第2話、脱却

 割れんばかりの、蝉時雨。

 乾いた未舗装の農道が、駅から緩やかに蛇行しながら、白く続いている。

 暑い夏の日差しが照りつける、田舎道・・・

 山に囲まれた、小さな平地は、全て、田んぼか畑である。

 段々畑や、田に水を引く小さな水路からは、絶え間無く、水の音が聞こえていた。


( ホント、何も無いわねぇ・・・ )

 涼子は、改めてそう思った。

 青と緑、上下2色のキャンバスに、まるで誰かが白い絵の具を筆に付け、上から下へ描いたような彩色風景である。 目に映るのは、水を引いた田に育つ、青々としたイネの緑と、真っ青な空の蒼・・・ そして、白く乾いた農道の白さのみだ。

 小さなバッタが、涼子たちの気配に気付き、草むらから飛び立って行く。

「 バッタだ~! お母さん、バッタが沢山、飛んでくぅ~! 」

 指を指して言う無邪気な千早に、涼子は何も答えず、小さく苦笑いをして済ませた。


 自然が織り成す天然色の感動も、無邪気な千早の可愛さも、今の涼子には、感じ取る事は出来なかった。 ただ単に、暑い・・・

 それだけだった。


 澄んだ水が流れる、小さなせせらぎに掛った木橋を渡る。

 やがて、緩やかな上り坂になった農道脇に立つ、大きな栗の木が見えて来た。

( 記憶にあるなぁ・・・ あの木。 お母さんに連れられて遊びに来た時、よく木登りしたっけ )

 涼子は、千早に言った。

「 千早。 あれ、栗の木よ? 」

 千早が、目を輝かせながら答えた。

「 栗? 栗って・・ あの栗? ケーキに乗ってるヤツ? 」

「 そうよ。 青いトゲトゲの塊、見えるでしょ? 秋になったら、実るのよ 」

「 凄い、凄ぉ~い! 秋になったら、また来ようね、お母さん! ねっ? 」

「 ・・またね 」

 素っ気無い返事を返す、涼子。

 栗の木の脇には、古い水車小屋もあった。 千早が駆け寄り、格子窓に手を掛けて興味津々で言う。

「 水車だ、水車だ~・・! 」

「 勝手に触らないの、もう! 怒られるでしょ! 」

 千早を、たしなめる、涼子。

 朽ちかけた木戸の隙間から小屋の中を窺い、千早が言った。

「 ん? コレ、動いてないよ? 」

 先を歩くヤエが、振り向きながら答えた。

「 秋になって、イネを刈ったら、水を入れて突くんじゃよ。 コットン、コットンってな 」

「 ふ~ん・・・ あっ、でっかいクモ! 」

 水車に掛かった、大きなクモの巣を見つけた千早。

「 そんなモノ、触らないで、千早! コッチに来なさいっ! 」

 額に浮いた汗を、ハンカチで拭いながら涼子が言った。


 しばらく行くと、農道脇の畑で、農作業していた老婦人がいた。

 ヤエと同じようなモンペを履き、頭に被った麦わら帽子の上から、手拭いを巻きつけている。 ヤエが会釈すると、彼女は、曲がった腰を伸ばしながら尋ねた。

「 孫かね? ヤエさ 」

 ヤエが答える。

「 高山の、形代さァトコ嫁いだ、淑子の娘さね 」

「 おおう・・! ほうかね。 淑子ちゃんの、娘さんかね 」

 手拭いの端で汗を拭きながら、老婦人は言った。

 形代( かたしろ )とは、涼子の旧姓である。 母親の淑子は、ここから、高山にある形代家へ嫁いだのだ。 現在は、父親も亡くなり、1人娘だった涼子も結婚して家を出た為、血は途絶えている。

 老婦人は、涼子を見ると会釈した。 涼子も、会釈を返し、挨拶をする。

「 水谷 涼子です。 こっちは、娘の千早です。 夏休みなので、しばらく大婆さまの所に、ご厄介になろうかと思って・・・ 」

「 ほうかね、ほうかね 」

 老婦人は、再び、汗を拭きながら答えると、千早の顔を見ながら続けた。

「 ほおお・・ この子は、淑子ちゃんの小さい頃に、そっくりじゃなあ~! ええのう、ヤエさは。 こんな可愛い曾孫が来てくれて 」

「 千早でっす! こんにちはぁっ! 」

 小学校の教室内のように、元気良く挨拶する千早。

「 おお~、おお~! 元気な子じゃわい。 はっはっは! 」

 老婦人は、嬉しそうに笑った。


 小さな沢伝いに、細い小道を入ると、ヤエの家がある。

 市の有形文化財で、築400年を超える旧家だ。 現在、ヤエは、1人でこの家に住んでいる。

 薬医門のような立派な門をくぐると母屋があり、離れや農機具小屋、門の脇には馬小屋まである。 かつては、馬も飼っていたのだ。 現在は、馬はおらず、干した藁などの置き場になっている。

「 わあ~、お庭、広いねえ~! 」

 門を入った千早は、嬉しそうに、庭を走り回り始めた。

「 大人しくしてなさいってば! もぉう・・! 」

 ハンカチで首筋の汗を拭きながら、涼子が、千早をたしなめるが、千早は、お構いなしのようだ。 両手を水平に広げ、飛行機を模した格好で走り回っている。

 小さなため息をつき、諦めたような表情の、涼子。 庭を横切り、玄関の方へと歩いて行った。


 母屋は、平屋だが、どっしりした旧家である。 広い庭で、放し飼いにされているニワトリが数羽、地面をついばんでいた。

( ・・ここも、ホント、久し振りね・・・ )

 早くに母親を亡くした、涼子。 20歳の頃、父親も事故により、この世を去った。 涼子にとって、唯一の身近な親戚であったのが、ヤエである。 就職の為に上京するまでは、ここへはよく来ていたが、都内で1人暮らしを始めてからは疎遠になっていた。 結婚して、新婚の年の盆に、挨拶に来たが、その後は、2年に一度くらいの訪問となり、最近は4年間ほど、全く来ていない。


 涼子は、磨りガラスが嵌った格子戸の前に立った。 年季の入った格子戸で、手がよく触れる部分は擦り減り、角が取れている。 先祖は、室町時代の落ち武者だとの事だ。 確か、奥の居間の床の間には、先祖代々の、古い甲冑が置いてあった記憶がある。

 ヤエが、格子戸を開け、言った。

「 さあ、入りなさい。 スイカが、冷えとるからの。 今、出すで、待っとれや 」

 広い、土間の玄関。 少々、薄暗いが、ひんやりとして心地良い。

「 お邪魔します 」

 クツを脱ぎ、線香の香りがする居間に入る。

 涼子は、そのまま、真っ直ぐ居間を横切り、続き間の部屋に入った。 大きな仏壇が置いてある。 その前にあった紫色の座布団に座り、鈴( りん:仏壇にある仏具で、小さな鐘の事 )を、ひとつ叩くと手を合わせた。

 千早も、涼子の横に座る。

「 お母さん、お数珠が無いよ? 」

「 無くてもいいから、手を合わせるの。 ご先祖様への、ご挨拶なのよ? 」

「 千早のコト、知ってるの? その人たち 」

「 いいから、手を合わせなさいってば 」

 居間に涼子たちが戻って来ると、切ったスイカを盆に乗せたヤエが入って来た。

「 大っきな、スイカ~! 」

 千早が言うと、ヤエは目を細めながら言った。

「 婆が、作ったんじゃぞえ? ここの縁側で食ったらええ 」

 ヤエは、縁側の板の間に盆を置くと、蚊取り線香を取り出し、火を付けた。

 早速、スイカに噛り付く千早。

 涼子が言った。

「 汁をこぼさないでよ、千早。 ちゃんと、お行儀良く。 ・・ほらっ、板の間に、タレてるじゃない! 」

「 板の間なんぞ、どうでもいいわい。 綺麗なべべを、汚したらアカンぞえ? 外で食え、外で 」

 ヤエが、ニコニコしながら言った。

 千早が聞いた。

「 お外で、食べてもいいの? 」

 ウチワで、涼子に軽く風を送りながら、ヤエは答えた。

「 日なたは暑いから、軒下でな。 そこに、ゾウリがあるじゃろ? 」

 大きな石の上に、古ぼけた草履が置いてあった。

 それを履き、軒下にしゃがみ込むと、千早は、スイカを食べ始めた。 涼子も、一つ摘み、食べる。

 ウチワを扇ぎながら、ヤエが言った。

「 幾つになったかの・・・ 小学校かえ? 」

 種を、掌に出しながら答える涼子。

「 8歳です。 もう、やんちゃで困ります 」

「 はっはっは! 子供は、やんちゃの方がええ。 淑子も、女子だてらに、よう、木に登ったモンじゃ。 ついでに、ブチ落ちてのう~・・・ 右手を、折りよったわい 」

 幼い頃、手の骨を折った事は、涼子も、母から聞いていた。 しかし、骨折の理由が、木から落ちた事であったかどうかは、もう記憶に無い。

 千早が言った。

「 種、種~! 」

 盆に、種を出そうとした千早。 ヤエが、ニコニコしながら言った。

「 タネなんぞ、そこいらに捨てたらええ 」

「 え? いいの? 」

「 構わんて 」

 庭先に向かって、ぺぺぺっ、と種を吐き出す千早。 放し飼いのニワトリが、コッコッ、と鳴きながら寄って来て、種をついばみ始めた。

「 ニワトリが、種、食べちゃったあぁ~! 」

 ニワトリを指差し、嬉しそうな、千早。 早速、スイカを頬張り、次の種を出す。

 ココッ、と鳴きながら、他のニワトリも寄って来て、ついばんだ。

「 ほ~れ、プッ! こっちも、プッ! お前、さっき食べたろ? この子にも、食べさせなよ。 プッ、プッ! 」

 ニワトリと、じゃれ合う千早の姿をしばらく見たあと、ヤエは言った。

「 ・・涼子ちゃん。 ナンか、難儀しとるんじゃないかえ? 」

「 え? 」

 涼子は、ヤエを見た。

 ウチワを扇ぎながら、じっと涼子を見つめる、ヤエ。

「 ・・・・・ 」

 無言の、涼子。 ヤエは、涼子の心情を察しているようだった。

 しばらくして、涼子は答えた。

「 仕事が忙しくて・・・ でも、忙しいのは、能力を認められているって事なの。 頑張らなくちゃ 」

 ヤエは言った。

「 本当の悩みは、もっと、違うトコにあるんじゃないかのう・・・ 」

「 ・・本当の悩み? 」

 ヤエは、何の事を示唆して言っているのだろうか。

 確かに、夫の誠一とも口論はしているが、そんな家庭内の事は、ヤエは知らないはずだ。

 ヤエは言った。

「 ワシには、よう分からんが・・・ 涼子ちゃんの顔は・・ ナニかに悩んで、疲れておる顔じゃ。 ここでゆっくり、自分を見たらええ。 何せ、自分たち以外、ここには、な~んも無いでのう 」

 優しく笑う、ヤエ。

 家庭内の事は、どこにいても、考える事くらいは出来る。 自分と、誠一との間の話である。 ここに滞在したところで、その解決策が、そう易々と見つかるとは思えないが、優しいヤエの言葉に、涼子は救われる想いを感じた。

「 ・・ゆっくり、休養させて頂きます・・・ 」

 涼子は、とりあえず、ヤエに答えるように、力無く笑って見せた。

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