4 おぼつかない足
カフェテリアで熱心な表情をして藍色の表紙の本を読みこんでいるトニアの前に、髪を高い位置で一つに結んだピエレットが手を振って現れる。
「ごめんね、お待たせしちゃった」
「ううん。全然。これを読んでいたから、時間が過ぎたのに気づかなった」
申し訳なさそうな顔をしているピエレットに、トニアは本を閉じてにこりと笑う。
とんとんと叩いた本の表紙には、ソグラツィオの言葉で『ソグラツィオ これまでとこれからの文化』と書かれている。ピエレットはそれを見るなりうずうずと湧き上がる心を抑えることもなく瞳をギラリと揺らめかせた。
「何、トニア。文化について知りたいのなら、わたしに聞いてよっ」
大漁で帰還した漁師のように、ピエレットは声を弾ませて隣に座る。
「文化学者であり研究者のわたしという教科書がいるじゃないの」
「ははは。そうだね。確かに。でも、読む勉強にもなるから」
トニアはそう言いながらも内心チクリと心を痛めた。
ピエレットがソグラツィオの文化や歴史について熟知しているのは知っている。ただ彼女が得意としているのは主に古代に関することで、特に現代にいたるまで言い伝えられ、かつて存在したと言われている魔法についての研究であり、今、トニアが知りたいこととは少し違っていた。
トニアは図書館で借りた本を鞄にしまいながら友人に対する罪悪感を鎮める。
この本を借りたのは、トニアがソグラツィオの文化や風習に興味があるだけではなく、ネルフェットの秘密について何か手掛かりがないかを調べたかったのだ。
本に書いてあるとは限らないとはいえ、彼は王室の人間なのだから、特別なしきたりがあるのではないかと推測したのだ。
しかしトニアが閉じた本には特にそんな記述はなく、幾度となく歴史の授業で習った過去の同盟国であるマニトーアとの悲劇の話が書いてあるだけだった。
トニアが知ることのない時代。マニトーアとソグラツィオの関係は友好で、どの近隣国よりも固い絆と信頼で結ばれ、互いに助け合いながら繁栄を極めてきた。
順調に多くの国が栄えていく中、それぞれの欲望が頂点に達した時、世界はとある手段を取る。トニアもあまり好きな話ではない、人々の戦いだ。
当然、マニトーアとソグラツィオは同盟関係を結び、どうにか厳しい時代に手を取り合って生き延びてきた。だがある時、マニトーアがソグラツィオを裏切る話をきっかけに、この二国の関係は悪化した。
仲違いをしてからというもの、互いに独自の進歩を遂げ、マニトーアは芸術に特化した観光国へ。そしてソグラツィオは貿易や外交を積極的に行い、優秀な研究者などを集め、強固な国家を築いていった。国も安定し、世界情勢が落ち着いていく中、断絶されていた関係も次第に緩和してきたと言われている。
マニトーアにとってソグラツィオは堅物で、厳格な真面目国家という印象はあるとはいえ、今、国民の中でソグラツィオのことを敵視している人はほとんどいないだろう。
またソグラツィオにとってもマニトーアのエンターテインメントは特に若者の間でちらほらと話題になり、影響を与えることもあり、こちらも友好的に見ていることが多い。
そのため、この二国は世界的に見ても同盟国ではないが敵国でもない、普通の関係を保っているように見える。
トニアがそうであるように、過去起きた悲劇は当然悲しむべきものではあるものの、教訓の一つとして捉えている者が大多数だからだろう。トニアもソグラツィオには幼いころから親しみを抱いていて、ソグラツィオの緻密に計算された建築物を写真で見る度に、必ず訪れてみたいと考えていたものだ。
そしてついに留学を実現させ、大好きな分野の勉強に没頭する日々を送っている。ここまでは確かにトニアが思い描いていた目標だった。あとは資格を取り、この先の永い未来を見守る建物をつくる夢に向かって走るだけ。
だからこそ、ネルフェットとの出会いは彼女にとって大問題だ。
トニアは興味のあることにはとことんのめり込める性格だが、面倒なことにはあまり関わりたくないという本音を自覚している。そんな彼女にとって、ネルフェットとの歪な関係は一刻も早く解消したいものだった。
そのヒントを得たかったのに。
トニアはがっかりとしてため息を吐き、ピエレットに続いてカフェテリアを出る。
今日はピエレットが提案した通り、王宮の見学に行く日だ。
ネルフェットに会うのは憂鬱なトニアも、王宮を間近で見るという興奮にはどうしても勝てない。
トニアはそんな単純な自分を軽蔑するように足元に目を向け、少し汚れてきた革靴をやるせない瞳で睨みつけた。
王宮までは通いなれているピエレットの案内で向かう。
ピエレットは普段自転車に乗っていると言うが、今日はトラムに乗ってその場所を目指す。
空いていた席に座った二人の目的地に着くまでの話題は、いつの間にかネルフェットに関するものへとなっていた。一応、今日はネルフェットがトニアを招いたという建前になっている。王宮には普段、部外者は招待がない限りは入れないからだ。
「トニアとネルフェットって、どこで出会ったの?」
ピエレットは当然の疑問を口にする。
留学生で自分と親しいトニアが、いつの間にか自分の上司に会っていたのだから、ピエレットにとってはまさに寝耳に水だったことだろう。
「学院で……だよ。廊下でね、偶然、ぶつかって……」
実際にあの広い廊下でぶつかる人間などいないだろう。トニアは無理があるとは思いながらもどうにか話を創作する。
「そっか。ネルフェット、周り見てないときあるもんね」
意外にもピエレットは納得してくれた。彼のことを知っているからこその腑の落ちた表情に、トニアは若干ネルフェットに同情した。ピエレットのように近しい存在しか知らない側面もあるのだろう。
「でも、びっくりした……。ネルフェットが、同じ学校に通ってたって」
「ふふ。留学してきた人はそう思うかもね。ネルフェット、結構負けず嫌いというか、完璧主義者っていうかさ……気にしてるんだよね」
「気にする……? 何を?」
ピエレットは王室のないマニトーアから来たトニアがピンと来ていない様子を見て優しく微笑みかける。
「国のことを、よーく知っていないと駄目だって言って、みんなのことすごく気にしてるんだよ」
「……へぇ」
自分にとってのネルフェットの印象とは少し異なり、トニアの興味がほんのりと色づく。
「だからその一環として、うちの学院に通ってるの。通ってるっていっても、コースを取ってるわけじゃなくて、庶民の視察っていうの? なんか、同じ目線で学びを得たいんだってさ」
「…………真面目、なんだね」
「うーん。真面目、かなぁ?」
ピエレットはネルフェットのことを頭に浮かべているのか、その表情には疑問符が浮かぶ。
「まぁとにかく。いつもいつも忙しい国王たちに代わって、ネルフェットが世間に顔を出す機会も多いし、皆との交流を大事にしてるんだってさ。ちゃんと聞いたことはないけど、確かそんな感じ。うちの学院は、年齢とか立場とか関係なく、試験に受かれば誰でも通えるでしょう? コースも多いし。いろんな人がいる。だからちょうどいいんだってさ」
「……そうなんだ」
「毎日来てるわけじゃないから、会ったことない人も多いんじゃないかなぁ。トニアはツイてるね」
「…………ははは」
確かに一般的にはそう思える出来事かもしれない。マニトーアに戻ったら、絶対に自慢できるはずなのに。トニアも単純にロイヤルな邂逅に胸を躍らせたかった。
「でも、王太子なのに、どうしてあんなに無防備なの?」
「え?」
ふとした問いに、ピエレットはきょとんとした目をする。また、風習が違っただろうか。トニアは彼女の回答を待つ。
「それね。わたしもちょっと不思議なんだ」
違う。風習が違ったわけではなさそうだ。
トニアはピエレットの苦虫を潰したような顔にほっと息を吐く。
「ネルフェット、一応要人でしょう? それなのに、まったく護衛を付けていないの。いや、護衛はいるんだろうけどさ……、学院でも全然連れてこようとしなくて。式典とか、イベントの時はさすがに付けてるけど……」
ピエレットはトニアの耳に口を寄せ、秘め事を囁くように声を落とす。
「噂では、ネルフェットに危害を加えようとすると、見えない何かに妨害されるんだって」
「……は?」
「例えば透明な壁に遮られたり、強風に飛ばされたり、強烈な腹痛に襲われたり……。彼に悪意がある者は、近づくことすらできないし、遠くからの攻撃だって返り討ちにあうっていう話」
「なにそれ……?」
ピエレットが怖がるあの屋敷の幽霊の話よりもよっぽど肝の冷える話だった。トニアは夢物語のような噂がにわかに信じられず、くすっと笑い声を漏らす。
「わたしもね、そういう噂を流してネルフェットに近づけないようにしてるんだと思ってたんだけど……でも、なんか、本当かもしれない」
「えぇ? どうして? ピエレット、見たの?」
「ううん。見たことはない。だけどあまりにも不用心だから。ネルフェット、そういうことはちゃんと気にしてるはずなのに。そう思うと、あながち脅しじゃないのかもって思っただけ。それにさ、面白いと思わない? もし本当だったら、まさにわたしたちが研究してる言い伝えにある話みたいだし」
ピエレットは猫のように瞳孔を開いてニヤリと笑う。
「そう思ってた方がロマンがあるなって思って。信じることにした」
文化研究者らしいことを言ったピエレットが満足そうに言い切ったところで、トラムが目的地で停止した。
トラムを降り、十五分ほど歩いていくと、目の前には突如として厳かな建物が姿を現す。長年国を見てきたのであろう垢抜けた佇まいにトニアは圧倒された。
エメラルドグリーンの屋根はどこまでも広がり、白に近いクリーム色の壁には数えるのを諦めるほどの窓が見える。所々にあるレリーフは、権力を見せびらかすいやらしさの欠片もないほどに洗練されていた。
まだ門を越えていないので、その全貌は見えないが、明らかにその周りだけ流れている空気が違った。
マニトーアにある古い宮殿に比べると控えめなものの、それでも十分に豪華な造りをしている。どうにか外界から隔離を試みたような高すぎない壁の門を通ると、広大な庭がトニアたちを出迎えた。
「……すごい」
思わず感嘆の声がこぼれる。
トニアの感激を横目で感じ取ったピエレットは、少し誇らしげに頬を綻ばせる。
門番に声をかけるピエレットは、宮殿を真っ直ぐに見上げてそのまま駆け出してしまいそうなトニアの腕を掴み、自身の身分の証明とトニアのパスポートの現物を無表情のままの男性に提示した。
男性がこくりと頷くと、ピエレットはトニアがどこかへ行ってしまわないようにしっかりと手を繋いだまま宮殿の裏側を目指す。
「正面から入らないの?」
屋根が描く見事な曲線に惚れ惚れとしながら、トニアはピエレットの歩幅に合わせようと大股で歩く。
「わたしの研究所は離れにあるから。その前でネルフェットと合流予定」
「そっか」
ピエレットの揺れる髪の毛をちらりと見たトニアは、曲がり角で見えた愛らしい壁に見惚れ、注意力散漫なまま彼女のあとをついて行った。
カメラを持ってきていたトニアは、フィルムが足りるのかが心配になり、ふと真顔に戻る。するとピエレットの足が突然止まり、トニアは戻した意識で急ブレーキをかけた。
「……本当に来た」
トニアより少し背の高いピエレットの後頭部から前を覗き込むと、離宮前の小庭のベンチにネルフェットが足を組んで座っていた。餌をあげていたようで、その足元には丸々とした小鳥たちが数羽跳ねまわっている。トニアたちのことを見て、ネルフェットの硬い表情の上で目が丸く開く。
「時間通りでしょう?」
ピエレットは腕時計を見せつけ、得意げに笑う。
「…………いらっしゃい」
ネルフェットはピエレットの笑顔をもの言いたげな様子で数秒見つめた後、彼女の後ろにいるトニアに声をかけた。
「お邪魔します……」
そう言いながらも、トニアは鞄にしまったカメラに手をかける。
ネルフェット越しに見える離宮は、本殿とは違った様式で造られている。彼女は異なる趣をした薄い赤色の建物に目が釘付けのようだ。マニトーアでもあまり見ることのできないものだった。
「…………撮っていいよ」
トニアの意識が背後に向かっていることに気づいたネルフェットは、ベンチから立ち上がり離宮全体が見やすいようにトニアの視界から外れた。
「ありがとう……!」
ネルフェットの気遣いにトニアは勢いよくお辞儀をし、ピエレットの前に駆け出してカメラを構える。
「本当に好きなんだねぇ」
ピエレットは微笑ましそうにそう呟き、隣に並んだネルフェットはトニアの後ろ姿からも伝わる興奮についていけないように首を傾げた。
「……ピエレット、トニアって、どんな子?」
独り言のようにぼそっと声を出したネルフェットに、ピエレットは腕を組んで爽やかに笑う。
「ガーベラみたいな子かな」
「……はぁ?」
ネルフェットは、くすくすと笑っているピエレットの真意を探ろうと顔をしかめた。
「ネルフェット、もしかして警戒してるの?」
「……な、何を」
「ふふ。別にトニアは噛みついてきたりなんてしないよ」
「なっ……! そ、そんなこと、わ、分かってる……!」
ピエレットがネルフェットの顔をまじまじと見ると、彼はどぎまぎとした様子を隠そうとフイっと顔を逸らして真っ直ぐに前を見る。動揺は隠しきれておらず、痛いところを突かれたのは明白だった。
「国民以外にも、興味持ってみたらどう?」
「……うるさい」
自分を茶化すようなピエレットに対し、ネルフェットはどうにか表情を取り繕って冷静な雰囲気を取り戻そうと試みた。彼がそんな努力をしているうちに、トニアがカメラを抱きしめながら満足そうな表情で振り返る。ピエレットは困惑しているネルフェットの腕を小突く。宮殿に案内しろと言っているようだった。
「写真撮れたんだな? じゃあ今度は内装でも見ればいい」
コホンと声を整えたネルフェットは、愛想のない声でトニアの表情を窺った。トニアは色のない彼の許しにコクコクと頷き、ほんのり色づいた頬を緩ませた。
「…………じゃ、こっち」
真っ直ぐなトニアの眼差しに、これまで地に足のついていたネルフェットの声が浮き上がる。トニアはピエレットの手招きに従って裏の入り口から宮殿内に小走りで入っていく。そのテラコッタの流れる髪の毛を、ネルフェットはぼやけた瞳で追いかけた。
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