9 カフェテリアの新習慣

 学院のカフェテリアで、トニアは遅めのランチを終え、綺麗に食べ尽くした跡が残るお皿を端に追いやる。今日の午後は講義がない。模擬試験の参考書を読みながら、トニアは小さく気合いを入れた。

 希望しているライセンスを取得するためには、基礎試験に加え、ある事柄に特化した専門的な知識を駆使する試験も受けなければならない。普通に資格を得るだけならば基礎試験を受けるだけでも十分だが、トニアは建築士として必要とされる資格だけではなく、幅広い活動ができるようにと、専門試験も受験することを決めている。

 いくつかある分野の中でトニアが選んだのが、ソグラツィオ建築の歴史を問うものだった。ソグラツィオは国際的にも、その建築技術の軌跡やデザイン史が注目されており、自国の建築史を選択することができない決まりの中、トニアは迷わず、幼いころに焦がれたソグラツィオを選んだのだった。

 基礎試験に関する対策にそこまでの不安はない。本番、緊張しすぎてしまうことだけが課題だった。一方でソグラツィオの建築史については、まだ知識が足りていない。トニアはそれを自覚していた。


 そんな中で、王宮へ行けたことは幸運だった。あの場所は歴史そのものと言っても過言ではない。古くからある建物は、厳しく管理されているものも多く、なかなか近くで見ることはできないからだ。

 トニアは、参考書に掲載されている古城に目を向ける。そこもまた、トニアがいつか訪れてみたいと夢を託した場所だ。

 しばらく参考書にかぶりついていたトニアは、首を支える骨に痛みを感じ、首を伸ばした後で一度天井を仰ぎ見る。


「はぁ……」


 一息つき、顔を正面に戻したところで、じりじりとした視線を感じた。


「……ネルフェット?」


 通路に立っていたのは、相変わらず護衛もつけずに無防備な格好でこちらを見ているネルフェットだった。何かを思案しているのか、難しい顔をしてトニアのことをじっと観察している。


「いつ見ても勉強してるな、トニアは」


 呆れているのか分からない声で、ネルフェットは呟く。


「それは……みんなよりも、勉強しないと」


 参考書に羅列している文字。ソグラツィオの言語だって、完璧に喋れるわけでも読めるわけでもない。自分が受け入れたハンデを思い、トニアは苦笑した。


「でも、好きなことを学んでいるんだから、何の不満もないよ」

「……そうか」


 ネルフェットはすとん、とトニアの正面の椅子に座る。座ったまま、何も言わずにカフェテリアに集う学生たちを意味もなくみている彼に、トニアはどうしていいかわからず眉を下げた。


「ネルフェット、が好きなことって、何?」


 トニアのことを見ているわけでもない。しかし、昼時も過ぎた今、他にもたくさんの席が空いている中で同じテーブルを選び、何をするわけでもなく目の前で身体はこちらに向けたままの彼のことを無視することは困難だった。

 トニアは勝手に出てきた問いにすべての成り行きを任せた。


「……歌。昔は、歌うの好きだった。音痴だったけど」


 殊の外ネルフェットは普通に返事をしてくれた。学生たちを眺めながら、トニアの声も聞いていたようだ。


「そうなの? あ……リズムが、苦手だったんだっけ?」

「そう。ちょっとはマシになったと思うよ。個人的にね」

「今は……? あ、あの……あれ、とか?」


 トニアは、学生たちがいる中でどこまで話していいのか読めず、小さくヴァイオリンを弾くふりをした。ネルフェットはトニアの寸劇に目を向け、そのまま顔を正面に戻した。


「まぁ、その行為が好き……とは違うけど。もう習慣みたいなものだし。音は好きだけど」

「まだリズム感を克服したいの?」

「…………そう」


 ネルフェットは答えにくそうに頷く。やはり彼は完璧主義者なのだろう。やるからにはやり遂げる。トニアはその気持ちだけはよく理解できた。自分も、試験を受けるならベストを尽くしたいからだ。


「あ、そうだネルフェット。聞きたいことがあるの」


 そこで、トニアは前に見た楽譜のことを思い出す。


「楽譜って、どうしてるの? 街ではあまり見かけなくて……ネルフェットならすぐに手に入れられちゃうのかな?」

「持ってないよ」

「え?」

「ピアストエとかの楽譜はあるけど、それ以外はないから。勘? で、やってる。音階は共通だし耳で覚えて、探ってる」

「……そうなんだ……すごいね」


 トニアはその意欲に脱帽した。自分だったら、きっと道標がなければ諦めてしまう。開いたままの参考書を握りしめ、なんだか自分が恥ずかしくなる。


「それに、こっちじゃ手に入らないと思うよ。今は」

「そうなの? 知らなかった」

「……だよね」


 ネルフェットは遠い目をする。トニアは何かを言いたそうにしている瞳に小首を傾げた。


「慣れれば意外となんでもないよ」


 ネルフェットは平気な顔をして簡単にそう言うが、トニアは気道に埃が入ったような感覚に陥る。折角、彼はトニアも大好きな祖国の楽器を好きだと言ってくれたのに。もっと彼にその世界を楽しんで欲しい。もどかしくて、つい顔は俯いてしまう。


「トニアは、試験勉強?」

「あ、うん……!」


 頬杖をついてネルフェットが参考書を覗き込む。彼の髪の毛が近づき、トニアの鼻先に豊かな香りが届いてきた。


「難しそうだね」

「そ、そんなこと、ない……よ。あっ、いや、えっと……難しい、けどね」


 彼が顔を上げ、微かに同情するように頬を緩めるので、慣れない香りに惑わされそうになったトニアは慌てて首を横に振る。


「……どっち?」


 するとネルフェットが怪訝な眼差しを向けてくる。もはやその表情の方が落ち着くくらいには見慣れてしまっていたトニアは、意識をしっかりと正す。


「難しい。ソグラツィオの技術は本当に緻密だから、見えないところにもこだわりが隠れているの。それをすべて理解しようとすると、とんでもなく膨大なものになる。マニトーアの古代建築も評価はされているけど、それとはやっぱりまた違うの。様式がね、ある時から全く異なるから」


 口が止まらなくなりそうになったトニアは、鼻で大きく息を吸って気持ちを抑えた。


「へぇ。トニアだって、同じことやってる。すごいって自分で思わないの?」

「え?」


 ネルフェットは前に倒していた身体を戻す。


「基礎は同じ。だけど、表現されるものは異なる。楽譜がない俺と、言葉を勉強してるトニア。同じじゃない?」

「……そう、かな……?」

「音楽だって、言葉と同じ。俺はマニトーアの言葉が分からない。ほら、同じだよ」


 妙に食い下がるネルフェットに、トニアは一度同意をすることにした。


「あ、でもね、建物って、言葉が分からなくても、その姿を見ればちゃんと伝わるの。ネルフェットが耳で覚えているのと同じで、見た方が早いって、ね。だから、この前王宮に行けたのは本当に嬉しかった。絶対、行けない場所だから」

「絶対ってこともなかったんじゃ……」

「そう? だって、関係者以外は近寄れないって、ガイドにも書いてあった。遠くから見学はできるけどね」


 ソグラツィオに来る前に調べた情報を、トニアはこの国の王子に向かって披露した。


「ああ、確かにそっか」


 意外と、当の本人は意識していないようだった。ネルフェットの反応は、まさに目から鱗が落ちていた。


「マニトーアにいると、結構文化財も観光地化されているから自由に見れるんだけど、ソグラツィオって、意外とそういうところ厳しくて……禁止されているところが多いの」

「気にしたことなかったな。そういうのは、担当庁に任せちゃってるし」

「ふふ。そうなんだ」


 目を丸くしているネルフェットにトニアは不思議と親近感を抱く。王子だって全知全能の超人ではない。分からないこともあるのだと、どこか安心したのだ。


「保全のためなんだろうけど、なんか、勿体ないかもな」

「そうだよ。もう少し緩和してくれてもいいのに。ほら、これ見て」


 トニアは参考書に載っている古城をネルフェットに見せる。


「ここ。ソグラツィオで最高傑作って言われている場所。すごく古いお城で、いつ出来たのかも分からないんだけど、ソグラツィオにある建築物のどの様式とも違っていて、研究者たちからも注目されてるの。ここを舞台にしたお話もいくつかあってね、前に話した赤い紋様の話もここに住んでいたって言われてるお姫様がモデルにされてるんだよ」

「……詳しいな」


 朗らかに笑うトニアに対し、ネルフェットは初耳のような顔をしている。彼はあまり寓話や逸話に関心がないようだ。トニアは少しずつネルフェットのことが分かってきた。


「この古城と、そのお話を聞いて、私はソグラツィオに興味を持ったんだ。だから、すごく行ってみたいけど、当然立ち入り禁止だから、なかなか難しいかな」


 参考書を閉じ、トニアは空になった皿を見やる。そろそろ片付けなくてはスタッフの人が帰ってしまいそうだ。


「そうだ。この前ネルフェットのこと新聞で見たよ。王室の仕事もあるし、忙しくない?」


 自分のかつての憧れを話して居心地が悪くなったトニアは声を転調させる。


「いや。国の皆のために出来ることをするのが、俺の役目だし」

「……ほぉ」


 お手本のような答えに思わず息が漏れた。ネルフェットにはどう聞こえたのだろうか。少し眉をしかめたように見える。


「父と母が執務に追われてるんだ。俺だけ我儘なんて言わないよ」


 ネルフェットは、はぁっと息を吐くように肩の力を抜くと、両手を机に置いて凛とした視線を向けてきた。


「学院に来れるのも両親のおかげだ。ここがあるから、俺はあの屋敷に出会えた。今の環境も、悪くはないよ」

「……そ……っか。それなら、良かった」


 不意に出てきた熱意のこもった声に、トニアは目をぱちぱちとさせる。

ネルフェットの話だと、きっとリリオラのいる王宮ではマニトーアの楽器を演奏するなんて言語道断なのだろう。空っぽの屋敷で誰にも内緒でそれに触れることが、忙しそうな彼の憩いになっているのなら、それは尊重すべきことなのだろう。


 それならば、なおさら……。


 トニアはカフェテリアの時計を確認して立ち上がったネルフェットのことを目で追う。


「じゃあ俺は、”仕事”が、あるんで」

「うん。じゃあね……」


彼の秘密を知っているのは恐らく自分だけ。

 ピエレットや語学学校の恩師が助けてくれたように、ほんの少しでいいから彼の助けになりたいと思ってしまうのは、間違っているのだろうか。トニアはしばらくの間、参考書を開いたまま考え込んだ。






 「トニア、難しい顔してんな」


 カフェテリアでの勉強が日課になっていたトニアの前に、今日もまたネルフェットが現れる。

 彼もよくカフェテリアに来ているのだろう。最近は、トニアを見つける度に声をかけてくるようになった。


「そんな顔、してた?」


 トニアも遅めのランチの後にネルフェットと声を交わすことが習慣になり、彼が同じ場所に座ることに何の違和感もなくなっていた。

 いつも、五分程度会話をしただけでネルフェットは去ってしまう。やはり彼は忙しいようだ。


「してた。こんな」


 トニアを真似しているのか、ネルフェットは眉間に皺を寄せる。


「嘘。そんなに怖くないでしょう?」


 ネルフェットがトニアとの間にある敷居を完全に取り払っているわけではない。まだ彼との間には飛び込むには勇気がいる程度の溝を感じていた。それでもトニアは、そんな足元が見えない距離感が嫌いではなかった。

 互いの秘密を共有しているのだから、きっとこれくらいがちょうどいい。そう思っていたのだ。


「怖いって……俺だって怖くないよな?」

「どうかな? ネルフェット、真顔だと怖いから」

「はぁっ?」


 本当に自覚がないのか、素直に驚いているネルフェットにトニアは思わず吹き出した。


「で? 何見てんの?」


 気を取り直した彼は、まだ納得はしていない顔で話を戻す。


「ソグラツィオの有名な建築家に関する勉強。三大巨匠についてはたくさん資料があるんだけど、同時期に活動していた人の文献が全然なくて……レポートが進まないの」


 トニアは頭を抱えて悲しそうに細い声を出す。


「皆、個性的で素晴らしいのに、やっぱり残るのは大きな名前だけなのかな」

「……どれ?」


 ネルフェットに促され、トニアは大きな図録を渡す。ネルフェットはトニアが栞を付けていたページまで進み、静かに目を落とす。


「図書館にもないし、街にも当然売ってない。でもね、三大巨匠以外にも、こんな歴史がありましたってまとめたいの。欲張りすぎたかな……?」


 しょんぼりとするトニアは、文字を追うネルフェットの瞳をちらりと見やる。


「…………これなら、多分あるよ」

「え?」


 はい、とネルフェットは閉じた図録を返してきた。


「ある、って?」


 分厚い図録を受け取りながらも、視線はネルフェットを見たままだ。


「王宮の蔵書。絶版になったものも、発禁になったものも全部ある。少なくとも、彼らの名前を昔読んだことがある。だから、まだ残ってると思う」


 顔色一つ変えずにネルフェットは腕を組んだ。


「ほ、本当!? それって、私でも読めるの!?」


 勢いづいたトニアは、図録を抱きかかえて前のめりになる。


「ああ。置いてあるだけってのも、勿体ないしな」


 トニアの興奮した声に、ネルフェットは軽くそう返した。


「今日、時間ある? 借りていっていいよ」

「ほんとっ!?」


 ついにトニアは立ち上がった。ネルフェットの視線も上がり、うん、と頷く。


「ありがとう! ネルフェット。すごく助かる……!」


 感激のあまり瞳を震わせるトニアに、ネルフェットは「大げさだな」と乾いた声で笑った。

 

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