10 華の向こう
再びこの場に来ることができるとは。
トニアは爛々とした照明を通り過ぎ、ネルフェットに導かれるままに書庫へとお邪魔する。
以前来たときは案内されなかった部屋で、細長くて他と比べたら狭く感じるものの、天井高くまで本が積まれていて、棚の最上段の本はもはやタイトルが見えなかった。
「たしか……この辺……かな」
ネルフェットは部屋に入るなり、本の数に圧倒されているトニアをよそ目に簡易梯子を手にした。
「ネルフェット、ここにある本、すべて把握しているの?」
「大体はね。ジャンル別に分けてるし。流石に全部読んだわけじゃないけど」
木製の梯子を棚にかけ、彼は上を見据える。
「あ……」
ネルフェットが一段目に足をかけたので、トニアはすかさず梯子の枠を支えようと手を伸ばす。
「うーん……」
彼は梯子を上り、中段よりも上で足を止めた。
がたがたと揺れる不安定な梯子にトニアはハラハラしながらも彼を見上げる。ネルフェットは集中するように本を見渡し、喉を静かに鳴らす。
「ネルフェット、大丈夫?」
あまり下のことを気にせずに神経のすべてを本に向けていたので、トニアはヒヤリとした線が胸に落ちてきた。
「あ、あった」
そんな彼女の不安は届いていないのだろう。ネルフェットは霧が晴れたような声で片手を離した。
隣り合っていた二冊の本を手に取った彼は、そこではたと動きを止める。
「ネルフェット?」
降りてこようとしないネルフェットに対し、トニアは梯子を持つ手に力を入れた。まだグラグラとしている。王宮のものだからこそ年季が入っているのかもしれない。支えてはいても、もしこのタイミングで壊れてしまったらと思うと、彼女は気が気ではなかった。
「あ、悪い」
ようやく彼女の想いが届いたのか、ネルフェットの足は下の段を目指し始める。トニアは彼が空中から戻ろうとする意志があることに安堵した。
危ないから早く降りてきて、なんて指図する度胸はトニアにはなかった。
ピエレットであれば、そんなこともきっと言えてしまうのだろう。梯子が軋む音に、トニアの胸の内は同じように皺が寄っていく。
「ネルフェット、ありがとう」
「ああ」
あと五段でネルフェットは地上に戻ってくる。トニアは先行してお礼を言った。しかし彼が軽やかな声でそれに応えた瞬間、トニアが支えていた梯子がぐらりと大きく揺れた。
「……!」
トニアの心臓は服を突き破ってしまいそうなほどに大胆に飛び上がる。ネルフェットが怪我などしてしまったら、自分のせいになってしまう。
国の王子に危険なことをさせてしまった場合、自分はどういった過失を問われるのだろう。打ち所が悪かったら。もし、後遺症が残ってしまったら。
一瞬にしてトニアの頭は最悪のケースに辿り着く。
責任なんて追いきれない。きっと、命を差し出したとしても、こんな小娘のものでは許してもらえない。
誰かを傷つけてはいけないと、幼いころから教えられてきたトニアはこれまでも大きなトラブルは避けて、穏便に事が済むように努めてきた。
ここにきてこれまでの努力が一瞬にして無駄になってしまうとは。
顔面蒼白したまま必死で梯子を支えると、足を踏み外していたネルフェットがどうにか着地する姿が視界をよぎる。咄嗟のことだったためか、ネルフェットの身体は大きくバランスを崩し、ぐにゃりとしなりを見せながらも足は床を捉えていた。
「ネルフェット……! 大丈夫? 怪我は!?」
切羽詰まった声で叫んだ。ネルフェットは遭難から戻った人間に見せるような表情をしているトニアに目を丸くして、焦ったように首を横に振る。
「大丈夫、大丈夫だから!」
むしろトニアよりも焦燥しているように見えた。自分を上回る慌てぶりを見せる彼に、彼女はふと違和感を覚え、冷静さを取り戻してきた。
「ほら、本」
「……ありがとう」
二冊の本を受け取り、表紙を見つめたトニアを一瞥した後で、ネルフェットは梯子を元の位置に戻そうとする。彼女は顔を上げ、その動きを訝しげな視線で追う。
「返却期限はないから、そこは気にしないでいい」
「……うん」
梯子を戻し終え、息を整えたネルフェットは開いたままの扉に手をかけてトニアを促すような眼差しで見る。
本を抱えた彼女が部屋を出ると、ネルフェットはその後に続いて静かに扉を閉めた。
「門まで送る」
「え、わざわざ悪いよ」
「でも誰かが送らないといけないから」
「わかった……」
王宮を勝手に歩き回ることは確かに不用心で認められない。それも当然のことか。トニアはそう納得し、無愛想なままのネルフェットの少し後ろを歩く。
どうして彼が本を貸してくれたのか、トニアには疑問だった。
前回のピエレットとは違い、今回はネルフェットの方から申し出てくれたのだ。
最初は、トニアが王宮に行くことに抵抗感があるように見えたのに。今度は蔵書まで貸してくれるのだなんて。
悶々としながらも長い廊下を歩いていると、シンプルな花瓶に生けられた黄色と紫の花の後ろに隠れるように飾られている写真が目に入ってきた。
色褪せた写真は注意しなければ気づかないほどにひっそりと息をひそめている。
「……これ」
思わずトニアはネルフェットに声をかけた。
「ネルフェット?」
写真に映っているのは、七、八歳くらいの幼い少年だった。この頃から周りの同年代にはない洗練された雰囲気を纏っているその少年は、全体的に今よりも薄い色合いをしていて、あどけないさまがまさに物語で見るような王子様そのものだった。
柔らかそうな頬を緩ませて、絵画に描かれる天使の如く笑っている彼を見つめるトニアに気づき、ネルフェットは足を止めた。無意識のうち彼の目元は力んだように見える。
「そう」
三歩引き返し、ネルフェットはポケットに手を入れて花の向こうに記録された時を見やる。
「隣の人は……ミハウさん?」
幼きネルフェットの隣には、当時からネルフェットよりも背の高いミハウが穏やかに微笑んでいた。二人とも同じ衣装を着て、クリスマスツリーに飾るオーナメントのような姿をしている。
「ミハウさんは、当時から歌を?」
トニアもその姿を目にした機会がこれまでにもあった。
恐らく二人は合唱団に入っていたのだろう。コンサートの後に撮ったのか、小さな花束を手にしていた。
「そう。ミハウはボーイソプラノの天才って言われてて、音痴だった俺の憧れだった」
ネルフェットは抑揚のない声で答える。
「ネルフェットも、一緒に歌ってたんだね」
「ああ。ミハウの歌声を聞いたとき、この人と一緒なら上手くなれるかなって単純に思ったんだ。それで、声変わりする前までは同じ合唱団にいた。ミハウは声変わりしても、その実力に磨きがかかっただけだけどな」
「そうなんだ。でも、ネルフェットも上達したって、言ってたよね? もう歌わないの?」
「……確かに聞けるようにはなったけど、それよりも楽器の方に気が向いて」
楽しい思い出話をしているはずなのに、ネルフェットの声は浮かないままだった。
「……そっか。ふふ、いつかネルフェットの歌、聞いてみたいな」
「…………ミハウで我慢しとけ」
ネルフェットは朗らかに笑うトニアをちらりと捉え、すぐに俯き加減に視線を外す。
もう一度写真を見たトニアは、二人の後ろにもう一の人物がいることに気がついた。
腕しか写っていないその人は、彼らを称えるように、二人の小さな肩に手を添えている。
手の大きさからも大人だと分かるが、二人のリラックスした表情からも、親しい人間なのだろう。
「トニア、暗くなる前に帰るぞ」
「あ、うん。ごめん」
フイっと顔を逸らしたネルフェットが、ずんずんと歩き出す。写真から垣間見えた過去のネルフェットを置き去りにしたまま、トニアは彼を急いで追いかけた。
廊下を突き進む二人の背後では、潜めていた呼吸に紛れてカラカラとした仕掛けおもちゃのような音が壁の向こうへと消えていった。
「ねぇネルフェット、聞いてもいい?」
「何?」
建物を出たところで、暗がりに勇気を隠したトニアをネルフェットが上半身ごと振り返る。
「本、本当に借りてもいいの?」
「いいから渡したんだけど……あ、もしかして余計なお世話だった?」
ネルフェットはトニアの言いたいことが分からないのか眉をひそめた。
「ううん……! すごく嬉しい。でも、あの、どうして、わざわざ……?」
自分たちは友だちだと言えるのだろうか。トニアは二人の関係に当たり前の親切が存在するのかまだ疑っている。半ば強引とはいえ王宮に招いてくれたり、勉強を手助けしてくれたり、ここのところ彼の好意に甘えてばかりいるような気がしていた。
彼は王子だ。他者には優しくする信念でも教え込まれているのかもしれない。それでもあまりにも受け取るばかりで、トニアの器はそろそろ溢れてしまいそうだ。
「トニア、赤いガーベラみたいだから」
「……は?」
瞬きをして、トニアはポカンと口を開ける。
王族特有の表現なのだろうか。トニアの思考は突然出てきた彼の詩歌についていけなかった。
「建築のこと、好きなんだろ? なら、全力で学べばいい」
「あ……そういう……。うん。ありがとう」
恥ずかしげもなく、むしろ理解できなかったトニアの方が異常な反応をしていると思わせるほどに渋い顔をしたネルフェットは、上半身を前に戻した。
「……勉強熱心、てことだよね」
ぼそぼそと独り言を呟き自分を納得させたトニアは、歩幅の大きい彼より少し遅れて歩いていく。
きっと、王宮や空っぽの屋敷に夢中になっていた自分を見て、ネルフェットはほんの少しでも理解を示してくれたのだとトニアは解釈した。
もしかしたら単純に、異国に来て四苦八苦しながら勉強している自分を憐れんだのかもしれない。
それが彼なりの優しさだとしたら。
先ほど見たあどけない写真を思い返し、トニアの胸はまたつっかえてしまう。
彼も昔から音楽に対して真摯に向き合ってきたようだ。リズム感を克服したいと言っていたが、その動機はともかくとして、今でもその熱意は変わっていない。
ひょっとしたらそれは、トニアが建築に向けているものと同じなのではないだろうか。
(全力で……、か)
鞄に増した二冊分の重みに後ろ髪を引かれながら、トニアは早足で彼の隣に並んだ。
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