14 約束
トニアがネルフェットに楽譜を渡してから数日後、彼が学院に姿を現した。
ピエレットと一緒にカフェテリアでの時間を過ごしていたトニアは、久しぶりに聞いた彼の声に速まる鼓動をどうにか抑える。
「久しぶりだねネルフェット。研究所に行った時も全然会えなかったね」
ピエレットは若干の疲労が見える彼に向かって朗らかに笑いかけた。
「やっと公務が落ち着いた。何か変わったこととかあったか?」
ネルフェットはどさっとピエレットの隣の席に座り、大きく伸びをする。
「ううん。ないよ。ね? トニア?」
「ぅえっ!?」
持っていたカップを手から落としそうになり、トニアは衝撃でほんの少し指にこぼれたコーヒーを慌ててハンカチで拭く。
お気に入りのハンカチに茶色が滲むのを寂しそうに見た後で、彼女はゆっくり顔を上げる。
「トニア、大丈夫?」
ネルフェットの顔もこちらを向いていて、心配してくれるピエレットの声に合わせて僅かに彼の表情筋が動いたのが見えた。顰め面ではないものの、やはり難しい顔をしてトニアのことを見ていた。
「大丈夫。うん。特に変わったことはないよね」
咄嗟に笑顔を返し、ネルフェットの静かな眼差しで結露しそうな心に蓋をする。
「そっか」
ネルフェットはトニアの回答に簡単な反応を見せてから、彼女のカップの隣に置かれた単語帳を見やる。トニアはその視線に気づき、そっと片手でそれを隠した。
彼との距離がこれ以上縮まってしまうのを彼女は恐れた。少なくとも、彼はトニアが学びに熱心なことは認めてくれているようだ。そんな困っている人間を助ける素養もある。建築に限らず、語学学習にしてみても、きっと彼はまた何か自分に出来ることを見つけてしまうかもしれない。
トニアはピエレットに気づかれない方の彼の眉が歪んだのを見て、その読みは思い込みではなさそうだと確信した。
彼がいくら親切にしてくれようとも、それはただの厳しい教えからの習慣だ。自分に対する好意ではない。
今ならまだ踏みとどまれる。そう思ったトニアは、彼に寄せる心を縄で縛りつけた。
「そうだネルフェット。この前リリオラ様に学院でのネルフェットのこと聞かれたよ」
「え? いつ?」
「うーん。三日前くらいかな?」
ピエレットは顎を両手に乗せて思案する。
「なんて答えたんだ?」
「普通です、って。最近は来ることが少ないけど、いつも通り、構内をぐるぐる回って、たまーに学生たちとお喋りしてますって教えといた。リリオラ様がこんなこと聞くなんて、ネルフェット、なんかしたの?」
ピエレットはにやにやと笑いながら細めた目をネルフェットに向けた。
「何もしてないって」
ネルフェットは面白くなさそうにピエレットの粘りつくような目に薄目で見つめ返す。
バチバチと、見えない火花が飛んでいそうに見えたトニアは、息をひそめるようにコーヒーを改めて口に含んだ。
「……で、ピエレット、講義はどうしたんだ?」
「え?」
ネルフェットの一撃に、ピエレットはガタッと立ち上がり腕時計を確認する。
「わっ、もうあと二分で始まる! ちょっとネルフェット、もっと早く言ってよ! あんたがトニアとの時間を邪魔しに来たんだからさ」
「それは悪かったな」
「ごめんねトニア! また今度一緒に勉強しよ!」
「うん。慌てすぎて怪我しないように気を付けて、ピエレット」
急いで荷物をまとめたピエレットは、カフェテリアに入ってくる人とぶつかりそうになりながらも特急で教室まで駆けて行った。
ピエレットがいなくなり、トニアの気まずさには拍車がかかる。飲み終わってしまったコーヒーに頼ることはできない。トニアはピエレットを見送っていたネルフェットの横顔を構えるようにして見る。
すると、あの日の横顔がまた頭に浮かんできた。目の前にいる彼は、まったく違う顔をしているのに。
ブンブンと首を横に振り、トニアは彼がこちらを向く前に精神を整えた。
「今日はトニアに用事があって来たんだ」
「……え?」
声色を探るように静かに開いた彼の口から聞こえてきた言葉に、トニアの心は勝手に舞い上がる。
(いやいや、だめだって。落ち着かなきゃ……)
自分に用事があるからと言って、別に前向きな用事とは限らない。本を返せとか、そういう単純なことかもしれないし。
そこでトニアは、鞄に眠っている二冊の本を思い出す。
「そうだっ。ネルフェット」
彼が話している番だったのかもしれないが、トニアは思わず手を叩いてしまった。
「ん?」
ネルフェットは話を遮られたとは思っていないようで、率直に彼女の思い付きに目を開く。
「借りていた本、返せていなかったから……」
ごそごそと鞄を漁り、机の上に本を置いた。
「ああ。もうレポートは終わったんだ?」
「うん。早く返せばよかったんだろうけど、ネルフェット、ずっと忙しそうだったから……」
本当は自分が避けていたようなものだったけれど。
トニアは本心に言い訳を重ねる。
「気にすんな。誰か他に待ってるわけでもないし」
ネルフェットは本を受け取り、ぱらぱらとページをめくって一応中身を確認した。
「トニアくらいしか読まないかもな。難しそうだし」
「そんなことないよ。市場に出てないから読めないだけ」
「……まぁ、一理あるか」
耳が喜んでいるのか、彼の声が返ってくると繋がっている頬まで緩んでしまいそうだった。
「出し惜しみしなくてもいいのに」
ふふ、と笑みが零れそうになりながらも、彼女はどうにか理性を保つ。
「……トニア」
するとネルフェットは、そんな綻びだらけの彼女とは正反対に隙の無い真剣な表情をする。
「な、なに……?」
空気が変わったような気がして、トニアはごくりと息をのんだ。こうして真正面から見ると、やはり彼は独特の凄みがある。決して、ちょっとやそっとの鍛錬だけでは身につけられないだろう。
「確かに、君の言う通り。勿体ないことをしているとは思う。……で、思ったんだ」
ネルフェットは声を潜め、内緒話をするように辺りを気にし始めた。
「楽譜、くれただろ? それに、俺の勝手な秘密も守ってくれた。だから改めてお礼がしたくて」
「え? でも、本を貸してくれたり、王宮に招いてくれたり……たくさんしてくれてるじゃない?」
「そんなのはお礼にならない。トニア、やっぱり君にはちゃんと感謝したい」
「……う、うん?」
ネルフェットの吸い込まれそうな瞳に見つめられ、トニアは動悸を起こしそうになった。
それでも彼の瞳からは目が離せない。
「今度、時間をくれない? 連れていきたい場所があるんだ」
「つ、連れていきたい、場所……?」
トニアは手元に隠したままの単語帳をちらりと見やる。彼の言っている言葉が自分の知っている意味と合っているのか自信がなかったのだ。もしかしなくともこれはお出かけのお誘いか。
「そう。あ、でも都合上、夕方以降になっちゃうけど、いい?」
ネルフェットは茫然としているトニアの気持ちなどお構いなしに話を続ける。
「い、いい。大丈夫。全然、大丈夫だよ」
頭の中が単語でぐるぐる渦巻きを作る中で、トニアはどうにか返事をした。するとネルフェットは、心を落ち着けたように鼻で軽く息を吐き、僅かに目元を緩める。
「よかった。ありがと、トニア」
愁眉を開いたネルフェットは、力が抜けたように笑った。
(ああ、もう、笑わないで……)
再び自らの鼓動が聞こえてきたトニアは、参ったように眉を下げる。
「ううん。どこに行くんだろう……楽しみ」
平静を装って笑い返してみたが、本音はそれどころではなかった。今すぐにでも叫んでしまいそうだった。
「じゃあ、この日は? あ、待った違う。ここ、ここなら問題なさそうだ」
早速日程を決めようとするネルフェットが予定表を開いて声をかけてくれているのに、トニアの心はそれを聞く余裕はなかった。
学院と王宮以外でネルフェットに会える。
そんな約束をしてしまっていいのだろうか。でも、友だちだったら、それもおかしなことではない。
トニアは揺れる心に翻弄されながらも、彼が提示した日程に頷く。
これで諦めればいい。そうだそうだと言い聞かせる。
彼は例え些細なことだろうと、施しに返礼をしないときっと気が済まないのだ。だから自分に気を遣ってくれているだけだ。
その瞳の奥は、きっとこれまでと変わらない。それに、身分も何もかもが違う。
トニアは単語帳を握りしめる。結局のところ、秘密を共有する者同士、目指すところは友だちだろう。彼女は募りつつあるネルフェットへの想いと決別するため、彼の申し出に頷いた自分を許すことにした。
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