第9話、親子
泉の辺から飛び込んで来た小さなカエルと、千早が戯れている。
涼子は、辺にあった石の上に腰を下ろし、そんな、無邪気な千早の姿を見守っていた。
・・・子供にしか見えないと言われる、『 水童し 』・・・
あの少年が、その水童しだったのだろうか。
では、どうして、涼子にも見えたのか・・・?
『 純粋な心を持ったモンにしか、見えんのじゃ 』
ヤエの言った言葉が、涼子の脳裏に甦る。
( ・・千早と遊んでると、ホントに楽しい。 何も煩悩が無い、小さな頃に戻ったようだわ・・・ )
石の脇から生えている草の葉の上に、小さなアマガエルが乗っている。
それを見つけた涼子が、組んだ右足の先で、葉先を軽く突付く。 アマガエルは一瞬、ピクリとし、モジモジと手足を動かしたが、再び、動かなくなった。
( 家庭の事も、仕事の事も忘れてた。 だから、見る事が出来たのかしら・・・ )
涼子は、そう思った。
本当に、水童しを見たのかどうかは、定かでは無い。 もしかしたら、2人とも幻を見ていたのかもしれないのだ。 本当に、神社の子であったとも考えられる・・・
しかし、涼子は、満足だった。
そう・・ 心ゆくまで、千早と遊べた・・・
時間に囚われる事も無く、伸び伸びと、同じ時を共有したのだ。 その事の方が、水童しの存在有無を問う事より、涼子には重要だった。
( 今からでも、遅くないわ。 寂しかった私の経験は、千早には、決してさせない・・・! 何も、難しい事じゃ無いわ。 いつも、一緒にいてあげれば、それで良いんだから )
出来れば、もう1人、子供が欲しい・・・
そんな事すら、涼子は考えていた。
『 お母さ~ん、この子、笑ったよ~? ああ~っ! オシッコ、しちゃったあぁ~! 』
千早の声が、聞こえて来るようだ。
勝手な想像に、クスッと笑う、涼子。 ここに来る前までは、考えもしなかった事である。
( ・・御諸に来て良かった・・・! 何も無い所だから、自分が良く見えるのね。 大婆さまが、言われた通りだわ。 ここでは、虚勢を張る必要も・・ 時間を考える必要も無いのね。 自然のまま・・ その大切さを感じながら、生活出来るのよ・・・ )
その日、涼子は夕暮れまで、神社裏の池で、千早と遊んだ。
夕方。
仲良く手をつなぎながら、神社裏から帰って来た涼子と千早を、玄関先で、ヤエが出迎える。 ニコニコしながら、ヤエは言った。
「 2人して、水遊びかえ? あれまあ~・・ 涼子ちゃんまで、びしょ濡れじゃのう~ 」
「 お母さんに、小石のダンスを見せてあげたの! 」
「 ほうか、ほうか 」
何度も頷きながら、ヤエは答えた。
千早は続ける。
「 大婆さま。 みなかみクン、帰っちゃうんだって 」
千早の言葉に、ヤエは涼子を見た。
真剣なヤエの表情に、涼子は小さく微笑み、頷く。
・・・暗黙の了解である。 全ての経緯を了解したらしい、ヤエ。
再び、微笑むと、千早に言った。
「 運が良けりゃ・・ そうさなあ~・・ 秋の大祭の時に、また逢えるぞえ? 」
「 うん! そう言ってた 」
嬉しそうに答える、千早。
涼子が言った。
「 千早。 一緒に、お風呂に入ろ! 大婆さまの家のお風呂、大きいのよ~? 」
「 ホント? 凄いねえぇ~! お風呂屋さん、出来るねぇ~! 」
離れの脇にある、風呂場。
木の板を張った広い脱衣所の隅に、籐で編んだ古い籠が置いてあった。 涼子の記憶では、確か野良着を入れる籠である。 曇りガラスの引き戸の向こうが、湯船だ。
神社裏から清水が引かれて来ており、タイル張りの大きな湯船には、いつも綺麗な水が張ってある。 昔は竈( かまど )で、薪を焚いて湯を沸かしていたが、最近は、プロパンガスだ。 先程、畑から戻ったヤエが一風呂浴びた後なので、丁度良い湯加減である。
着替えを持って、涼子は、千早と脱衣所に入った。
「 あ! こんなトコに、コガネムシがいるぅ~! 」
脱衣所の壁に張り付いていた、小さなコガネムシ。 千早は指先で摘み、涼子に見せた。
「 ほらほら、お母さん、見て~! 」
棚の上に置いてあった樹脂製の脱衣カゴを取り出し、涼子は、笑いながら言った。
「 お外に、帰してあげなさい。 きっと迷い込んで、出れなくなってたのよ? 」
「 そっか~、お前、迷子なんだね? 迷ったら、お巡りさんトコ、行くんだよ? いい? 」
コガネムシに説教しながら、格子窓から外へ逃がす千早。 その格子窓の枠の上を、カミキリムシが移動中であった。 目ざとく、それを見つけた千早が、涼子に報告する。
「 お母さ~ん! カミキリムシがいるぅ~! あ~、入って来るぅ~! 」
『 そんなもの、放っておきなさいっ! 』
今までの涼子だったら、そう言っていただろう。 しかも、怒りながら・・・
涼子は言った。
「 噛み付かれると、結構、痛いわよ? 背中辺りを突付きなさい。 びっくりして飛んでいくから 」
涼子のアドバイス通り、カミキリムシの背中を突付く千早。
「 ちっとも、びっくりしないよ、この子。 調子、悪いのかな? 」
涼子は、笑いながら言った。
「 お腹の調子が、悪いのかしらね? 」
「 ・・あ、飛んでった! 」
カミキリムシが飛び去った方を、格子越しに、背伸びしながら見送っている千早。
涼子が言った。
「 さあ、千早。 コッチ来なさい。 濡れた服、脱がなきゃ 」
「 は~い 」
木の板の上を、トトトっと、涼子に走り寄る千早。
「 ? 」
濡れた服を脱がせ、千早の体を見た涼子は、気が付いた。
( ・・・発疹が・・ 無い・・・ )
アトピーだった千早には、背中や腹・足など、体中のあちこちに発疹があった。
ところが、それが・・ どこにも見当たらないのだ。
涼子は言った。
「 千早・・・? 赤いボロ・・ 消えてるよ? 」
千早が答える。
「 うん。 腕のボロも、何か、無くなっちゃったよ? わあ~! 大きな、お風呂~! 」
発疹の事など、全く関知する事も無く、早速、湯船に取り付く千早。
涼子の方を向いて、言った。
「 お母さん! 木の板が浮かんでるぅ~! ナニ? これ 」
濡れたワンピースを脱ぎながら千早の方を向くと、涼子は答えた。
「 その板の上に乗って、入るのよ。 千早の体重じゃ沈まないから、お母さんと入るの。 鉄の部分には、触っちゃダメよ? 熱いから、ヤケドするからね? 」
「 へええ~・・! 変わってるねえぇ~! お母さんと一緒じゃないと、入れないんだ~・・・ ふ~ん・・・ ねえ~、うちのも、こういうのにしようよぉ~! そしたら、いつも、お母さんと入れるもん。 ねえぇ~、ダメぇ~? 」
タイル張りの湯船の縁に、ちょこんと座り、小さな足をプラプラさせながら、千早が言った。
涼子は、笑いながら答えた。
「 これからは、一緒に入ってあげるから・・・ 」
「 ホント? ホントに? 約束だよっ? ね? 」
嬉しそうに、涼子に抱きついて来た千早。 涼子は、そのまま、千早を抱き上げる。
「 ・・今まで、放ったらかしにしててゴメンね? 千早・・・! 」
千早は、何も答えず、涼子の胸に顔を埋めた。
「 さあ、入ろうか 」
千早を抱いたまま、涼子は、そうっと湯船に入った。 お湯が、湯船の縁を越え、ザアーッと流れる。 木の桶が、湯に流され、音を立てた。
「 洪水だ、洪水だ~! 」
無邪気に喜ぶ、千早。
温かな湯の中で涼子は、千早を抱き締めたまま、千早の小さな首筋に唇を当てた。
( ・・私の、千早・・・! )
愛おしさが、込み上げて来る。
また、目頭が熱くなって来た涼子。 小さな千早の背中を、優しく、いたわるように擦る。
・・・柔らかな湯の音・・・
千早が、ポツリと言った。
「 お母さん、大好き・・・ 」
何も言えなくなった涼子。
湯の中で、千早を抱き締めたまま、その首筋に再び、唇を押し当てた。 千早に気付かれないように、そっと指先で、涙の雫を払いながら・・・
格子窓からは、夕日の明かりが、赤く、美しく差し込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます