2 石畳を駆ける

 資料を詰め込みいっぱいになった大きな鞄を肩から下げ、息を切らしてカラフルな縦長の建物が並ぶ広場を抜ける。人間が一人通るのが精一杯な細道の階段を駆け下り、不揃いな足音を立てて大通りへと出た。

 突然多くの人が行き交う道へと飛び出してきたテラコッタの髪は勢い余って大柄のスーツを着た男性にぶつかり慌てて頭を下げる。


「すっ、スミマセンっ!」


 咄嗟に出てきた言葉は舌を噛んだように拙かったが、男性は被っていた帽子をあげて会釈をした。


「しつれい、しました」


 もう一度頭を下げたテラコッタの髪の毛は肩の位置よりも下に長く真っ直ぐに伸びていて、軽く跳ねた毛先が、彼女の時間に余裕がないことを表しているようだった。

 ねじった前髪を額の上にピンで留めているせいか、彼女の慌てた表情がよく見てとれる。

 彼女はそのまま人の間を縫うようにして急いで目的地へと向かう。

 途中、腕時計にちらりと目を向ければ、長針はもう頂点を目指そうとしているところだった。


「遅刻……!」


 顔面を青くさせたトニアは、眉と瞳を歪ませて持てる力を振り絞って門を通り抜ける。周りの学生たちは、そんなトニアの必死な姿には目もくれず、優雅に友人たちと会話を続けていた。

 一人だけ違う時間を生きるように、トニアは白いクラシズムな建物の階段を駆け上がった。

 トニアが教室に着くのと同時に、校内に鐘が鳴り響く。席についたトニアは背もたれに体を預けて天井を仰ぎ見る。瞼を閉じ、呼吸を繰り返してどうにか乱れた息を整えた。

 空気を飲み込むと、乾いたような味が喉を通る。

 床に放り投げるようにして置いた鞄のチャックは十センチほど開いており、隙間からは紙の束が見え隠れした。


「トニア、今日先生遅刻だって」

「……はっ!?」


 ぜぇぜぇと肩で息を吸っていたトニアは、思わずそれをすべて吐き出し左を向いた。


「頑張って走ってきたのにねぇ。お疲れさまでした」


 おもちゃのように目を丸くしているトニアを見てくすくすと笑い声を上げるのは、彼女の友人であるピエレット・トルシェ。ライトベージュの髪の毛は無造作のゆるいウェーブを描き、緩んだ目元は澄んだ空のようにトニアのことを包み込む。


「なんだぁ……焦って損したのかな……」


 机にへばりつくように倒れ込んだトニアは魂の抜けるような声を出した。


「そんなことないって。いい心がけ! それよりもトニア、今日の講義は気合い入れてくるだろうなぁって思ってたけど、まさか遅刻ぎりぎりとはね」

「それは……」


 ピエレットの的確な指摘に、トニアはピクリと耳を動かす。


「ちょっと、考え事してたら寝れなくて……」


 耳に誘われるように顔を上げたトニアは僅かに遠くを見る。


「考えごと? あ、そっか。昨日、あの屋敷を見に行ったんだったね、そういえば」

「あ、えっと……それがね、見れなかったの」

「え? なんで?」


 トニアは身体を起こし、恥ずかしそうに肩をすくめた。


「見に行こうとしたんだけど、ちょっと……別の用事、思い出して」

「そうなの? それは残念。トニアあんなに張り切ってたのに」


 ピエレットは自分のことのように落ち込んだ表情をする。トニアは嘘をついたことが申し訳なくなり、すぐにばつの悪い顔をした。そのことに気づいたのか、偶然なのか、ピエレットはまたくすくすと笑う。


「ま、あの空っぽの屋敷に近づこうとするのはトニアくらいなものだけどね」

「そう……かな?」

「うん。だって古いし、なんか怖い。幽霊でも出てきそうだよ」

「陽が落ちる前なら大丈夫じゃないかな?」


 昨日目の前まで近づいたぼろぼろの古びた屋敷を思い出し、トニアは首を傾げた。


「幽霊が怖いなら、ピエレットは、肝試験、できないね」

「それを言うなら、肝試し、でしょう?」

「あ……」


 ピエレットが手に持っていたペンを顔の横に立てて先生のように指摘すると、トニアは瞼をぎゅっと閉じて悔しそうに口を結んだ。

 トニアが祖国のマニトーアから、ここソグラツィオに留学してきたのは半年前のこと。幼いころからの夢である建築家になるべく、マニトーアの学校で建築について基礎からデザインまでを学び、さらなる興味を求めてソグラツィオにやってきた。


 ソグラツィオはマニトーアと比べると技術や学術が進歩しており、それでいて積み重ねてきた歴史も長い。マニトーアも同じく古くから繁栄をしてきた国で、芸術面は豊かな才能に溢れてはいるものの、ソグラツィオに比べると新しい技術や革新的なデザインはまだ少なく、この国ならではの古典と先進の融合にトニアは強く惹かれたのだった。


 ピエレットは留学生ではない。しかし彼女のルーツもまた別の国にある。移住してきた祖父母の影響か、留学して右も左も分からなかったトニアに真っ先に声をかけ、トニアが不便のないようにと気を配ってくれていた。

 まだソグラツィオの言葉もようやく日常会話ができるまでに成長したばかりのトニアは、日々講義の内容を家に持ち帰り、夜遅くまで復習をしている。だから、眠れないのはいつものことだった。

 しかし昨夜はいつものようにベッドに入っても夢の世界が迎えに来てくれることはなかった。トニアの頭の中には、夕陽に見た背中が濃く焼き付いてしまっていたからだ。


「今日、先生やっぱり体調悪いみたい。講義は中止だって」


 トニアが肝試しという言葉をノートに書きとめていると、教室の前の方で別の生徒が両手でバツを作り皆に見せつけた。


「あー、残念」


 ピエレットは、ざわざわと大きくなる喧騒に紛れてため息を吐いた。


「せっかくトニアが受けてる講義を聞けたのになぁ」

「また今度になっちゃったね」


 トニアが寂しそうに笑うと、ピエレットは荷物を鞄にしまいながら頷いた。

 ピエレットはトニアとは違うコースの学生のため、普段は一緒に講義を受けることはない。だからこそピエレットは今日の機会を楽しみにしていたのだ。

 トニアが夢中になる建築の講義がどれほど魅力的なのか、文化研究にのめり込むピエレットも体感したかったようだ。それを知っているトニアは、自分が魅力を教えよう、と空いた時間を有効活用するお誘いをしてみた。

 ピエレットが嬉しそうに賛同したので、トニアは再び重い鞄を肩に掛け、二人はカフェテリアまで向かった。


 カフェテリアは講義のない生徒がちらほらと休憩しているようで、混雑はしていないものの、人寂しいほどに空いてはいなかった。

 二人は窓際のテーブルに荷物を置き、向かい合って座る。窓の外からこぼれる日差しは、マニトーアの眩しいばかりの燦々とした太陽とは違い、ささやかな陽だまりの卵だ。トニアは薄い光に目を向け、ほんの少し細める。


「そういえば……」


 ふと、昨日眠れなかった理由が頭をよぎる。


「ソグラツィオって、外で音楽演奏するの、禁止されてる?」

「え?」


 トニアの大きな鞄越しに、ピエレットが眉間に皺を寄せた。トニアの声が聞こえなかったわけではなく、その意味が分からなかったのだろう。


「何、それ。そんなの聞いたことないよ」


 同時に、ははは、と声をあげて笑い出す。ピエレットは時折飛び道具のように向かってくるトニアの疑問を楽しんでいるようだ。育ってきた環境の違う二人は、そうやって互いの常識を会話のアクセントにして新しい世界に触れることを望んでいる。


「そう……だよね? やっぱり」

「うん。確かに、マニトーアほど陽気な感じではないけどさ。ソグラツィオだって音楽は好きだよ? だから、街で突然歌いだす人だっているだろうし」

「……そうだよね。歌も、楽器も……」

「そうそう! あ、やっぱりトニアの耳はちょっと寂しい? もっと音楽が聞こえてきた方がいいかな?」

「あ……いや、そうではないんだけども……」


 ピエレットの回答に不思議とほっとしているトニアは、無意識のうちに口元が綻んできた。


「そうだ。王宮ではね、街よりも音楽が溢れてるはずだよ。なんか、王宮が曲作りに励んでるって……」


 そこでピエレットの声が止まる。続きが聞きたかったトニアは眉をひそめ、緩んでいた唇をすぼめる。

 王宮と言えば、昨日トニアが出会った青年はそこをよく知っているはずだ。音楽で溢れているというのが本当ならば、彼の要求がなお歪なものに思える。ちぐはぐな話に、トニアの疑問は深まっていく。


「ピエレット?」


 トニアが小首を傾げると、トニアの隣の空いた椅子を引く音が聞こえてきた。大きな音に驚いて椅子を掴んでいる血色のいい大きな手をまじまじと見つめていると、その手は視界から消え、代わりに昨晩何度も自分のことを起こしてきた人物がどさっと椅子に座った。

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