"運命"の副作用にはご注意を

冠つらら

1 夕陽のステージ

 「何も見ていない。なぁ、そうだよな?」


 鼻先に迫りくる均整の取れた顔は動揺を露わにして瞳を小刻みに震わせている。


「何も見てないし聞いてない。そう言ってくれ。間違っても絶対に誰かに言うなよ。いや、そもそも言うこともないよな?」


 話を聞いているのかいないのか。彼女が彼の端正に整えられた髪の毛がはらりと額に落ちてきた様子を目で追っていることに気づくと、彼はきりっと上がった眉を歪ませた。

 引き締まった彼の雰囲気が僅かな不安に支配されていく。睨まれているのか、それともただ崩れてしまいそうな矜恃を保とうとしているのか。どちらとも取れる彼の眼差しからは切羽詰まった祈りだけが読み取れる。

 どうして彼はこんなに必死に自分にお願いをしているのだろう。

 彼の祈りを叶えられる唯一の相手は、答えを出す前にぼんやりとした疑問に興味のすべてを持っていかれていた。おまけに、深緑の瞳と濃いブロンドの髪。どこかで見たような風貌の彼のことが思い出せない。


 確かに彼女は彼のことを、学院の敷地の中でも学生たちが特に用事がなく寄り付かない、人寂しい階段の下で見かけた。

色褪せたレンガが敷き詰められた一角にはオレンジの夕陽が差し込み、黒く長い壁が地面に伸びている。

 彼の背後に夕陽が見え隠れし、繊細な毛先には小さな光がまとわりついた。彼女の琥珀色の瞳はちらりときらめきを映し出す。

声を返すわけでもなく、首を縦にも横にも振ろうともしない彼女に痺れを切らしたのか、彼は力強く唇を噛んだ。


「いいか? ここにいるってことは、君も何かを学んでるんだよな? 俺も同じだ。もし君がこのことを口外したら、俺はそれができなくなる。このことを知ったらあいつは絶対に俺のことを再教育すると言い出す。ここに通うことすらできなくなる。俺から学びを取り上げないでくれ。人を助けると思って。頼むよ」


 自分のことをぼうっとした表情で見上げたままの彼女に、彼は念を押すように訴えかけた。

 畳みかけるように早口で言ったせいか、その言葉の半分は彼女の脳内で処理しきれなかったようだ。それでも彼女の疑問は変わらない。

 自分が見たのはなんて事のない日常の風景。

 確かに、これが殺人事件だとか、危険な逢引きだとか、厄介な取引現場だと言うのなら彼の言うことも納得できるかもしれない。しかし彼女はそんなものは見ていない。

 もしや、自分の常識がおかしいのだろうか。

 習慣の違いに自信を失い、彼女は弱弱しく頷いた。それは彼がずっと待っていた返事だった。


「……よかった……ありがとう。感謝する」


 ようやく反応を示した彼女に対し、彼は肩の力を抜いて崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。

 彼のすぐ後ろにはささやかな花壇があって、とっくに雑草の帝国となってはいるものの、土埃は健在だった。彼女は彼がその土埃の上に崩れたことに、ほんの僅かな気遣いを示す。


「そこ……汚れています」

「え?」


 指先に導かれた視線の先には、虫が荒らしたのだと推測できる小さな土の塊が花壇から飛び出し潰れていた。


「……うわっ」


 彼のやたら長い外套は丁寧にも土の塊を擦り、裾に斬新な模様が施されてしまった。


「あーあ……また文句言われる」


 はぁ、と深いため息を吐いた彼は一度項垂れると、反動をつけて立ち上がった。


「……とにかく、これは約束だからな」

「…………え」

「今日のことは絶対に誰にも言うなよ。破ったら、すぐに分かるからな」


 何度も聞いた言葉を飽きることなく繰り返す彼に向かって彼女はもう一度頷いた。夕陽が移ろい、今度は建物の陰に隠れようとしている。


「そうだ。君、名前は?」


 外套の裾を払いながら、彼は思い出したように尋ねる。


「秘密を共有する仲なら、名前くらい知ってた方がいいだろ」

「あ、うん。そうですね……」


 そこまでするほどの深い秘密でもない。彼女は再び自分の俗識を疑いながらも彼に賛同した。


「トニアです。トニア・マビリオ」

「トニアか。俺はネルフェット」

「……ネルフェ……」

「……ット」


 ネルフェットは欠けている自分の名前をしっかりとした発音で補足する。

 だがトニアは彼の名前を聞き間違えたわけではない。その証拠に、トニアの顔は次第に青ざめていく。オレンジに照らされた壁とは対照的に冷めゆく彼女の表情に、ネルフェットは不可解だと言いたいように首を傾げた。


「ネルフェット・ヘイデンハルム……?」

「ああ。なんだ知ってるんだ」


 トニアの震える声に、ネルフェットは砕けたように笑う。思ったよりも軽い笑い声にトニアはごくりと息をのみ込む。

 先ほどまで喉につかえていたものが流れていくように感じた。

 見たことがあるはずだ。彼の顔がニュースの際に流れているのを何度か目にしている。確か彼は二歳くらい年下で、自分と歳が近いことが印象的だった。

 めっきりテレビや新聞から離れていたものだから、すっかり記憶が薄れてしまっていた。

 トニアは俗世間に置いていかれたような気がしてばつが悪くなる。


「た、確か、第一王子……でしたよね」


 恐る恐る尋ねると、ネルフェットは一言肯定して頷いた。


「まぁ兄弟もいないし、第一も何もないけど……」

「は、ははは……それは、失礼しました……」


 急に改まって姿勢を正したトニアの態度をネルフェットは面白くなさそうな目で見る。


「王子も、ここに通われていたのですね」

「知らないの? 逆に珍しいよ」

「あ……私、留学生で、あの、あんまり、その……余裕がなくて」

「留学生?」


 ネルフェットの左側の眉がじわりと上がった。ほんの少しの表情の変化にさえ怯えを抱いてしまうトニアは、頬の肉を噛んで堪えた。


「はい……マニトーアから……」

「マニトーア……」


 彼の吐く息が色を変えたように思えたのは気のせいだろうか。

 トニアはチクチクと全身の肌を細かい針で刺されている感覚に陥る。


「何を勉強しに来たの?」


 沈む夕日に目を向けて、ネルフェットは果敢にも瞼を閉じずに太陽と睨み合う。


「け、建築を……」

「建築? マニトーアから、わざわざ?」

「はい」

「変わってるね」

「そ、そんなことはありませんよ。ソグラツィオの建築技術は素晴らしいですから……! あ、今も、ほら、これを見に来たんです……!」


 ネルフェットの自分に対する興味が薄れてしまう気がして、トニアは慌てて近くに聳え立つ古い建物を指差す。こじんまりとした別荘のような建物は、ずっと使われていないのが明白な程に壁の色がくすんでしまっている。一目見ただけでは、ただの古き時代を思い起こさせるだけの小さな屋敷だ。

 周りにもなにもなく、ただ狭い広場と二人がいるだけ。


「……これ?」

「そうです! これに使われているデザインを、見に来たんです。マニトーアではあまり見られませんから」

「…………ふぅん」


 ネルフェットも建物を見上げるが、トニアの微かな興奮に共感することはなかった。

 建物から目を離したネルフェットは、広場に放置していた弦楽器に視線を移し、無言でそれを迎えに行く。


「……王子は」

「ネルフェットでいい」

「ネルフェット、は……何を学んでいるんですか? 音楽、ですか?」


 トニアは弦楽器を大事そうに手に取るネルフェットを眺めて控えめにその様子を窺った。

 ネルフェットが弦楽器を撫でているところを見ると、彼女が先ほど見た秘密の光景を重ねてしまう。


「……違う」


 彼は小さく返事をすると、楽器をケースにしまい、肩にかけた。


「違うから、絶対に言うな」

「それは、もう、絶対に言いません」


 相手が王子であるなら彼を裏切ることは得策ではない。

 トニアも流石にそれは理解できる。しかも自分は留学している身。他国で問題など起こしたくはなかった。

 ネルフェットはトニアに背を向け、寂しそうな建物に向かって歩いていく。どうやらそこに楽器を置いているようだ。トニアが先生にこの建物について聞いたとき、誰も近寄ることはない過去の置き土産だよ、と言われたことを思い出した。

 彼はここに誰も来ないことを知っていて、楽器を置いているのだ。

 トニアは扉の向こうへと消える背中を無言で見送る。

 やはり、この国と自国の感覚は、違うものがあるらしい。

 足を踏み入れることを拒むように閉じられた扉を見つめ、彼の息が色を失う前の姿を瞳に映す。


 今日は、これまでずっと気になっていたこの建物をじっくり見れるはずだった。学生たちは皆、この屋敷の妙な噂に気味悪がっていたが、トニアは違った。屋敷の存在に気づいたときからうずうずしていた彼女は、授業終わりに細い階段を下った向こうに密かに存在し続けた場所へとやってきた。

 きっと、人もいないし貸し切りだろう。そう思っていた。しかし彼女の予想とは裏腹に、広場には人がいた。逆光で表情には少し影が落ちていた。

 ひっそりとした様子で佇む彼は、弦楽器を肩に置き、弓を恭しく引きながら、呼応する音色を愛おしそうになぞった。彼を見つけた夕陽が光の道を彩り、ネルフェットはその上でたった一人だけの演奏会を開いていたのだ。

 久しぶりに聞いた音色が奏でるまだ不完全な音楽に、トニアは祖国を思い胸を弾ませ、思わず足を止めた。階段から眺める彼の演奏する姿は、傍から見ているととても楽しそうで、上質な姿は映画を観ているようだった。

 まだ拙くとも、彼の奏でる音には心が宿り、トニアはしばしの間、懐かしい音に耳を傾けていた。


 しかし音が止まったと同時に、トニアに気づいたネルフェットが顔面蒼白して弦楽器をケースの上に置いたままつかつかと詰め寄ってきたのだ。

 そこから、彼の懇願が始まった。

 思い返してみても、トニアの頭には疑問が残ったままだった。

 彼はただ、弦楽器を演奏していただけだ。

 公衆で音楽を奏でることはこの国では禁じられていなかったはず。

 それなのに何故、ネルフェットはあんなにも焦燥していたのだろう。


「……変わった人」


 ぽつりと初対面の王子の第一印象をこぼしたトニアは、建物観察は後日にしようと、誰もいなくなった広場に背を向けた。


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