第2話
「おっと、此処から先には通さぬでござるよ」
サムライは、刀を構えて、不敵な笑みを浮かべた。
ここはティレン湖道。湖上に石畳の道が整備されてはいるのだが、ひとたびその石畳を踏み外しては、湖に入水するしか無くなるため、通す通さぬの小競り合いは日常茶飯事であった。
サムライの背後では、うら若き女性の薬師が、薬の材料になるという水辺の植物を熱心に採集している。
彼は今、彼女の身辺警護を請け負っているのだ。
サムライに阻まれたのは、人間よりもいささか大柄な、二足歩行の魚——シーラスと呼ばれる魔物だった。
顔面は魚そのものの造作であり、人語は解さぬはずではあるが、大きな口をパクパクさせて、抗議の意思表示をしているようだった。
そして、サムライには、相手の言わんとすることが、なんとなくわかってしまうのだ。
『おまえだって二足歩行の蛙のくせに、偉そうなことを言うな!』
——おおよそ、そんなところだろう。
サムライ——サイラスは、元はちゃきちゃきの人間で、東方生まれのサムライであった。しかし、魔女の呪いを受けたおかげで、姿形が二足歩行の蛙と化してしまったのである。
不幸中の幸いと言うべきか、首から下の骨格には大した変化は無かった。人間として蓄積した知識や記憶も奪われず、何より、人生を賭して会得した円空自在流の剣術も、骨の髄まで染み付いていたおかげか、失われることは無かった。
ただ、蛙ならぬ蛇の足、全く蛇足の内緒話であるが、元々患っていた水虫が消え去ることも無かったのである……
そして、最大の不幸はやはり、頭部の外観が蛙そのものへと変貌してしまったことである。
「致し方無し、でござるな!」
サイラスは、刀を袈裟懸けに一閃した。
シーラスはあっけなく倒れ伏し、いかにも魚らしくビチビチとのたうった。その後、二本の足でシャッキリと直立した後、そそくさと入水したのである。
シーラスの頭部のヒレが湖面より突き出したまま、す〜いす〜いと遠ざかっていく様に、サイラスはホッと一息つく。斬るまでもなく剣気を見せつけ、戦闘能力の格差を思い知らせたことで、無益な殺生を回避できたのだ。
そして、肩越しに背後を見やれば、仕事熱心な薬師殿は、相も変わらず植物採集に夢中である。
この界隈は、そもそも火の精霊のお膝元であったし、暑さの厳しい土地柄である。
民の衣服は、白く薄くゆったりとしたものが一般的である。
薬師もそうした服を纏って、色濃く豊かな茶髪を背中に流していた。
その姿に色彩的な華やかさはないが、サイラスはいつしか、若き日のラチェットを重ねていた。
ラチェットはサイラスの友人であり、魔法学に精通した才女だ。知性と気さくな人柄を兼ね備えた、頼れる人物である。
若き薬師とサイラスが知り合ったのは、お互いにアルドの仲間として……
赤くふよふよと宙を浮遊する何者かが、サムライの回想を邪魔立てした。それは、無視するには大きすぎるし、嫌に白く頑丈そうな歯牙が生え揃った口をギチギチと開閉する魔物だったのである。
「薬師殿、退がられよ!」
サイラスは声を張り上げた。此度の魔物——アイザックは空を飛ぶ。彼が立ちはだかったところで、ひらりと蛙頭を飛び越えて、薬師に襲いかかるかもしれぬのだ。
だが、彼女は、臆した様子もなくテキパキと……但し、サイラスが期待したのとは真逆の方向へと進み出たかと思うと……
「せいっ!……ねえ、ここでしょぉう♡」
手にした杖を、アイザックの口腔内に、それも舌下にブスリと突き立てたのだ。
やたらと婀娜っぽい物言いと、水際だった手際であった。
「は〜い、お注射終わりましたわよ。気持ち良くなってきたんじゃなぁ〜い?」
浮遊していたアイザックが、ズルズルとずり落ちたことで、その口内にあった「杖」の全貌が明らかとなった。魔法使いが持つような杖に偽装したそれの実態は、薬液を入れる筒だけでも人間の腕を思わせるほどに大きな注射器だったのである。
そして、アイザックは、石畳の面にゴンと「後頭部」を打ちつけたかと思うと、なぜか舌舐めずりしながら、ゴロリゴロリと転げ回ったのである。
「薬師殿、これは……?」
「お注射で、今こそ繁殖期なのだと誤解させてあげただけですわ。このアイザックの頭はもはや、婚活のことでいっぱいいっぱいです♡
それから、サイラスさん、私のことも名前で呼んでくださいまし。ポムというのは、林檎という意味で、林檎というのは知恵を象徴する果実なんですのよ〜」
薬師——ポムは、紅い唇でハートマークを形作るように微笑んだ。髪も瞳も暗褐色の彼女だが、唇だけは際立って鮮やかで艶やかなのである。
(いや〜ポム殿、今それを申されるのか?)
サイラスの眼前では、赤い本体部分が馬鹿でかい林檎を思わせるアイザックが、舌舐めずりしながら、「ん、ぁあーーっ、ぐっべえぇーーっ、しっしっしぃいーーっ」などと、湿ったあられもない鳴き声をあげているというのに……
「ポム殿……拙者の耳には、何やら雑魚の断末魔のごとく聞こえるのでござるが、これが同族の魔物にとっては、色好き歌声なのでござるか?」
「いいえ」
ポムは、あっさりと言い切った。
「勘違いして発情しただけの一個体です。しらふの同族にとっては、単なる路傍の落果でしょう」
(嗚呼、独り身の独り寝というものは……)
サイラス——男一匹、推定三十七才。言葉には託し切れないもやもやを、ぐっと呑み下したのだった。
「もう行きましょう、サイラスさん。採取は充分できましたし、アイザックに投与したお薬が切れてしまう前に」
するとサムライの蛙顔が、にわかにパァッと輝いた。
「此奴は正気に戻れるのでござるか!?」
ポムが頷くと、サイラスは、あたかも自分のことのように喜び、「さて、参ろうか♪」と足取りも軽やかに、彼女を先導して歩み去ったのだった。
これより何年か後、ニャートンという名の少年が、まさにここティレン湖道にて、アイザックの本物の繁殖期に出くわすことになった。空飛ぶ馬鹿でかい林檎のカップルが、人間のために築かれたはずの路面に不時着して、ゴロリゴロリと転がりながら鳴き交わしたのである。
「繁殖とは堕ちることである」
思春期の秘密の日記帳に、少年は書き殴った。
ところが、ニャートンは後に高名な哲学者となったため、あまりにも高名となってしまったがために、思春期の日記までもが詳らかに世の中に晒されてしまったのである。
遥か二万年以上を経て、ポムが生まれ育つことになった未来世界でも、林檎が知恵の象徴とされている起源は、実はニャートン少年の日記にこそ存在するのだった。
「はあぁん、いい湯ね♡これぞ、楽園の極みですわ〜♪」
パルシファル宮殿の大浴場に、婀娜っぽい声が反響する。
ティレン湖道で一通りの植物採集を終えた後、ポムは、宮殿内で働く人々のために設けられた浴場を満喫しているのだった。
水の便が良く、燃料にも事欠かない土地柄だけに、宮仕えの人々も、豪奢とまでは言えないものの、広々として快適な浴場を自由に利用できるのだった。
ポムはもちろん、この宮殿に就職したわけではない。
当初は、時空を超える冒険者であるアルドの仲間として、この時代を、そしてこの宮殿を訪れて人助けを行なっていた。
そうこうするうち、アルドと一緒でなくとも通行できる「時空の穴」が各地に存在することを知り、彼女自身の思惑で単身、時空を超えるようになったのである。思惑とは秘かな野望とも言う……
サイラスには、「薬の材料を採取するためだけに、いちいちアルドを煩わせたくはないんですの」と説明したら、あっさりと信用してもらえた。そのうえ、彼の都合が許す限り帯同してくれることとなったのである。
実のところ、ポムが処方した水虫の薬を大変に気に入って、薬代と称して警護を引き受けてくれたのである。
サイラスは、蛙顔を顔パスにして、この宮殿に出入りできるサムライだ。
そして、彼の友人であるラチェットは、この宮殿に勤務する魔術師で、周囲からも一目置かれる存在なのである。
しかし、ポムが大浴場で湯浴みできるようになったのは、アルドやサイラスやラチェットの口利きというわけではない。彼女自身の努力が実ったのである。
ある時は、新婚夫婦の悩み事に対応し、またある時は、恋に燃える娘に、「今夜はこれでバッチリ♡でも、次の逢瀬に繋げられるかどうかは、あなた次第ですわよ!」と叱咤激励しながら惚れ薬を握らせたりもした。
そうした積み重ねによって、部外者でありながら人望を得て、宮殿内のスタッフ用のエリアには概ね出入りできるまでになったのである。
ただ、「まだ」なのだ——
この時代のミグレイナ大陸全域で採取できる植物が製薬に役立つことは事実だが、ポムが今もっとも欲しているものは、ここパルシファル宮殿の中に存在している。ただし、今の彼女にはまだ手の届かない場所に……
「薬師のポム先生、いらっしゃいますか?実は、ご相談したいことが……」
ふと、か細い声が、浴室と脱衣場を隔てるカーテンの向こうから聞こえてきた。
どうやらまた二足歩行のモルモットがやって来たらしいと、ポムはほくそ笑んだ。
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