12
「そっかあー。じゃあミントの香りの正体はこの小瓶だったんですね。」
「はい。今日学校でルームスプレーを作る授業があったので。そういえば、友達と楽しくてついスプレーふりまき過ぎました。」
「へえー。ルームスプレーかあ。なんかオシャレだね。」
「わたしも初めて使いました。虫除けとかにも効果的らしいので今の季節にぴったりなんです。」
「え、そうなんだ。最近ベランダにさ、虫がよく来るんですよね。ミントで撃退できるかな。」
「良かったら試しに使ってみます?」
「え!いやいやいや。さすがにタダで貰うのは悪いですよー。」
「…誰もあげるなんて言ってませんよ?」
「え。」
彼女の方を見ると、クスクス笑っている。私はどうやら、またとんだ勘違いをさらしてしまったらしい。
「ふふっ、すみません。貸すだけです。あげても良いんですけど、私もまた使いたいですし。」
「…なるほど…、それは、とても、ありがたき幸せです。」
「ふふっ、何ですかその喋り方っ。ほんとおにいさんって、良い意味で変わってますよね。」
変わってる。その言葉はよく、聞き覚えがあった。昔から散々言われてきたからだ。
それはいつだってポジティブな意味じゃなかった。…たぶん、皆の期待から外れた時に、その言葉で片付けられてきた。
自分はそういう、変わった人間なんだと、思っていた。
だから、彼女の口からその言葉を耳にした時、身体が少しだけ強張った。でも。“良い意味で”というのは初めてだった。
私は理由なく彼女にそれを聞いた。
「良い意味で…って?」
「え?」
ごく自然にそれを口にしたのだろう。何を聞かれたのか分からないでいるようだった。
「良い意味で変わってる、って。どうゆう意味なのかなって…。」
「あぁっ!…えーっと、それはですね。」
彼女はわざとらしく咳払いのマネをしてから、“いい意味”について解説してくれた。
「えー、まずひとつ目に、出会ってもうけっこう経つのに、わたしの名前を一度も呼ばないところ。ふたつ目、10コも年下の相手に対して、いまだに敬語を使っているところ。みっつ目、謝る時ものすごく早いところ。主に動きが。これらを含めて、わたしは“いい意味”だと言いました。」
私は3つの理由を聞いたあと、それのどこが“良い意味”なのか理解出来ずにいた。
彼女は私の頭の中が見えているのか、まっすぐ前を見ながら話を続けた。
「皆、というか…そうじゃない人も中にはいると思うんです。でも、年下だから偉そうにしたらダメとか、敬語を使わなきゃいけないとか…皆当たり前にしてることなんです。皆そうやって教わってきたから…でも、その当たり前が、時々…しんどいなって。思う時があるんです。わたしがまだ、若いからって言われれば、それまでのことなのかもしれないけど、年上とか、先生とか、バイトの先輩とか…なんかそういう、立場みたいなのを利用して、そんなに仲良くもないのに気安く名前を呼ばれたり、話しかけられたり、威張られたり…なんか、強要されてるみたいに感じることがあるんです。…って、あはは、わたし変なこと言ってますよね。すみません。」
「いいや、……分かりますよ。」
歩くスピードがゆっくりになる彼女の歩幅に合わせながら、私は素直に返事をした。
彼女は私の返事に一度振り向いてから、またまっすぐ前を見直した。
「…だから、お兄さんがほんとうはわたしの名前知ってるのに、気安く呼ばないでいてくれるところとか、たまにタメ口になるけど、基本敬語で話してくれるところとか、何というか、人として?わたしとして?ちゃんと話してるんだなあーって感じるんですよね。対等な感じっていうか…友達とかとは違う感じで…。とにかくっ!すごく良い!っていう意味の“いい意味”ですっ!!!」
彼女は私のほうを勢いよく振り向きながらそう言った。
胸のあたりが締め付けられるような感覚に襲われた。でも、それを今ここで出してしまうことは許されない。蓋をして、それを悟られないように私は会話を続けた。
「…そっかぁ、なるほどなあ〜そういう意味だったんですね…ちなみに3つ目の謝るとき?すごく早いところっていうのは…」
「わたしがすごく面白くて笑っちゃうってだけです。」
「…えぇー……」
間髪いれずに返ってきた答えに、若干の拍子抜けをしたが、彼女の楽しそうな表情と先程の感覚が消え去ってくれたことに安堵した。
彼女の名前は知っていた。
初めて彼女と出会った日。
彼女にお願いして、持たせてもらった傘の手元に付けられていたネームプレート。ローマ字で書かれていた彼女の名。
雫のカタチをした薄い水色の透明なネームプレートが、灰色の世界で虹色に光って見えたのを今でも覚えている。
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