第8話、みずわらし

「 ・・ひゃあ~! 冷たいね~! 」

 水神大社脇の沢で、手を洗った涼子が言った。

 手首から腕、肘・・・ きれいな水で、満遍なく洗う。 汗で濡れたハンカチも出し、すすいだ。

 透明な水面に、揺れる日差しが、キラキラと輝いている。 川底には白い小石が、まるで並べられたかのように敷き詰められていた。


 サラサラと、小さな水音を立てて流れる、清らかな水・・・


「 ・・・足も、入っちゃおうかな? 」

 千早は、既に、沢に入って魚を追いかけている。

「 つ・・ 冷た~い・・! 」

 サンダルを脱ぎ、沢に入った涼子。 ワンピースの裾をたくし上げ、手で、膝辺りに水をすくって掛ける。

「 気持ちいいね、千早~! 」

「 でしょ~? あたし、毎日、入ってんだからぁ~! 」

 ハンカチを絞り、ほてった顔を拭く涼子。

 沢の両岸に茂った木々が、心地良い木陰を創っている。 蝉の鳴き声と、沢の水音・・・ 都会とは、まるで別世界だ。

 何度もハンカチをすすぎ、額や首筋を冷やす涼子。

 千早が言った。

「 この川、神社の裏まで続いてるの。 お池に、水が涌いててね。 小石のダンスが見れるのよ! コッチだよ、お母さん。 案内してあげる! 」

 ジャブジャブと、沢を上る千早。

「 そんなに急がなくても、大丈夫よ。 転んで、石に頭ぶつけたらどうするの? もっとゆっくり行きなさい。 ・・あ、ほら、魚がいるわよ? 千早、そっちに行ったわよ! 」

 千早の足元を、数匹の魚が泳いで行く。

「 あ、魚さ~ん、待ってぇ~! 」

 捕まえようと、手を伸ばす千早だが、魚影は、千早をあざ笑うかのように、スイスイと沢を上って行く。

「 あ~ん、食べないからさ~、待ってよぉ~! 」

 涼子は、笑いながら言った。

「 千早、食べるつもりだったの? 」

「 だって、大婆さまが、塩焼きにして食べるとおいしいって言ってたもん 」

 涼子は、再び、笑った。


 愉快だ・・・!


 こんな開放的な気分になったのは、久しく無い。

 音楽も、映像も無い。 ただ有るのは、清らかな清流の風景。 蝉時雨と、沢の水音・・・

 遊具がある訳でも無い。 ただ有るのは、自分と最愛の娘のみ。 そして、無尽蔵な自然の恵みと、満ち足りた時・・・

 自然の恩恵を受ける喜びが、こんなに素晴らしい事だったとは、涼子には、思いもつかなかった。

 キラキラ光る水面を掌ですくい、喉の渇きを潤す涼子。

( ・・・おいしい・・・! )

 続けて、二度三度、清らかな冷たい流れをすくい、飲み干す。

 天を仰ぎ、大きく息を吐き出す。


( 体が・・ 浄化されていくみたい・・・! )


 深呼吸をし、再び水をすくうと、何度も、顔にピシャピシャと掛けた。 泳ぎたくなる千早の心境が良く分かる。

 涼子は、ふうっと息を出すと、千早のあとを追いかけ、沢を上った。


「 ほら、ほら、見てぇ~、お母さん! 小石のダンスだよ~? キレイでしょ~っ? 」

 誇らしげに、水底を指差す千早。

「 まあ・・ 綺麗っ・・! 清水が、涌いているのは知っていたけど・・・ こんな風になっていたとは、知らなかったわ・・・! 凄いわねえ~、千早~! 」

 腰をかがめ、涼子は言った。

「 でしょ~? あたしが、見つけたんだよ~? 」


 音も無く、永遠に踊り続ける小石たち・・・

 絶え間無く沸き続ける清水に吹き上げられ、まるで命ある・・ 生きているモノのようにさえ、涼子には見えた。


「 何百年・・ 何千年も掛かって、こうなったんだね、千早・・・ 凄いね 」

 感動する涼子に、千早は言った。

「 ここの水、飲めるんだよ? ほら! 」

 そう言って千早は、足元の水を小さな掌ですくい、飲んで見せた。

「 そう言えば、千早・・ ここに来てから、ジュース、って言わないね? 」

 涼子の問いに、千早は、あっけらかんと答えた。

「 いらないよ。 お水の方が、おいしいもん! いつも飲めるし、タダだし・・・! こんなにいっぱい、あるんだよ? どんどん、涌いて来るし! 」

「 そっか 」

「 そうだよ。 お母さんも、飲んでごらんよ! 」

 先程、もう喉を潤した涼子ではあるが、その事には触れず、無言のまま、両手で水をすくう涼子。 チラリと千早の顔を見ると、悪戯そうな笑みを浮かべ、すくった水を、千早の顔にピシャッと掛けた。

「 えいっ! 」

「 わぷっ・・! 」

「 あははっ! 」

「 冷たぁ~い・・! やったね~? お母さん! ・・えいっ、えいっ! 」

「 きゃあ~! 冷たい、冷たいっ! それっ、それっ! 」

 反撃して来た千早に、ザブザブと水を掛ける涼子。

「 きゃあ、きゃあっ! 」

 はしゃぎながら、逃げ回る千早。


 愉快だ・・・!


 こんなに愉快にふざけ合うのは、おそらく、子供の頃以来だろう。

 涼子は、童心に帰って、千早と戯れた。

 水と戯れる親子に、木々は柔らかな木陰を、そっと提供していた・・・


「 あ・・ みなかみクン! 」


 千早が、ふと、岸辺に佇む少年に気付き、声を掛けた。


 丸首の古風な着物を着た少年・・・!


 涼子は、濡れた前髪から雫を垂らしながら、千早に水を掛けていた手を止め、そのままの姿勢で、じっと少年を見つめた。

( ・・神社の・・ 子・・・ )

 涼子に微笑む、少年。

 よく見ると、胸の辺りにも、菊閉じと呼ばれる飾りが付いている。

 千早の方に向き直ると、少年は言った。

「 千早。 夏神事が終わったから、僕は、帰らなければならないんだ 」

 千早が答える。

「 え~? 帰っちゃうの~? もう、逢えないの? 」

「 うん。 今度は、秋の大社祭かな・・・ 」

 少年は、そう言った。

 千早は、顔に付いた水を指先で払いながら答えた。

「 そっか~・・・ じゃ、お母さんと、また来るね! 」

 微笑む、少年。

 涼子は、かがめていた腰を伸ばし、少年に一礼すると言った。

「 ・・千早が・・ お世話になりました・・・ 」


 もしかしたら・・・

 この少年が、ヤエの言っていた『 水童し 』なのか・・・?


 一見、普通の少年だ。

 だが、その表情からは、どこか現代感の無い、一般とは、一線を画する雰囲気が感じられる。 そう・・ この世のものとは思えない、何か、不思議な印象だ。


 涼子の挨拶に、少年は答えた。

「 注連縄を有難う。 禍神を、よく防いでくれました。 各、家神たちも、訪れ易かった事と思います 」


 ・・・少年の言葉は、涼子には、よく理解出来なかった。


 だが、注連縄を奉納した事を、この少年は知っている・・・! 確か、今朝、奉納した時は、誰も境内にはいなかったはずである。 ヤエが今年の当番で作るのを知っていたとしても、なぜ、涼子が奉納しに来た事を知っているのか・・・?


( ・・・やっぱり、水童し・・・! )


 では、なぜ自分にも見えるのか・・・?

 情況が判らなくなり、涼子は、口を開けたまま、その少年を見つめ続けた。


 少年は、涼子に微笑みながら言った。

「 童( わらべ )は、自分の幼き頃の、誠の姿です。 決して、離してはいけません。 いつも、一緒にいなくてはなりませんよ? 」

「 ・・・・・ 」

 推察出来る少年の年齢からは、到底、考えられない口調・・・

 少年は続けた。

「 愛おしい者に触れるという事は、すべからく、触れた者への愛情となります。 哀惜の情にも似た心情は、触れられた者の心に永遠の記憶となり、相留まる事でしょう 」


 涼子は、返す言葉も見つからず、ただ、呆然と少年を見つめている。


 再度、千早の方に向き直り、少年は、微笑みながら言った。

「 お母さんが遊んでくれるようになって、良かったな、千早 」

 にっこりしながら答える、千早。

「 うん! お母さん、大好きなの、あたし! 」

( ・・千早・・・! )

 池の中を千早に寄り、その濡れた頭に手を置く、涼子。 千早もまた、涼子に天使のような笑顔を見せると、腰の辺りに抱きついて来た。

 少年は言った。

「 いつまでも、その心を大切にね・・・ 千早 」

 千早は少年に対し、迷いの無い、清らかな瞳で頷いて見せる。 再び、目頭が熱くなって来た涼子は、思わず千早を抱き締めた。


 音も無く、こんこんと湧き出る、清水・・・


 その、静かな・・ 2人だけの泉の真ん中で、涼子は改めて、我が子を抱き締めた。 千早への愛おしさが、足元から無尽蔵に湧き出る清水の如く、涼子の心に涌いて来る。

 乾き切っていた涼子の心は潤わされ、今や、みずみずしく、その生気を満たしていた。 愛する我が子への、溢れんばかりの愛情・・・!

 宝石のような雫が、2人の体から、ポタポタと水面に落ちる。

「 ・・お母さん、お洋服・・ 濡れちゃったね・・・? 」

 涼子の胸の中で、千早が言った。

 涼子は、千早を抱き締めたまま、震える声で答えた。

「 ・・いいのよ、そんな事・・・ 今は、千早と遊んでるんだから・・・! 」


 再び、涼子が少年の方を見た時、彼の姿は、どこにも無かった。

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