7 秘密の秘密
宮殿を見学してから十日ほど経った頃、トニアは今日こそ空っぽの屋敷を観察しようと、講義をいつも以上に真剣に受け、陽が落ちるまでの自由時間をできるだけ多く確保しようと努めた。
学院では、ネルフェットと顔を合わせる機会も増えた。
これまでまったく気づいていなかっただけなのか、ネルフェットは意外と学院内を自由に闊歩しているようだった。トニアはそんな彼と普通に挨拶を交わす度に身構える癖をどうにかやめることができた。
講義が終わり、トニアは荷物を急いでまとめて教室を出る。いつも通り、彼女の荷物は膨れている。
敷地内の端にある空っぽの屋敷を目指し、トニアは人の流れを押し切って細い石の階段を駆け下りた。
「あ……」
分厚い雲の向こうから柿を潰したような色が滲んでいるその下に、初めてここに来た日のようにネルフェットの姿が見えた。
あの日とは違い、楽器は手にしていなかった。
ネルフェットはトニアの足音に気づき、階段を降り切った場所で目を丸くして固まっている彼女のことを振り返った。逆光で表情は見えない。トニアの重い荷物が肩から落ちて鈍い音が鳴る。
「屋敷を見に来たのか?」
ネルフェットは、驚いた猫のように動かないトニアに近づき、落ちた鞄を拾い上げる。
「重……。トニア、こんなの持ち歩いてんの?」
ネルフェットは眉を下げて笑う。
「うん……。あ、ありがとう」
トニアが慌ててネルフェットから鞄を受け取ると、ずっしりとした重みに上半身が前に傾く、
「あの……私、今日はやめておいた方がいい?」
ネルフェットが屋敷に向かって歩いていくので、トニアはおずおずと尋ねる。
「いや、いいよ。中も見る?」
「え?」
顔だけ振りむいたネルフェットは、指に通した鍵を見せつけてきた。
「鍵、ネルフェットが持ってるの?」
「ああ。王子の特権」
にぃっと笑った彼の顔が逆光をすり抜けてはっきりと見えた。彼から目線を反らさずにトニアは無言で頷く。
慣れた様子で扉を開けるネルフェットの背後から、トニアは電気も通っていない薄暗い室内を覗き込む。蜘蛛の巣や埃が、差し込んだ外の光によって露のようにきらめく。
不気味で寂しい空間は、まるで油絵のようにその場所に佇んでいる。
ネルフェットに続いて中に入ると床が軋む音がした。思っていたよりも朽ちてしまいそうなほどに傷んでいて、トニアは悲しそうに壁を撫でる。ヒビの入った箇所には金継のような塗装がされていた。
廊下に並んだ扉は閉じられていたが、入ってすぐの右の部屋だけは開けられていた。ネルフェットは迷わずにその部屋の中へと入る。
トニアがついて行ってもいいのか足踏みをしていると、ネルフェットが無言で頷いて承諾してくれた。
部屋に入ると、そこだけは周りと違って薄汚れた印象はなく、綺麗に整理されているように思えた。トニアは予想していなかった光景に、拍子抜けしたように肩の力を抜く。
トニアがソグラツィオで借りている部屋よりも少し狭い一室の窓は締め切られていて仄暗い。中央へと進んだネルフェットは、置いてある蝋燭に火をつけた。ロウは溶けていて、使用された形跡が見える。
「……ここは」
明かりがつくと、部屋の中がより鮮明に見えてきた。家具もほとんど置いていない殺風景な空間には、前にトニアが見た楽器のケースが丁寧に置かれていた。
他にも、トニアにとって馴染みの深い楽器がいくつか置いてあり、彼女は埃をかぶっていないピアノの蓋を撫でた。
「ネルフェット、あなたがここを使っているの?」
ケースを開けてヴァイオリンを取り出し、具合を確認しているネルフェットに声をかけてみる。彼は艶めくヴァイオリンを眺めた後で、もう一度ケースにしまって立ち上がった。
「……そうだ」
一言だけ答えたネルフェットは、トニアのことを真っ直ぐに見る。
「どうして、こんなところに……」
「知ってる?」
「えっ?」
「もしここが王家に関係していた人間の家かを知りたかったら、獅子を探してみるといい」
トニアの疑問に、ネルフェットは目を逸らして机の上に置いてある布を手に取った。回答することに躊躇うように、彼は話題を変えたのだ。
「獅子……?」
「王家の人間は恐れや不安を獅子の後ろに隠して、守ってもらおうとする。だから必ず、彼らにとって身近な場所に獅子がいる」
「じゃあ……ネルフェット、も?」
「部屋に獅子の小さな像がある。その後ろに、昔は父から譲り受けたブレスレットを隠してた」
「そう……なんだ」
父親からの贈り物なのに、どうして恐れるのだろう。
トニアはぼんやりとした問いが増えたことに小首を傾げながらも相槌を続ける。わざわざそんなことを教えてくれるなんて、ここを使っている話をそんなにも拒みたいのだろうか。トニアは彼の意向を配慮し、先ほどの疑問は取り消すことにした。
「…………俺は掃除をするから、トニアは自由に見たいところを見てこい」
「……うん」
それからネルフェットは何も言わなくなった。
「ありがとう、ネルフェット」
トニアはそれだけを告げ、鞄を肩にかけ直して屋敷の散策を始めた。
屋敷の中で、二人はそれ以上の言葉を交わさなかった。
トニアにとってはあっという間の時間だったが、時計を見ると、もうすぐここに来て二時間半が経過してしまうことに気づいた。屋敷をくまなく見たところ、ここに獅子はいなかった。王家の関係者が使っていたわけではなさそうだ。
慌ててネルフェットがいた部屋に戻るが、もう彼はそこにはいない。
鍵をかけなければいけないはずだ。
そう思ったトニアは、ネルフェットがいないことに冷や汗をかき、大慌てて屋敷を飛び出す。
「……ちゃんと見れた?」
玄関を出たトニアは急停止し、目の前に座り込んでいるネルフェットの後頭部を見下ろして心臓を跳ね上がらせた。入り口にある階段部分に座っているネルフェットは、ちらりとトニアを横目で見る。もしや待たせてしまっていただろうか。トニアは、罪悪感でバクバクと動く心臓の音に誘われるままに後ろめたい表情をする。
ネルフェットの手元には鍵があった。いつから待っていたのだろう。トニアはわなわなと口を震わせる。
「あ、あの……ごめんなさい。時間、かかってしまって」
「いい。もう閉めてもいい?」
彼の声は怒っているようには聞こえなかった。もちろん、明るいわけでもないが、いたって普通の声だった。
「うん……」
声をかけてくれても良かったのに。そう思いながら、トニアは前を横切るネルフェットを視線で追う。
金属の絡み合う音がして扉に鍵が掛けられると、ネルフェットが扉の方を向いたまま若干俯いた。
「……ネルフェット?」
体調が悪いのだろうか。
トニアは不安になってその顔を覗き込もうとするが、勇気が出なくてその場で首を傾げることしかできなかった。
「トニア」
沈黙が続き、どうしたらいいものかと思案していると、ネルフェットが静寂に雫を落とすように声を通す。
「は、はいっ」
しっかりとした声に、トニアは思わずぴしっと両腕を体側にくっつけた。
「秘密、守ってくれてありがとう」
「……え?」
凛然と整えられた髪の毛をぼうっと見上げ、トニアは幻聴を聞いたのかと耳を疑う。
これまで頑なに秘密についての話はしようとしてこなかったのに、一体どういう風の吹き回しか。避け続けてきた話題に向こうから触れられ、トニアは困惑して目を回した。
「トニアのこと疑ってた。悪い」
ネルフェットは状況の整理がついていない顔をしているトニアを振り返り、ばつが悪そうな表情で謝った。
「……いいえ……いいです……」
ポカンとしたまま、トニアはそう返事をしてしまった。本当は文句の一つや二つくらい言いたかったが、その言葉が出て来なかった。
ネルフェットは扉から離れ、一段落ついたかのように深く息を吐く。
トニアの表情を窺った後で、ネルフェットはもう一度階段に座り込んだ。
「俺の演奏、下手だっただろ?」
「…………いえ、そんなことは」
「正直に言ってくれていいから」
ネルフェットはむっとした様子でトニアのことを見上げる。
「……上手、では、なかったと思うけど」
トニアは限られた階段のスペースの上で、ネルフェットの隣に取れるだけの距離をあけてゆっくりと座り、たどたどしく感想を述べた。
「でも、素敵な音だと、私は思った……かな」
「気を遣ってる?」
「ううん。これは本当。……だから、どうして秘密にするのかなって」
塞がっていた疑問が、いとも簡単に喉を通った。トニアはあっさりと聞いてのけた自分に驚き、ハッと顔を上げる。
「宮殿でも、ミハウさんが、楽器を弾いていたし……。どうして隠すの?」
そこでトニアは、ピエレットが言っていた「完璧主義」という言葉を思い出す。もしや彼は、不完全な音楽を演奏している自分を許せないのだろうか。
「……ミハウは、いいんだ。ピアストエは問題ない」
「……?」
ネルフェットが言い難そうに顔をしかめるので、トニアは小首を傾げた。
「でも、ヴァイオリンやピアノは、駄目なんだ」
「どうして……?」
トニアは悲しそうに眉を下げる。それらはマニトーアが誇る、代表的な名産品だ。もちろんトニアも生まれた頃からずっと耳にしてきたし、当然の如く世界中で愛されている音色だと思っていた。実際に、これらの楽器が奏でる音楽は広く浸透し、皆が口ずさむからだ。
それでも、トニアはその思い込みを反省することにした。少なくとも、今、目の前にいる人にとっては何かしらの問題があるらしい。誰もが愛するものだと思い上がることをやめようと、考えを変える努力をした。
「……嫌いなの?」
「嫌いなら演奏しない」
しかしネルフェットははっきりと否定する。
「俺、リズム感がなくて、昔から歌を歌ったり、楽器を演奏してみたり、どうにか鍛えようとしたんだ」
「うん……」
「完璧には克服できてないけど、それなりに、音楽の面では改善することができた。だから楽器には感謝してる」
「……なら、どうして?」
ネルフェットはトニアの落胆する表情を視界に入れ、またすぐに外す。
「マニトーアのものだから」
「……え?」
「リリオラのこと、覚えてる?」
「うん。宮殿で会った女性だよね? 綺麗な人……」
「彼女は俺の教育係兼、父たちの参謀役だ。ずっと王室に仕えてくれていて、ソグラツィオのことをよく見てくれている。だけど、彼女はマニトーアに良い印象をあまり持っていないみたいだ。特に、マニトーアの芸術に敵対心を燃やしていて、マニトーアの楽器を演奏してるって知ったら、憤慨するだろう。楽器は取り上げられるし、それどころか、監視されるだろうな」
ネルフェットはため息交じりに平坦な声で語る。暗くなった空を見上げ、雲の向こうに浮かぶ月に瞳が明るくなる一方で、彼の表情はくすむ。
「楽器を色々演奏しているうちに、ヴァイオリンとかピアノとか、マニトーアの楽器にも手を出してみたんだ。ただの好奇心で。リリオラがあまり良くない顔をすることを知っていたし、どんなものなんだろうって気になって。それで、ここでこっそり練習してた」
「ここなら、誰も来ないから?」
「そう。屋敷の鍵も学院から借りて。全く人が来ないってのは本当だった。……一人を除いては」
「…………」
ネルフェットと目が合い、トニアは肩をすくめた。別に、彼女は悪いことをしているわけではないというのに何故か罪悪感を抱いたのだ。
「マニトーアの楽器は好きだよ」
気まずそうにしているトニアに、ネルフェットはそう付け加える。
「まぁ、ある意味トニアで良かったのかも」
「どういう意味?」
「マニトーアの人だし、ね」
「……?」
トニアはネルフェットがまた色のない声を出したことが引っ掛かり、口を結んで眉間に皺を寄せた。
そうしていてもネルフェットが本音を言ってくれることはないと分かっているトニアは、秘密を打ち明けてくれたおかげで疑問が一つ消えたことにとりあえずの妥協をする。
「ちゃんと、黙っておくから」
「ありがとう、トニア」
「ねぇネルフェット。あなたの演奏、私は気に入ったよ?」
「……嘘だ」
「ふふ。本当。音楽って、完璧に上手じゃなくてもいいじゃない。大事なのは、聞く人の気持ちでしょう?」
「…………そうかな」
「うん。あともちろん、演者側の気持ちもね」
自分の演奏に満足していないのだろう。恥ずかしそうにしているネルフェットにトニアは笑いかける。
「これからも、練習してくれる?」
「ああ。あ、でも、偶然見るのはいいけど、気が散るからわざと見に来ることはしないで」
「わかってる」
照れを隠すようなネルフェットの声に、トニアは勝手に頬が綻んでいった。ようやく、彼の視界に入れたような気がしたのだ。
トニアはネルフェットのことをしばし観察した後で、彼の結んだ唇の端に見える噛みしめに気づいた。
まだ彼はトニアのことを信用していないのだろう。彼女は彼が用心深いのは王室の人間だからと、その志を受け入れることにした。
庶民のトニアには分からない恐れを理解することはできない。ただ、好んでいることを取り上げられるのも酷だ。ならば彼の天秤を、少しでも楽にしてあげても罰は当たらないだろう。
彼にずっと吟味されているような目で見られるのもいい気分はしない。
トニアは互いのちょうどいい距離感を探ることにした。
「ネルフェット、あなたの秘密を守るのはいいんだけど、なんだか不公平だから、私の秘密も教えるね」
「え?」
「ネルフェットの秘密、ちゃんと話してくれたから、しっかり守ろうって思えた。でも、ネルフェットがまだ信用してなさそうだから、おあいこにしてあげる」
図星だったのだろうか。ネルフェットはぎくりと目を開けて口を堅く閉ざす。
「ソグラツィオの赤いタトゥーの伝説」
「……ああ、前に話した……。あの後調べてみたんだ。確か、運命の赤い糸みたいなやつだよな? 手首に現れた紋様が、運命の人を結ぶっていう」
「そう。対になる紋様が出た者同士が、永遠の愛で結ばれるの。二人は神に祝福されて幸せになれるの。自分たちだけじゃなくて、周りに幸せも運ぶんだよ。ふふ。ロマンチックだと思わない?」
「……ただの伝承だろ?」
「そうだけど……夢があって素敵だなぁって思うの。幼心にときめいちゃった。その気持ちを、まだ忘れられないの」
トニアは柔らかに微笑むと、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「その、運命の紋様をね、私は信じているの。ソグラツィオのお話の中で、一番大好きなんだ。ちょっと、流石に恥ずかしくてもう人には言い難いんだけど……。ばかじゃないのって思われちゃうから」
はにかむトニアをじっと見ていたネルフェットもまた、同調はしてくれなさそうだった。トニアは顔が熱くなっていくのを感じた。
「秘密に、してくれる?」
「……ああ、分かった。これでお互い様、か」
「うん。この方が対等でいいね」
トニアはネルフェットに向かって右手を差し出した。
「約束だよ? 本当に恥ずかしいんだからね?」
念を押すように語気を強めると、ネルフェットが差し出された右手を掴み、握手をする。
「約束する。俺だって自由がかかってるんだ」
古びた屋敷の前で、二人は陽が落ちる前よりもすっきりとした表情で互いの健闘を祈った。
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