13


 「これ、良かったら使ってみてください。効果がちゃんとあるかは分かりませんが。」


 帰り際に、彼女はそう言って私に例のルームスプレーを手渡した。


 「あ、ありがとうございます。帰ったら、すぐ使ってみますね。」

 「ぜひぜひ。あ。返してくださいね?」


 彼女がさっきを思い出して、笑いを誘う。


 「…分かってますよ。」


 私は苦笑い。


 「じゃ、今度会った時に返してくれれば大丈夫なので。あ!あと、それまでは何回でも使ってもらって良いんですけど、この辺まで残しといてください。」


 彼女はルームスプレーのやや真ん中を指差した。


 「分かりました。…お借りします。」

 「どうぞどうぞ。…あと、名前。次会ったときは呼んでもいいですから。」

 「…え?」

 「それでは。また今度!忘れないでくださいね!」


 彼女はくるっと踵を返して、さっさと駅前のコンビニへ駆けて行った。


 彼女は人を見る目というか、洞察力が鋭いというか…

 相手の感情を推し量ることに長けていると思う。

 彼女は私を“いい意味で変わっている”と言ったけど、それならば私から見た彼女もまた、“いい意味で変わっている” ということだ。

 なぜなら、名前のことに関して言えば、彼女もまた、私の名前を一度も呼ばない。いつも“おにいさん”だ。

 単に私が教えていないということもあるが…尋ねられた事すらない。

 10コも年上の相手に対して敬語を使っているのは当たり前だろうが、名前くらい聞かれてもおかしくない。

 なぜ彼女が私に名前を聞いてこないのかは、たぶん。彼女は何となく察している。

 私が働いていないこと。

 名前を聞かれたくないこと。

 何かあったこと。

 …ま。ただの憶測だけれど。

 そう感じてしまうほどに彼女の醸し出す雰囲気は、時折見せるあどけなさの中に、私より年上なんじゃないかと思うほど大人びている部分がある。


 “いい意味で変わっている”




 私は帰宅してからすぐにルームスプレーなるものを使った。

 嗅ぎ覚えのある香りだった。

 私の経験上のミントといえば、スイーツの上に乗せてある飾りかガムくらいだ。

 当たり前だが、スッキリとした香りだ。不思議と鼻に強く刺さることがなく、うまく表現出来ないが柔らかい香りがした。

 私はもう一度霧状の液体を室内に噴射させて、アロマという未知の世界を味わった。少し心が踊っているのが分かる。

 例えるなら、初めてシャボン玉を吹いた時のワクワク感だ。洗剤の匂いと、初めて見る鮮やかな球体。それを作り出せた自分。ふわふわ漂ってから、一瞬で消えてしまう喪失感。もう一回、と何度も夢中で繰り返した。

 大人になった私は借りものなこともあり、子供の頃のように夢中になることはなかったが、それなりの範囲で楽しんだ。

 彼女が友達とはしゃいでしまった気持ちが、少し理解できた。

 私は本来の目的であった、虫除けのためにベランダに出た。足元のスリッパの上に転がっている虫の死骸を払ってサンダルを履いた。

 「うわ…。」

 そこには私の予想を遥かに超える虫の死骸たちが網戸にしがみついていた。

 (掃除したの3日前だぞ…)

 私はバシバシと強めに網戸を叩いてあらかたを足元に落とし、網戸に向けて液体を噴射した。

 「あ。」

 そういえばどれくらいの量を吹きかけるものなのか、そもそも網戸に吹きかけていいものなのか、彼女に聞くのを忘れていたことに気づき、一瞬躊躇った。

 が、もう吹きかけてしまったものは仕方がないと諦めて、網戸全体に吹きかけた。

 使い方が合っているのかは分からないが、これで虫が来なくなるなら本当に有難い。

 足元に散らばった虫たちに見て見ぬふりをして、自室へと戻った。

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