彼は言った

たぴ岡

彼は言った

「いい夢を見たいものだ」

 彼はそう言ってから、穏やかすぎるくらいの表情を浮かべて、飛び降りた。僕の方は振り向かず、ただ前のみを見つめて飛び降りた。

 この高いビルの下を覗こうとは思えない。彼はきっと真下に落ちたのだろうが、それを見てしまえば僕の覚悟もなくなってしまう気がして。死を見つけてしまえば、生を握りしめたくなってしまう気がして。僕には彼の最期を見つめることはできなかった。

 彼が言った「いい夢」というのは、どういうことだったのだろうか。彼の顔自体は穏やかそのものであったが、瞳の中には少年のような輝きを見た。彼はきっと死に憧れて、死を求めて生きていたのだろう。おかしな話だ。死ぬために生きるだなんて。

 鼻で笑ってみたはいいが、僕も概ねそんなものだ。笑えるような立場ではない。同じく理想的な死を実現するために生きた人間。ため息をついて空を見上げる。

 街は眠り、静まり返っているというのに、空は正反対だ。星が瞬いては流れてゆく。美しい、と言えば聞こえはいいが、僕にとってはただうるさいだけ。そんなに彼の死が面白いか、と唾を吐きたくもなる。

「ねえ、僕も君みたいにいい夢を見られるのかな」

 初めて出会って、初めて言葉を交わした彼は、旧知の友みたいに僕に夢を語った。彼にとっては死んでからが始まりなのだそうだ。こんなクソみたいな人生を手放して、自由になってからが本番。自分が主役の舞台が始まる、とか何とか、楽しそうに話してくれた。

 一方僕は、そんな夢がある訳でもない。ただ家族に苦しめられて、いじめに泣いて、友人に裏切られて、そして人生に疲れた。それだけ。死を至高とも思っていなければ、死が始まりだとも思っていない。僕は全てを終わらせるために死を選んだまで。

 彼はきっとそんな僕を許してはくれないだろう。僕のことを聞く前に彼はこの世界から飛び降りた。僕の話は聞かずに生命の火を吹き消した。死を崇拝する彼には僕のこの気持ちはわからないだろうから、聞かずに落ちてくれて助かったかな、なんて。

 制服のジャケットを着直して、革靴を脱ぐ。彼の大きなスニーカーの隣に並べて置いて、その中に一年前に書いた遺書を入れる。何となく、彼のスニーカーの靴紐を解いて、とびきり緩くしてやる。きっと彼の魂もゆるゆると昇っていくのだろうな。羨ましい。

 深呼吸をして、もう一度空を見上げる。月が僕を嘲笑っている気がする。

「僕にもいい夢を見せてくれよ」

 呟いてから両手を広げて、身体を前に倒す。これで僕は全てから別れられる。離れられる。

 風を感じながら瞼の裏に映画が流れる。僕の人生そのものだ。こうやって見たら、案外僕はいい脇役になれていたのかもしれない。だけど、だからこれからは僕が主役だ。

 あぁ、彼の言ったことが少しわかったかもしれない。

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彼は言った たぴ岡 @milk_tea_oka

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