのそれではなく、マニトーア語の特徴的なアクセントを含んでいた。音を生業にする彼女のこと。聴覚は誰よりも敏感だった。店員に尋ねていた彼女の言葉を耳にしたベッテは、彼女の出身を理解した。ネルフェットが貰った楽譜。それも辻褄が合う。
ベッテの瞳に映るリリオラの笑みが、徐々にわなわなと乱れていく。
「だから、学院になんて通うものじゃないの……。私は反対したというのに。国王が変に気を回すものだから、こんなことになるのよ……」
ネルフェットがピエレットの通う学院に視察のために通いたいと申し出た時、リリオラは彼の要望をやんわりと否定した。彼も自分の立場を思い、当初は考えを改めようとしたものの、結局のところ話を聞きつけた国王によってネルフェットの学院通いは認められることとなった。
ピエレットという見知った存在がいることが大きかった。国王たちは息子との交流の時間が取れない代わりに、彼の希望を出来るだけ考慮してあげたかったのだろう。その理由も、自身の学びのため、糧のためだと言うのだから。父親としても当然、支援する側に回った。
信頼があるとはいえ、国王に逆らうことはできない。リリオラは渋々承諾せざるを得なくなった。
美しい色の爪をギリギリと手の平に突き刺し怒りを拳に込めるリリオラは、僅かに乱れた声でベッテに追及を進めた。
「……で? 二人は、仲が良いのかしら? そんなことはないわよね? ネルフェットは忙しいもの」
「それは…………」
先日見た彼の瞳を思い出し、ベッテの声は思わず詰まる。
リリオラの脳裏には今、一度目にしたあの娘の姿が浮かんでいることだろう。ベッテは王宮で見た彼女の後姿を思い出し、そっと目を伏せた。
「先ほど申し上げた通りです」
ベッテの感情のない鋭い声にリリオラの脳内で何かが切れるような音がした。ベッテは瞳を上げて憎悪を隠そうともしない彼女の眼光に向かい合う。
「ベッテ」
「はい」
「私の教育は、間違っているかしら?」
「……いいえ。王子には瑕疵などございませんから。リリオラ様のおかげでしょう」
「ええ。そうよね。そう」
ベッテの答えが好ましいものだったのだろう。リリオラは瞼を閉じて言い聞かせるように同調する。
「本当、愛情は伝わらないものね」
寂しそうにつぶやくリリオラ。シャンデリアに照らされた彼女の煌びやかな髪飾りには光の代償として影が宿る。ベッテはその影が揺らぐのをしかと見て、こくりと頷いた。
「大人しく衛兵を付けておくべきだったわ」
リリオラの後悔の声は空気を上擦り、塊のようなため息に搔き消されていく。
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