3 隣の監視員

「おい、何を話してるんだ?」


 不機嫌そうな声に、怪訝な表情。トニアは涼しい目で自分を睨みつけてくるネルフェットと目が合い、ぞわぞわと背筋を凍らせた。


「ネルフェット? あれ、トニアと知り合い?」


 トニアのことを執拗に見ているネルフェットの横顔に向かってピエレットがきょとんとした声をかける。


「ああ。そうだ」


 ネルフェットはトニアから目を離そうとしないまま彼女の問いに答えた。

 じりじりと釘のような視線を浴び続けているトニアは、あまりの気まずさに目を逸らす。それでもまだ、隣からは監視カメラのような鋭い気配が消えてくれない。


「ぴ、ピエレットは、ネルフェット……と、知り合い、だよね?」

「うん。そうだよ。前に話したけど、王室付けの研究所で新米研究者やってるからね」


 トニアの痺れるような緊張感に気がついていないピエレットは頬杖をついてにっこりと笑って返す。

 まだ隣の監視員はトニアのことを警戒したままだ。ピエレットにネルフェットが演奏していたことを話すつもりはなかった。しかしネルフェットはそうは思わないだろう。どこから話を聞いていたのかは分からないが、トニアが音楽の話を始めたことは気づいているはずだ。トニアは恐る恐るネルフェットの方を見る。


「…………二人は、友だちだったのか」


 再び目が合ったネルフェットは、トニアの怯えた瞳を見るなり硬い声を少しトーンダウンさせた。

 トニアが小さく頷くと、彼はようやくトニアから視線を離し、ピエレットの方を向く。途中、トニアの大きすぎる鞄が目に入り、微かに眉をひそめた。


「そう。トニアが留学してきてからずっと。コースは違うけどね」

「建築、だったか?」

「……はい」


 確認するように尋ねてきたネルフェットに対し、トニアはまた小さく頷いた。

 ピエレットは普通にしているとはいえ、彼はこの国の王太子だ。ソグラツィオの国民と彼の距離感についてはまだ掴めてはいない。確実に言えることは、少なくともトニアにとっては異世界のような存在だということだ。

 マニトーアには王族はいない。いや、いたとしてもこうやって話す機会などないだろう。

 それなのに、異国の地で隣にその国の王族が平然と座っている状況はいかがなものだろうか。慣れない空気に、トニアは震える指先を隠すために机の下でぎゅっと両手を握る。


「トニア、すごい勉強熱心なんだよ。ネルフェットも見習いなよ」


 友人のピエレットはネルフェットと親しいようだった。トニアはいつもと変わらないどころか少し砕けた様子のピエレットに尊敬の眼差しを送る。彼女のように堂々と出来るものならしたかった。

 けれど、やはり昨日の秘密が気になって、下手に声を出すことはできなかった。絶対に破るつもりはないとはいえ、焦ると何を言いだすのか分からないものだ。


「余計なお世話だ、ピエレット」


 ネルフェットは呆れたように答えると、俯いたままのトニアをちらりと見やる。


「トニア」

「は、はい……!」


 静電気が走ったかのように、トニアはピンッと背筋を伸ばす。


「建築の勉強、楽しいのか?」

「は、はい! もちろんです! 都会的でスタイリッシュな街並みだけではなく、旧市街にも興味深い建物がいっっっっぱいありますから! マニトーアとはまた違ったスタイルが見れて、すごく刺激になります! あ! 例えばなんですけど……住宅ひとつにとってみても、寒い冬のマイナス何十度から夏の暑い三十度まで、寒暖差がものすごく激しいのに気密性と断熱性が優れていますよね! それに、シンプルなのに魅力的なデザインが得意ですし、着飾らなくても威厳というものが伝わってきて、すごくお洒落です!」


 堰を切ったように話し出したトニアに、ピエレットは嬉しそうに微笑みかける。一方のネルフェットは、その勢いに思わず唇の力が抜け、ぽかんとした様子でトニアを見ていた。先ほどまでトニアのことを警戒していた人間とは別人のように気の抜けた顔をしていたが、トニアは無防備なその表情にハッと息を止めた。


「ご、ごめんなさい……! そんなこと、聞いてないですよね」


 慌てて頭を下げ、恥ずかしさで耳を赤くした。


「いや……楽しんでいるのなら、良かった……と、思う」


 トニアが顔を上げると、ネルフェットは気まずそうに笑っていた。呆れられたのだと思っていたトニアは、形だけでも垣間見えたネルフェットの笑い顔に僅かに緊張が緩んでいった。

 とはいえまだネルフェットの顔は浮かないままだ。トニアはまた彼から目を逸らし、隙間風が吹いているような二人のやり取りに肩を落とした。


「ね? トニア、勉強熱心でしょう? あ、そうそう。本当は昨日もね、空っぽの屋敷を見学するはずだったんだよね」

「……ぴ、ピエレット!」


 不意を突いたようなピエレットの悪気などはない振りに、トニアは異常に反応してしまった。

ピエレットは過剰な反応にそこまで驚いた様子ではなかったものの、トニアは隣から来る棘のような注目にたらりと冷や汗をかいた。


「で、でも、行けなかったの……! ざ、残念でした。あの……前に行っていた語学学校に呼ばれて……」

「そうだったんだねぇ」


 トニアの咄嗟の理由付けに、ピエレットは納得したように身体を揺らした。


「残念だったな」


 隣のネルフェットは、冷静な声でそう返してきた。トニアは彼を上目で見ると、どうにか笑顔を取り繕った。

 心臓が飛び出るほど反応してしまった自分とは違い落ち着いた様子のネルフェットに対し、トニアはほんの僅かなモヤモヤを感じた。

 何故、自分がこんなに神経をすり減らされなければいけないのだろう。自意識過剰なだけかもしれない。それでも、理由も分からずに彼の秘密を守ることへの意義を見失っていた。


 ネルフェットのことはマニトーアにいるころから報道を通じて知っていた。多忙な国王たちに代わり、王子であるネルフェットが国民の前に顔を出すことが多いからだ。

 メディアを通じて知っていた彼の姿と、目の前にいる彼の姿。そして、昨日見たネルフェットの表情。

 そのどれもが同じに見えないトニアは、ここぞとばかりに彼の横顔を食い入るように観察する。ピエレットと他愛のない話をしている彼は、周りにいる他の学生とも何ら変わりのない、強いて言えば見かけが整っているだけの青年だ。もちろん、常に纏っているどことなく余裕のある空気は彼だけの特権でもあった。

 報道で見るときの彼は、それをさらに洗練させた理想の王族といった様子で国民たちに笑顔を振りまいている。まだ若いけれど、彼は国の未来を照らしてくれる頼もしい光を目に宿していた。


 そして昨日の彼は、どちらの彼とも違った。

 夕陽に照らされしっかりと見ることはできなかった。それでも、柔らかなあの表情は見間違えようがない。

 例え奏でた音が不格好でもそんなことは気にもせず、正面から音と向き合っていた。

 陽に透けてしまいそうなのに、決して消えさることのない彼の信念が見えたような気がしたのだ。

 それをどうして隠すのか、トニアにはさっぱり分からない。あんなに素直な音を響かせていたのに。


「ねぇ、トニア、どう?」

「……え?」


 ぼうっとしていたトニアの瞳に、いつの間にかこちらを見ていたネルフェットの顰め面が映る。

 慌ててピエレットの方を見るトニアは、自分の返事を待っているのか、じーっと目を細める彼女に向かって首を傾げてみせる。


「もう、聞いてなかったの? 今度、一緒に王宮に行こうよ」

「え? 王宮に? どうして?」

「ほら、王宮って、これでもかってくらい技術を取り入れているでしょう? だから、トニア興味あるかなって」


 思ってもみなかった提案に、トニアの瞳は徐々に輝きだす。


「ネルフェットが来てもいいよって」

「……ピエレットが勝手に言ってるだけだろ」


 ネルフェットはため息を吐いてピエレットのことを恨めしそうに見た。

 ピエレットが働いているのは王宮にある研究室だ。だからこそ彼女は、ここぞとばかりにこの提案をしたのだ。ネルフェットとトニアの歪な約束のことも知らないピエレットの善意に、トニアは胸が喜びで溢れてくる。


「あの……いいんですか?」


 トニアとしてはもう行く気満々だった。普段は入れない王宮に行ける、またとない機会だ。留学生のトニアは、期間内に最大限に学びを得るためには多少の図々しさも必要だということに最近気づいてきたところだった。


「…………いいよ」


 トニアの期待に満ちた表情に負けたネルフェットは、渋々承諾するなり額に手を当ててすぐさまその答えを反省していた。


「ありがとうございます! とても光栄です!」


 ピエレットとともに喜ぶトニアは今、ネルフェットに対する疑念も何もかも忘れていた。

 無邪気な笑顔で嬉しそうにしている彼女を横目で見たネルフェットは、数秒天井を見つめ、何かを考えた。そして。


「トニア」

「はい? なんですか?」

「敬語、やめて」

「……え、でも……」

「いいから。ピエレットもそうだろ?」

「でも、それは彼女が王宮で……」


 まだ距離感を掴みかねているトニアが食い下がろうとすると、ネルフェットがずいっと顔を寄せて睨みつけた。


「……わかった」


 その気迫に何も言えなくなったトニアは、どうにか声を出して頷いた。


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