8 街角の王子
カフェから通りへと出たトニアは、すれ違った女性が読んでいる新聞が目に入り、湯気が立つコーヒーから顔を上げる。紙面のトップを飾っている写真には、この国の王太子が博覧会に訪問をしたという姿がおさめられていた。学院では着ているところを見たことがないスーツ姿で朗らかに笑っている彼の顔にトニアは意識を奪われた。
「熱……っ!」
気もそぞろに感覚だけで紙の器に入ったコーヒーを口に運ぶと、舌に刺激が走る。
トニアはやけどをした舌先を外気にちらりと覗かせると、後悔するように肩を落とした。
気を取り直し、ふぅふぅと息を吹きかけて水蒸気を揺らし、トニアはとぼとぼと歩き出した。肩にかけた鞄はスッキリとしている。学院が休みの今日、彼女はお世話になった語学学校の恩師が退職するというので、その門出に立ち会ってきた。今は帰り道で好物のコーヒーを買い、久しぶりに買い物でもしようと街を散策していたところだ。
久しぶりに会った恩師は、トニアが学院でピエレットという友だちに親切にしてもらっていることを知ると、とても喜んでくれた。ネルフェットのことは言えなかったのが歯がゆかったが、そこはどうにか口をつぐんだ。晴れやかな表情でこれから先の意欲を誇らしげに語っていた恩師の笑顔を思い返し、一口コーヒーを飲む。
「……苦い」
散漫な心で蓋を開けたせいか、ミルクを入れるのを忘れていた。至福の味が欠けてしまったトニアは、小さくため息を吐く。うっかりしてしまった自分を省みながらも、彼女の視線は店先に並んだ新聞へと向かった。先ほどの女性が持っていたものと同じだ。今朝の新聞だろうか。
足が赴くままに新聞の目の前までくると、半分に折られた見慣れた顔がこちらを向いて微笑みかけてくる。
ぼうっとネルフェットの顔と見つめ合いながら、トニアは彼のことを考えた。
今回も、多忙な国王と王妃に代わってネルフェットが博覧会に視察へ行ったとのことだ。学院とは違い、ちゃんと無愛想なボディーガードらしき人も見切れている。
ソグラツィオは立憲君主制で、実際の権力は議会に与えられている。ただ、彼らの場合は政治にまったくの無心というわけでもなく、大きな権力はなくともしっかりと政にも参加することが求められてきた。
ネルフェットの両親はソグラツィオの更なる発展のために、技術の向上や貿易へ力を入れていると聞く。首相とも知恵を出し合いながら、日々仕事に就いているそうだ。
息子であるネルフェットに国内の交流は任せているようで、彼は国民から広く愛されていると、前にマニトーアの実家のテレビから聞いたことがある。
だから、さぞ愛嬌のある好青年だと思ったものだ。実際の彼はトニアが想像していたものとは違い、何を考えているのかよく分からない、高圧的なものだったが。
トニアは商店から離れ、コーヒーを飲みながら街を歩く。
ネルフェットのことはまだよく分からない。だから、彼の人柄を判断するには早計だろう。一度頭に浮かんだ、“偉そう”な彼の印象は、秘密を打ち明けてくれたことですっかり薄れた。それでもトニアは、胸につかえているモヤモヤが晴れていないことも承知している。
ネルフェットのことを初めて陽の下で見つけた時、単純にもその憧憬に鼓動を打った。瞬きもできずに、オレンジに溶ける彼の姿にほんの僅かな間、囚われた。
そこからすぐに現実に戻されたトニアは、今でもその感覚を覚えている。
あの時見たものは夢だったのだろうか。耳に残された音色と重なり合い、彼の幻想はトニアの心に光を散らす。
リリオラという女性がマニトーアに好意的でないと聞いたとき、トニアはそこまで驚きはなかった。もちろん、切ない気持ちが全くないわけでもないが。
彼女のことは美しい人だという印象しか残ってはいないが、恐らく、二国の歴史をよく勉強してきた人なのだろう。
歴史は風化し、数は少なくなっているとはいえ、そういった人がいてもおかしくはない。歴史上の人物に憧れを抱いたり、熱狂する人だっているくらいなのだから。
しかもリリオラは国に仕えている人間。人並み以上の慧眼が求められ、何もかもを慎重に見ることが当たり前とくれば、想いは人一倍あっても不思議ではない。
マニトーアでも、二国の歴史に眉をひそめる人間がいないわけではない。友好関係が崩れたのがあまりにもあっけなく、体験していなくとも悲壮感は伝わる。
過去のことで、そこを生きた人間はもういないとはいえ、きっと色々な胸中の人がいるのだろう。
懐かしい学校の授業を思い出していたトニアは、流れてくる規則的な演奏に耳を誘われる。ヴァイオリンを見つめていた彼を思い出し、彼女はふと足を止めた。聞こえてくるのは、どこかの店から漏れている曲のようだ。きっと、音源を流している。ちらちらと辺りを見回すと、通りの向こうに楽器店が見えた。
誘われるままに、トニアは店へと足を向ける。
店内には、ソグラツィオで生まれた楽器がいくつか並んでおり、フロアを囲むように並んでいる棚には、ぎっしりと楽譜が詰められていた。
トニアは数人の客で賑わっている店内で、近くにあった楽譜を手に取った。
「……あ」
そこで彼女はある疑問に出会う。
ネルフェットはきっと、独学でピアノやヴァイオリンを練習している。ソグラツィオの楽器と似ているとはいえ、構造や音域は異なっているはずだ。
彼はどうやって演奏をしているのだろう。
半分飲んだコーヒーを零さないように気を付けながら、ぱらぱらと楽譜をめくる。トニアも兄の影響で幼い頃はピアノを演奏していたが、経験者の彼女でも、綴られている音楽を読み取ることができなかった。
ソグラツィオに来て音楽どころではなかった彼女はこれまで気にしたことはなかったが、そういえば楽器店を見ても、日常で流れてくる音楽も、マニトーア産のものに遭遇する機会はなかった。たまに世界共通で使われている広告や宣伝でマニトーアの有名人を目にするくらいだろうか。
この店にも、ピアノやヴァイオリンの楽譜は見たところなさそうだ。個人商店だからなのかもしれないが、大きな店でも数は限られているのだろうとトニアは推測した。楽譜も、趣味で作成する人もいるだろうが、マニトーアから輸入しないと手に入らないはずだ。
(ネルフェットは楽譜、持っているのかな……?)
手元に置いたこれまで見たことがない記号の並びに、トニアは感心したように息を吐いた。
「……失礼」
「えっ?」
楽譜に集中しているところに、ハスキーな女性の声が飛び込んできた。トニアは声と共に目の前を横切ろうとする腕に気づき、咄嗟に身体を反らす。
「あっ……邪魔でしたね、すみません」
女性の求めていた楽譜を取るのに障害となっていたトニアは慌てて頭を下げた。
「いいえ。お邪魔しました」
トニアが委縮していると、女性は切れ長の目をゆるやかに細めて微動した唇で微笑みを浮かべた。白と見間違えるほどのプラチナブロンドの髪の毛は切りっぱなしで、緩やかな歪みを描いていた。乾燥気味のミディアムボブの髪は、半分から下にいくと深い茶色へときっぱり変わっているのが印象的だった。
女性の髪の毛に見惚れたまま、背を向けた彼女を見送っていると、トニアの視界に緑のエプロンが入ってきた。
「あ、すみません。これって、ピアストーエの楽譜ですか?」
店員である中年の男性に声をかけたトニアは、手に持っている楽譜を軽く持ち上げる。
「はい。そうです」
彼が愛想良く肯定するその背後で、立ち去った彼女は流し目でトニアのことを瞳に入れ、止めた足を再び動かし、店の奥へと消えた。
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