5 はじめての音
宮殿の中に入ると、トニアはこれまで博物館や美術館くらいでしか体験したことがない天井の高さに首を痛めるほどに視線を上げる。
外観に比べると、内装は想定したものよりも派手なものだった。豪華絢爛なシャンデリアが広間にぶら下がり、その隣の小部屋には読み切るのに大層な時間がかかりそうな本の山が見えた。
トニアはネルフェットとピエレットに案内されるままにシャッターを切り続け、丁寧に解説してくれる二人の言葉を急いでメモした。
いくつかの部屋を見た後で廊下を歩いていると、空いている扉の隙間から鍵盤楽器のような音が聞こえてきた。トニアが知っているマニトーアの鍵盤楽器とはまた違う音で、よく耳にしたものよりも音域が広く、トニアは耳慣れない音に思わず足を止める。
前を歩いていたピエレットとネルフェットが、扉の前でメモを片手に立ち止まったままのトニアに気づき、顔を見合わせて振り返った。
「おい」
以前聞いたのと同じネルフェットの嫌気な声に、トニアは目が覚めたように肩を上げる。
「どうした?」
「……あ、えっと」
つかつかと目の前に来たネルフェットが射るような眼差しで見下ろしてきたので、トニアは手に持っていたメモが湿っていくのが分かった。
やはり彼に音楽はタブーなのだろうか。
ピエレットの言った通り、確かに王宮では音楽は問題なさそうだ。となると、やはりあの約束はネルフェット個人の問題ということなのか。
トニアはぐっと唇を噛み、ここぞとばかりにネルフェットに顔を近づけて出し得る限りの気迫を纏ってみる。
「……?」
しかしトニアのなけなしの圧はネルフェットには無力で、彼はトニアが急に表情を変えたことに不思議そうな顔をするだけだった。
トニアはぐっとメモを握りしめ、溜まっていた疑問と不満をエネルギー源にネルフェットに向かって声を上げる。
「とっても綺麗な音ですね! はじめて聞きました! あ、もしかしてこれが、ソグラツィオで生まれたという鍵盤楽器の音でしょうかね? ネルフェット、音楽のこと、詳しそうですし、教えてください」
嫌味を込めて放った言葉に、ネルフェットはトニアの予想以上にダメージを食らったようで、わたわたと目は泳ぎ、額に汗も覗いてきた。
「あ、やっぱり、トニアは音楽が好き? 気になる?」
動揺で何も言えないネルフェットを差し置き、ピエレットが背中で手を組んで鼻歌交じりに近づいてくる。
「トニア!」
そこで雷のようにぴしゃりとネルフェットの声が割って入る。
「……ネルフェット、どしたの?」
ネルフェットの突然の大声は廊下に響き渡り、ピエレットはビリビリと全身を震わせた後で彼のことを気遣うように見た。まるで不審者を見るような眼差しだった。
「……敬語、敬語が、出てる。敬語禁止」
ピエレットの冷たい視線に我に返ったのか、ネルフェットは声を落として弱弱しくそう続けた。
本当にネルフェットが言いたかったことはそれではないと察しているトニアは、むっと頬を軽く膨らませて上目遣いでネルフェットを疎ましそうに見た。
先程とは違い、今度はその視線に怯んだようだ。ネルフェットは気まずそうに口を結んだ。
無言の訴えに狼狽える暇もなく、三人の目の前にある開きかけの扉がゆっくりと動いた。
静かな扉の軋む音に、三人の間には妙な緊張感が走る。
「……うるさいぞ、ピエレット、……ネルフェット」
扉の向こうから現れたのは、背の高い、ふんわりとしたホワイトブロンドベージュの髪を艶めかせた青年だった。白いシャツに白いベストを着用し、しっかりとネクタイを締めている。
垂れ気味の目元にも関わらず、三人を見る眼光は鋭く、灰色の瞳が子どもたちを窘めるように動いた。
「……ご、ごめんなさい。ミハウさん」
ピエレットは彼と目が合うなり、しゅんと小さくなってすぐさま謝った。ネルフェットも彼と目が合うと、申し訳ないと言いたいように眉を下げる。
「ん? ……あなたは……?」
トニアの顔を見たミハウ・カンテレラは、ほんの僅かに目元をやわらげ、小首を傾げた。
「あ、私は、トニアといいます。ピエレットたちの、友だち、です」
ミハウはトニアがぺこりとお辞儀をすると、もう一度ネルフェットとピエレットを見やる。二人は同時に頷いてトニアの主張を肯定した。
「そうか。私はミハウ。ここで宮廷声楽家をしている。ようは、王室専門の歌手だ。よろしくな」
「声楽家、ですか……! きっと素敵な歌声なんでしょうね!」
トニアは純粋に瞳を輝かせてミハウの静かな表情を見上げる。
「それはトニアが聞いて、判断してくれればいい」
整った唇が弧を描くと、先ほどまでの緊張感はどこかへと飛んでいったように、廊下には穏やかな空気が流れ始めた。
ミハウが説明を促すようにピエレットを見ると、ピエレットはトニアが建築を学んでいること、そして今日は宮殿を見学しに来たことを話した。
「あの、先ほどの楽器、ミハウさんが演奏されていたのですか?」
話が終わると、トニアがうずうずとした様子で尋ねる。
「ああ。そうだ。私は専門家ではないが、歌の練習に」
「そうなんですね。あの、私、初めて見ました、あれ、なんていう名前なんですか?」
トニアは扉の向こうに置いてある大きな鍵盤楽器を覗き込む。
三日月のような形をしていて、鍵盤が螺旋を描くように何段かに連なって配置されている楽器だった。
「……ピアストエ」
ミハウはそう答えながらも、ネルフェットを見て眉間に皺を寄せた。
「トニアは、マニトーアから留学してるんだ。ソグラツィオ特有の楽器には馴染みがないだろう」
ミハウの疑問を解消するために、ネルフェットがミハウの視線から逃げるように頭を掻きながら補足する。
「なるほど……マニトーアからか。なら、あまり目にすることはないだろうな」
「はい。すごく大きいんですね。ピアノとはまた違いますね」
「……そうだな」
トニアの弾んだ声に、ミハウはこくりと頷いた。
「トニア、もう満足したか? 次、行くぞ」
「うん。ミハウさん、お邪魔してすみませんでした」
「いや、構わない。ゆっくりしていって」
ミハウは穏やかな声で微笑むと、ドアに手をかけて部屋へと戻ろうとした。しかし、その足は一歩動いただけで止まってしまった。
ミハウの挨拶を聞いて背を向けたネルフェットもまた、その足を止めていた。
動きを止めた二人の耳には、コツコツと廊下に響くヒールの音が届く。ミハウはその音の方向を見やり、ネルフェットはぐっとこぶしを握る。
「ネルフェット王子。お客様が来ているなら、紹介してくださいな」
もったいぶるような口調ははっきりと、それでいて妖艶な香りを纏った声が廊下の向こうから聞こえてくる。トニアは声の主を見ようと、ネルフェットの前で止まった人物をそっと観察した。
誰もが羨むようなブリュネットの髪の毛は、前髪の一部が美しい曲線を内側に描いて、他の髪はサイドミニヨンにまとめられている。スラリとしたマーメイドのようなシルエットの彼女は、黄味色の強い黒眼でネルフェットにはんなりと微笑みかけた。
「すみません。今日は外に出ているのかと……」
ネルフェットは畏まった声で淡々と答える。
「まぁ、気を遣ってくれたわけね? 王子はお優しいのね」
女性は、ネルフェットの後ろに見えるトニアたちのことを眺めると、目を細めた。
「ミハウ、あなたは練習に戻りなさい。ピエレット、は、何をしているのかしら?」
「友人を、王宮に招いておりました。ネルフェット王子は優しいので、快く許諾していただきました」
「ふふふ。当たり前でしょう。誰が面倒を見てきたと思っているの?」
「リリオラ様、貴方です」
ピエレットがちょこん、と礼をすると、リリオラ・フェイマスは誇らしげに笑い声をあげた。
「そうね。ネルフェットが許したのなら仕方のないことだわ」
リリオラに狙いを定められたトニアは、その冷酷な瞳にごくりとつばを飲み込む。
「ネルフェットの新しいお友だちかしら? どうぞよろしくね」
「はい。トニアと申します。まに……」
「リリオラ! 初対面の彼女を委縮させないでくれ」
しっかりとお辞儀をして自己紹介をするトニアの言葉を、ネルフェットが遮った。トニアは不自然な介入に眉をひそめ、ネルフェットのことを怪訝な表情で見る。
「まぁネルフェット。言いがかりはやめて頂戴。圧なんてかけていないわ。……それじゃあ、挨拶もできたことだから、私は仕事に戻るわね」
「ああ、よろしく頼む」
舐めるような目でトニアを見つめた後で、リリオラは来た道を戻っていった。ミハウは無言で部屋の扉を閉め、残された三人は気を取り直して廊下を進む。
先陣を切るネルフェットの後ろを歩きながら、トニアは晴れない心をどうにか顔に出さないように努めた。
自己紹介すら満足にさせないネルフェットの態度。
トニアは、ふつふつと胸の奥で泡が弾けては溶けていく感覚を覚える。
(私、ネルフェットに何かした……?)
まだ日は浅いとはいえ、ちゃんと秘密は守っているのに。
ネルフェットに対するトニアの印象は、次第に「鼻持ちならない人」へと変わっていった。
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